部分的に真実、部分的に偽物、嘘!が混じった教え、それは神の教える教えではなく神が言う”生ぬるい”から吐き出そう!と言われた教えです。
熱い=本物のイスラエルの神の教える生き方か、冷たい=人の考え付いた神の教えとは関係のないもの、神々の要素が混じった
教えに染まった生き方どちらかにして!と神が言われた。
生ぬるい〜イスラエルの神の教えと偽物の教えを混ぜる混合!
これに対して神がものすごい嫌悪を表す言葉で”忌み嫌う”と
言っている行為なのです。
冷たいか熱いかの方が、嘘か本物か、見分けが付くからです。
中途半端、コピー品、混ぜ物の偽物の教えを神の教えの中に侵入させてはならない!!!混ぜたら危険!
それが一番厄介なものなのです。本当か偽物か見分けが付かない。本物の様で実はまがい物。ずっと神がその事を避ける様に教えているのにそれが聞こえないのです。神の言葉を曲げているからです。
それらの偽物=混ぜ物の教えを神がなんと言っているのか、
”高き所の礼拝” 自分よがりの聖別、古代では異教の神々の礼拝の場で異教の神々に混じってイスラエルの神を拝む、その代表例が”金の子牛”でイスラエルの神の祭りを行った事が記されていますね。それらを”姦淫の罪”と言い、最も辛辣で厳しい言葉、
最後には”絶え失せる”とまで言いわれて、”忌み嫌う”と言う
ヘブライ語で記されているのです。
混ぜ物、姦淫の罪、イスラエルの神の言葉、教えの中に神の教えにはない教え=異物の教え、異教徒思想、異教徒信仰のものを
取り入れ混ぜる事を話しているのです。
もし聖書に記された中身が前半と後半で敵対し合う内容、年代の
新しい箇所が前の古い年代に記されたものを無効にし、否定するならば、それは神ご自身がご自身を否定し、神が誤った発言を
うっかり?した!となることに気が付いてください。
神の言葉は完全!と最初から神が人に伝えています。それなのに、途中で神の言った言葉を変える〜神の言葉は不完全?神は
神の言葉は完全!と言った事とは矛盾してしまう事に気が付きませんか?神はご自分で約束して言った事を撤回する、この様な
矛盾が出来ない、それがイスラエルの神の性質であり、神の言葉であると言う重大な大前提を揺るがさないで、神の言葉を考えないとならないのです。神は神であり人ではない!
<古代は、頑張りましょう〜行いで認められましょう?
勉強しましょう〜?でもイスラエルの歴史を通して、人はこれが出来ない事を神が証明しました。今は聖霊時代であり、古い教えは終わり、キリストの契約となりました〜?
これも西洋宗教が伝える一般的な教えです。>
ここで、ではキリストの契約とは?と質問するならば、こう答えると思います。
ただ口で告白して、信じるだけで良いのです。行いはしなくても
良いのです。あれこれこれこれするしないと言う時代は、もう終わりました。昇天以降は聖霊時代なので、律法時代は終わって
今は難しい教えを生きる必要はなくなりました。
と言うのが一般的な模範解答ではないのでしょうか?
では、なぜこの様な事を考えて言い続けているのか、1つ1つ
混同している事を紐解いて分解してみたいと思います。神の言葉=契約に関して様々な要素、側面があるので、それを知り学び、考える必要があります。そして”キリストの契約”なる新しい別物の契約はありません!
イエシュアが言われた契約は、エレミヤ31章の新しい契約と
同じであり、エレミヤが語っているその契約の中身はシナイ山で与えられた契約と同じです。何が違うのか?参加する人の数、
参加する人の霊的状態=頭脳に割礼がある〜誰も主を知ろう!と言わなくても皆知っている!そして神のトラーが腹の内側に、頭脳に刻まれている人達!そして同じ契約に人々が加え続けられる、再更新される同じシナイ山でモーセを通して与えられた
契約!と話している事が書かれているのです。
新しいとは、別物の新しいではなく、”再更新”新月の新と同じ
言葉〜ハダスです。月は毎月別物の光が天に登場するのではないのと同じ事を教えているのです。
先ず、クリスチャンの中で言われている”信じるだけで救われる”からと言うのは、それは最初から、エデンの園を出たアダムとハワに対しても同じであり、それ以降も今も未来でも全く同じであり、それは何も2000年前に初めて可能になり、始まった事ではないのです。
だから古代は律法を行う事で神の前に義とされていたなどと言う教えが異邦人の間にはありますが、それは聖書に記されている
事実とは全く異なる異邦人が考えついた教えなのです。
イエシュアは永遠の中!!!から存在し、イエシュアの贖いの血の許し、救済策はこの世の礎が出来る前から存在し既に完結していたと言う聖書に記されている重大事実を見逃しているだけなのです。
先ずは、福音は永遠の中から同じで、救い=イエシュアも1つ
道は1つしかない、贖い、救いの方法もイエシュアの子羊の贖いの血潮を通してだけ可能である!これ以外に無い!と言う神が
最初から伝えている事実だけに立って考える必要があります。
古代に映像で画像で”将来エルサレムで処刑されるイエシュアの
予告編試写会”は無かったけれど、でも神の言葉、教えで、イエシュアの贖いの血の意味を教えられていた、新しくされた事実を
教えられ受け取っていた、それらを荒野の40年の旅路の中で、聖書に登場する様々な人の人生の中の出来事を通して、しかも
実際に人の前にイエシュアも登場したり。
ミシュカン〜神殿の中で、同じイエシュア=子羊の血=贖い救いを教えていた!!!これがタナックに記されているのです。
だから、イスラエルの人々は約束の救い主が地上に来られるのを
どの時代にも、特に!祭りの時に救い主が現れる!!!!と
待望していたのです。彼ら古代イスラエルがタナックに記されたメシアの事を知っていたその通り、実際に2000年前の春の祭り、実際に過越の祭りの時にイエシュアは処刑され、昇天されましたね。
”子羊の血”は、エジプトの鴨居に塗られたそれで表されているものと同じです。本体=イエシュア、影=子羊の血。最初から同じ
福音で人は贖われ救い出され義とされる事がずっと教えられているのです。
神の祭り=定めの時、主の日=聖日、祭りは、イエシュアの福音の業を網羅してる預言的祭りだからです!未来は、秋の祭りの時にイエシュアが到来されるそれを予告編としてリハーサルとして祝っているのが秋の一連の祭りだからです。異邦人はその事を知らなかったのです。でも契約を代表として神から受け取った人達は知っていた。
今は信じるだけでいいんですよ〜!この言葉の意味、何を考えて言っているのか、様々な事実をはっきりと識別し区別する点が
あるのです。信じれば後は自分の好きな様に生きて良いと神は
そんな事いつ言われましたか?
先ず、神との関係に入っている、神と関係を結んだ間柄であると言うのは、全て100%神が提示した”契約”の上にのみ成り立っている関係である!と言う事実が聖書には記されているのです。
これ無しには、神との関係に在る証拠が無いと言う事なのです。
これは古代中近東に存在していた契約書、条約、その他を理解すれば、聖書はそれらと並行して同じ様な形態で記されている!
と言う事を知る事が出来ます。古代中近東には様々な契約書が
存在していました。譲渡契約、土地売買契約、婚姻契約、国と国との条約、宗主国条約など。
聖書は、特に”申命記”は宗主国条約の形態で書かれています。
その内容は婚姻関係を表す用語で記されているのです。
そして契約の結び方の一連が分かると聖書に記されている、契約を結ぶ事の意味、契約の種類、契約の結び方、契約を結ぶに際してどんな事が行われたのか、そして契約には印が伴う!そして
契約を結ぶにはその契約に参加する両者、それを目撃する2人
以上の証人が存在している!と言う事を知る事が出来ます。
イエスさまを信じます、神と関係を結んでいます!と言う事は
知るとも知らずとも、理解していないくても、神が提示した契約=ブリットに記された内容の関係の中に生きる関係に入ったと
言う事が存在しているのです。
その契約書の中身に書かれた事は法的効力があるのです。
だから、イザヤ書、エレミヤなどを読んでも、そこに書かれている用語は法廷用語です。法廷に出て語り合おう。イスラエルが神と結んだ契約を破った生き方をしたからです。
その契約の中身は”婚姻契約”です。
先ず、”信じるだけで良いんです”と言うその中身はアヴラハムの
契約に基づいている事を語っていると言う事を知って下さい。
これはモーセの契約の事に関してではありません!
創世記15:6アブラムは主を信じた。
主はこれを彼の義と認められた。
<ローマ4:1-8>昇天以降信仰義認が稼働したのではない、
最初から同じ。パウロはモーセの五書の事実からこれを話している!のです。
先ずは、モーセの契約の前に、”アヴラハム”の契約が存在するのです。この中身は”譲渡契約”です。神により人に一方的に与えられて、それは相手が契約を破ってもその契約の事実を神は覆されないと言うものです。これをクリスチャンは”信じるだけで良い!”と言っているものである事をはっきり理解して下さい。
神の元に戻ると言う事は信仰により受け取る以外他の方法はないからです。人の努力で獲得出来ないものを神が用意して提供した。それがイエシュアの完了の贖いの業、神が命をもって支払われた代価です。そしてそれは永遠の中から既に完結済み支払済みで存在している!のです。地上で後から実際に証明されただけです。
これを人の行いや努力で手に入れようなどと考える場合は、アプローチが違っているよ!と話しているのが、律法主義と言う言葉で表されるものです。この律法主義と言う言葉は、聖書の中、
パウロ達が居た時代にはありませんでした。
でもパウロが語る様に”改宗儀式”これは割礼と名付けられた
アヴラハムの割礼とは別の、ユダヤ人になる改宗儀式をしなければ、異邦人は天の座席がもらえないよ!と教えていた当時の
ユダヤ人ラビ達の間にあった”律法の行い”とか、”伝統の教え”とパウロやイエシュアが語っていた聖書とは関係のない、彼ら
ユダヤ人が編み出した教え=口頭トラーの事なのです。
詰まり、人は改宗儀式をして、天の名簿に名を連ねる事を獲得出来るものではないからです。人種が違えど、人はイエシュアの業を信じて受け取るだけで、イスラエルの神の家族の一員とされるからです。ここをゆっくり考えて、決して混同しない様にして下さい。神の教えを生きる〜律法主義ではありません!イエシュアを愛する人は神の言葉を生きる!とイエシュアが言われた事に
敵対する教えです。
救いを獲得するとか、神の前に特別な利益や恵みを頂くために何かすると言う、その動機、意識、行動が本来の生き方、本質的な生き方からずれている〜そう言う思考回路、行動を律法主義!と言う事、そのずれた思考回路と、神の教えを生きる事が律法主義と言う異邦人教理の教えとを混同してはならないのです。
これは良く良く考え続ければやがて真実が見てきます。
この点は更に説明が必要です。神の教えを生きる!これは神のみ旨だからです。
長いので切ります。
続く