前回の続きですが、神との関係に入った事実があるのは、
その関係は神が提示した契約の上に成立していると言う事を先ず理解する必要があります。
人の世界でも、誰かと婚姻関係にあるのは、婚姻契約〜婚姻届、法的な証拠、文書が存在するからでしょう。
それ無くしては、法的に正式な婚姻関係の中にあるとは言えない
間柄のままになるのです。
責任が伴わない無責任、不安定な間柄。
アヴラハムの契約は、譲渡契約であり、神が一方的に人に提供しているものです。婚姻契約書の前にまず、アヴラハムの契約が
存在している!その事実をはっきりと捉えて下さい。
アヴラハムは多くの子孫を得ると言われましたが
その子孫が例え契約に違反しても、神が無償で提供した事実を
撤回する事はありません。ではユダヤ人なら、どんな事して生きても良いのか?と考えるかもしれませんが、肉の生まれがすなわちアヴラハムの子孫ではない!とも言われました。
信仰により受け取る事実を生きないなら、その人達は肉の生まれがユダヤ人でも神の国を生きるに相応しい生き方を選んでません!と言う事です。これは次の契約にも繋がる事でもあります。
アヴラハムの契約の次に、モーセの契約が存在しています。
クリスチャンの教えは、この2つの契約が存在している事実、
その2つの契約の意味を全く理解しないまま、2つの契約の
内容を混同して理解しており、クリスチャン達は、このモーセの契約は無効になった!と言っているのです。
その発言の意味は、神の前に私は婚姻契約書を破棄します!と言う事を言っている、やっているのと同じである事に全く気がついてない、理解していないのです。
どうしてこんな誤解が生じるのか?聖書に記されたことを学ばない、プラスこの様な教えをする教師がいる。ユダヤ人でも
デイスペンセーション神学を信奉しその思想を土台に考える人は聖書に書かれたことを正しく読み取れず人の思想に照らし合わせて考える良い例です。
”新約聖書でのはっきりした教えはキリストの死によって無効になったのである。
律法はもはや個人個人の上には何の権威も無いものとなったのである。“
この様な思想は、聖書解釈を破壊している思想であり、聖書は
原文のまま完全なる調和を保ち存在しており、聖書のどの箇所も
互いに相反する様な教えなど一切記されされてなどいない事実を
まるで無視した勝手な解説なのです。
もし、神が永遠普遍と言いながら、後からキリストの死で神の言葉が無効になったなどと言うならば、そんな事はもちろん聖書には書いてない事ですが、神は大嘘付きであり、信頼に値しない
他の神々=悪霊と同じ!と言うことになるのです!
神の言葉は永遠普遍、永遠に固く立つ、完全である!と言う神が
伝える事と違う事を異邦人の聖書教師は言っているのです。
パウロはそんな教えをしませんでした!一時的、神の教えは権威がない??神の言葉に照らし合わせたら矛盾していると分かります。
残念ながら、異邦人の世界で教えられる聖書観は2世紀以降
この様な教えが主流に教えられ続けて浸透してしまい、ずれた
聖書観が講談から語られて信じられているのです。聖書は誤りのない神の言葉でありとクリスチャンは言いながら、どうして2つの矛盾した聖書であるなどと信じているのか不思議にも思わないのです。でもこれ聖書の語る事実ではありません!
アヴラハムの契約は無条件〜行いによるのではないのです。
信仰によりただ受け取るだけ!創世記15:6=ローマ4:1-3を
クリスチャンは言っているのです。その通りです。
義=新しくされた人の事実=聖霊を努力や行いではなくて信仰により受けるだけ。
でも、その婚姻関係に入った後、次の契約が結ばれているのです!!
その契約が神に提示され存在している事を知っていますか?
神との関係=イエシュアにより新しく生まれ変わった人達には
次の契約が存在しているのです。その契約は無条件の譲渡契約ではない、”条件付き”の契約なのです!
あなたがもし神に近づきたいのなら、神の伝える事を生きるなら
あなたはわたしの”セグラ”〜最も大事な宝となり聖別された
民となる!と神が言われたのです。条件付きです。もし神の言われる事ではない事を生きて、聖別された生き方をしないなら、
深く親密で親しい関係からは外れて距離、隔たりが出来ます!
そう言う事です。
イエシュアが”あなたを知らない!”と言われたのは、神が提示する婚姻関係の生き方をしないくせに、”主よ主よ”と主の名を利用して不思議や奇跡や様々な事をしている人に、あなたはわたしの
婚姻関係の中に生きてないから、トラーを捨てる生き方=
不法=トラー無しを生きる人たちはわたしには関係ない=知らない!と言っているのです。そうですよね。神の教え=父の教え=モーセ=トラーを無視して勝手に神の言葉を捨てて生きるのは
それは神が提示した婚姻契約の関係を生きている事ではないからです。どんな不思議な業や様々な事を主のみ名を使ってやってもあなたとは関係ない!と言っているのです。マタイ7:21-23
この2種類の契約の中身、意味の区別の理解が抜けていて、聖書に記されている事実が認識されていないから、神の言葉が廃れた、行いなど必要は無い=神の教えは生きる必要ないなどと誤解しているのです。
誤解〜古い時代は行いで義とされ、聖霊時代は信仰により受け
取る恵みの時代、聖霊時代!!いいえ、ちゃんと聖書を読んで!
パウロがローマ4:1−3で語るのは、創世記15:6の信仰義認の事実である事を先ず理解してください。昇天以降に恵みの
聖霊時代が到来したのではなく、エデンの園から神は人の中に
神の霊を吹き入れて生きるものとされた通り、最初から永遠から
神は人と共に住まい存在しているのです。簡単に言うとスイッチ
オン、神に繋がれている状態が、スイッチオフ〜電源から外れて
しまい、それを元のスイッチオンにするには、自分では出来ない!その部分を神が無償の代価を支払い成し遂げてくれた!
そしてスイッチオンに戻された人は、本来通りの神の似姿〜神の
言葉を生きる!と書いてあるのです。それなのに、信じたら神の
言葉を生きる必要は無くなった!などとトンチンカンな教えを
信じてやっているのです。
永遠から考えないと見えない、時系列上に処刑、昇天が起きたからこの時から聖霊時代=恵みの時代=贖い、救いが初めて稼働したなどと言う異邦人哲学思想で考えるから見えないのです。
アヴラハムはイエシュアの同じ業を受けて、イエシュアの日を
楽しみ喜んだ!とイエシュアが言われた意味は、永遠の中にある
信仰義認=新しく生まれ変わり聖霊を内側に受ける事実をどの
昇天以前からどの時代の人にも与えられていた実態を聖書から
読み取らないとならないのです。
アヴラハムの契約の通り、信仰により新しく生まれ変わった人=神に娶られた人は、神は神の伝える婚姻関係に入ったのです。
神の婚姻契約に入った人はどう生きるのか?その婚姻関係に生きる詳細が書かれているのがモーセの五書なのです。
この婚姻契約にある印は何であるのか?を伝えています。
でもそれを素通りして自分達の考えた生き方、印、神との特別な会合の日〜記念日〜聖日=主の日を異邦人は西洋宗教が作った
教えと取り替えてしまいました。
モーセの契約に伴う”婚姻関係を結んだ印”は何であると書かれていますか?”シャバット”です。婚姻指輪の様に外から見て分かる印、婚姻関係にある特別な関係が存在している印がシャバットです。主の口から直接語られた言葉。
出エジプト31:13「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしのシャバットを守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、
これが婚姻関係の契約を結んだ証拠の印である!!!!と神が
言われたのです。最愛の夫にもらった印、婚姻指輪を外して捨てますか?そんな事しませんよね。神が神との婚姻関係、特別な
関係に入った証拠の印が、神が与えた”シャバット”であり、
それを代々祝う!と神が伝えている言葉、それを知ろうとしない場合には、その意味は全く響かないのです。神がいつ神の子らが集合して祝う様に呼び出しているのか、神が伝えているのに、人が変えている。
トムとジェリーの漫画みたいに、方向指示のサインの向きを変えてしまって違う方向に行った。
アヴラハムの契約は無条件譲渡契約でした。
そして契約に伴う印は”割礼”です。子孫が継がれて行く臓器を通して、そしてその印は、”新しくされた人”境界線が敷かれている
聖別されている事を意味するものでもあるのです。
肉の包皮=イエシュアと共に死んで葬られた人は、自分から切り離されている。肉の頭脳に切り替わることを”包皮”に覆われると
表現しています。本物の自分=新しくされた人=イエシュアと共に復活した人なのに、肉=以前の自分の記憶、思索、行動パターンが覆い隠してしまう事を教えているのです。
ノアの契約もありますが、ノアの契約の印は”虹”です。このノアの契約の印を今LGBTQが使用していますが、神に対する冒涜、不遜です。虹は神の創造されたデザインを破壊して生きる人の
シンボルなどではありません!命を生み出さない、物理的にも
霊的にも。
モーセを通して与えられた契約は、アヴラハムの契約とは異なる
性質のものです。これは”宗主国”条約と同じ形態で書かれているものです。
申命記は宗主国条約に沿った記され方がされています。
”家臣条約”とも訳せますが、これは古代中近東に存在したヘテ人の条約に沿ったものです。
そして、これを理解するには、モーセの契約は、贖われた人、
先ずアヴラハムの契約を受け取った人だけが受け取るものなのです。この契約は、この中に記された事を生きて義とされるために与えられたのでは無い!でもクリスチャンはその様に誤解して
いるのです。堂々巡りになりますが、人は何かをして”義”とされる、新しく生まれ変わらない!と言っている事からズレないで、
ではなぜこの契約書=神の言葉を生きよ!と神がどうしてそう
言われているのか知れば良いのです。
エジプトに居た時にこの契約を受け取らなかった事でも分かります。贖われた人達で初めてイスラエルと言う国家が誕生して
その民に神が代表としてこの”契約書”を与えたのです。この中には異邦人も含まれていたのです。
花嫁になって嫁いだ家のしきたり、慣わしを私は生きませんと言う花嫁はどんな意識、態度、考えなのでしょう?夫の家にずっと
そぐわない相応しくない生き方を続けてしまいます。
神の教えに記された内容は、行いで義、許し、救いを獲得する
ためのものなどではありません!!!そして、神の教えはする、
しないの掟リストなどでもありません!神に贖われた人は、
神が創造した本来の人〜神の似姿の人に生きる事に戻る!
それが本来の人間の生き方だからです。何も難しい事を教えているのではないのです。人間本来の生き方=神の性質を生きるとは、どんなものなのかの詳細が書いてあるのが、モーセの五書なのです。この神が伝えて教えている重要な点を全く誤解していませんか?
そしてこのモーセの契約は条件付き!この契約の命に生きるのを
拒否するのもしないのも、個人個人選択権があります。
でも神は何と人に伝えて警告されましたか?
”今日あなたの前に命と死を置いた。あなたは命を選びなさい!”
と神は言われました。命を選ぶ=神が教える通りの生き方を選ぶ〜命を選ぶ事です。逆は何ですか?神の伝える事を無視し捨てた生き方をすると言う事です。賢い生き方と、賢くない生き方。
人々の教えが巷にたくさん流通します。神の示す道=教え=
トラー=イエシュアを生きる!これが神の提示した命にある
生き方だと聖書には記されています。人はそれを無効、破棄と
教えても関係ない、それは神の口から教えられている言葉とは
違うからです。それを見分けるのは、神の言葉!これを捨てたら
神に何を教えられているのか分からないのは当然のことなのです。
続く