世界に浸透した教えを覆すのは容易なことではないが神の言葉は永遠に固く立つ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

七へんげのイスラエルの神像神学、神の性質、言葉や働きを7つの時代に分けるデイスペンセーション神学思想や、それよりずっと遥か以前の1世紀後半以降、神殿崩壊以降から既に存在していたヘブライ思想とは異なる異邦人が作った神学、ヘレニズム

異教徒思想、異教神宗教背景の思想、異教神背景出身の西洋教父達が考えついた教えから来ているものなのです。

 

だから、いとも簡単に神の言葉を否定する、それでも平気!神の

言葉の権威、重さ、それらが神の言葉によれば死に値する罪で

あるとも理解していないから、その様な教えを作れるのです。

 

人の考えた神学はイコール神の言葉や真理ではないのです。

人が勝手に考えて神の言葉を解説し、神が言われた事に対して、

物申すと言う事をしているだけなのです。神の言葉は永遠に固く立ち廃らない!と神が言っているのに対して、人間が神の言葉は

一時的、暫定的、無効!だから神に向かって反逆を言い続けて

いるのです。この点を本当に聖書に基づき考え直さないとならないのです。歴史の途中で廃る神の言葉〜その教えは人間が言ってるだけ!

 

彼ら異邦人はユダヤ人の様に、パウロや弟子や、イエシュアの様に、幼い頃からトラーに馴染み親しみ教育された背景が全くない

異教徒思想が抜けないままでイスラエルの神を考えている人々で

あり、その様な人々の思想を西洋宗教では取り入れてしまったから、そんな非聖書的な神像を今に至るまで伝え続けているだけなのです。

それらの人が創作した変化する神、変化する神の言葉の聖書観や

イスラエルの神像は、神の伝える教え、言葉、真理ではない!

 

神の言葉の意味、価値、重さの根本的な意味が理解出来ない〜

異邦人の世界。

 

そして、もし2000年前以前は動物の血で仮の許しを得ると

言う、中世カトリックの教えと同じ、免罪符買えば許されると

言う性質の教えを考えているならば、最初から動物の血は一時的であろうが、永遠であろうが人の罪を消さない!神が伝えている事実を全く無視した言動発言教えだと聖書から理解しないとならないのです。

 

ではなぜエルサレムの神殿の祭壇の上でコルバンを捧げる事を教えているのか?と言う疑問が湧くでしょう。それらは神が教える言葉の意味、教え=トラーを学べば分かるのです。

神の家〜神殿の中で教えられている、モーセの五書に記されている全ては、目に見えない天の神の家、家族の生き方を地上で

物理的にそっくりそのまま再現して作られせた神の家の中で教える教育ツール、教育現場、体験型学習施設なのです。

イエシュアご自身の業を教える体験型学習施設。

キッザニアみたいに、職業体験施設と同じ。

でも異邦人は最初から聖書を誤解して読んでいるのです。

二つに分断された二つ別の契約、福音。

旧約〜律法古い契約、新約〜キリストの契約〜新しい聖霊時代の新しい教えであるなどと言っているのがそれです。

レビ記では、太古は動物の血で仮の許しが与えられたのだと言い聖書を読む前提自体が最初からズレて間違っていて、その間違った解釈で神の言葉を読んで考えているから神が伝えるコルバンの意味が見えないのです。イエシュアの業そのものが教えられているのに。

プラス神の言葉で伝えられている中身をちゃんと意味通りには

学ばないから、分からないと言う簡単な理由が存在しているのです。

大体、不要、廃れた、無効の書と聖書の最初の75%の部分を

その様に考える人々に取っては、そんな無用な部分の神の教えを熱心に追求、探求したり、考えたり、学ぼうとする訳などないし実際にそうしてなどいないと思います。

しかも、”律法に戻るのか〜”などと言って、その部分の教えは

あたかも古くて悪いもの避けるべきもの、恵のない生き方である!と言う取り扱いをする様教えられ、神の言葉に対するとんでもない勘違いをし続けているのです。

その様な思考回路は、福音書以降に記されている教えが100%

彼らの言う”律法”〜これは間違った不適切な翻訳ですが、

そこに書かれているのは、100%モーセの五書の抜粋である

と気がつかないまま読み、1世紀の人たちは皆トラーに熱心で

あり、トラーをイエシュアを信じた以降も同じ様に生きていた。使徒21:20。それが聖書に記されているのに全くその事実を

素通りして、彼らがモーセの五書のみを生きていた!と言う事実をまるで見逃して別の教えを考えているからです。

しかも1世紀のユダヤ人イエシュア信者は80万と推定されています。それらの中の誰一人として、モーセの五書など否定した事などしてない生きてない。異邦人はローマ帝国の迫害に屈して

神の言葉=ローマ帝国が死刑と、重税をかけて禁じたヘブライ独特の生き方の全て=トラーに記された生きる事から離れてやめた!それが神の言葉を曲げた本当の原因なのです。重税、投獄、餓死処刑を神の言葉=トラーを生きたら課せられてしまったら

異邦人はそこまで神の教えに特別な愛着もない、逃げた!踏み絵と同じ、神の言葉を否定したのです。”私たちは神の言葉に記された教えを生きてません。ユダヤ人とは本当に違います。

だからシャバットや祭りも祝わないし、豚もイノシシも食べます

割礼なんてもちろんしてません!などと実際に行動で示した。

だから神の聖日=主の日、祭りを祝わうのを止めたのです。

昇天以降、神が神の教えを変えたり神の創造された記念日を祝う事を人々に停止したからではないのです。

 

しかもアメリカの神学校で、非聖書的な教えが教科書となり、

使徒行伝は、神の教えは、ユダヤ人から異邦人へ、律法から

恵へ、帝国からパレスチナへ移行している過渡期の記録などと

書かれていて、そんな教えを神学生は教え込まれているのです。こんな教えは聖書の事実ではないです!これは聖書の教えなどではない!でも聖書学者が神学校の講壇からこの様に将来聖書学者牧師、宣教師、伝道者になる人達に、聖書に書かれた事実ではない教えを教えてしまっているのです。それがずっと浸透し続けて

一般の人はその様に勘違いした教えを同じ様に教えられてしまっているのです。一般人ではなく聖書を教える教師が聖書ではない事を教えている、この負の連鎖、固く断ち切るのは困難です。

でも真実=神の言葉の事実=光に照らされたら聖霊に神の言葉の事実をはっきり神の言葉から教えられるのです。

 

神の言葉は今は不必要だから、無意味なことやっても無駄。参考程度に見るだけ!今は聖霊がいるから神の言葉なんて二の次!

マルキオン〜旧約は無用、新約〜ルカ書とパウロの書簡1、2で事足ります!と言った時の異端者である彼の教えを受け継いで

しまったのです。

 

異邦人の世界で大きく欠けているのは、熱心さでも、神への思いでもない、人に親切にしよう、助け合おう、励ましあおうと言う態度や純粋な心でもなく、神の伝える真理=言葉を知ろう!探求しようと言う部分がごっそり抜けてしまい、キリストを伝えようと言う活動、伝道に邁進!その様な事に教えの重きが置かれて、そのことには大変熱心です。

でも伝える中身=神の伝える言葉、真理が、真実が部分的でも

真実でなければ、それはイエシュアを正しく伝えている事にはならなくなってしまうのです。しかも、イエシュアに繋がれた回復され新しい人とされた人は、その後一体どう生きるのか?と言うことが、余り教えられていないのです。それは神が人に伝えている教え、インストラクションを端折って捨てれば、無用と考えれば、人の考えついた、こうであろう〜と言う教えは聞いても、

実際に神が教えている本当に内容を知らないままになるからなのです。

人の生きる全貌〜大部分は、無効になったからと信じているからです。だからこの様な教えを一般に聞くのです。

 

<古代は、頑張りましょう〜行いで認められましょう?

勉強しましょう〜?でもイスラエルの歴史を通して、人がこれが出来ない事を神が証明しました。これも西洋宗教が伝える一般的な教えです。>

 

勉強しましょう?神の言葉。そうです!神が人にそう伝えているのです。神の伝えている事を追求しない、神の言葉から離れる

その状態をパウロは何と言っていますか?

”鏡の前から離れた人は、すぐに自分の姿を忘れる!”鏡の前〜

神のトラーの前から離れる人は、神が伝える生き方が何か分からなくなり、自分解釈の生き方に留まる。”

 

だから異邦人には真実が通じなくなったのではないでしょうか?

 

今は聖霊時代だから神の言葉なんて学ばなくて良いです〜と

どれほど著名な1世紀以降の西洋教父達が言い続けてきたのですか?今も同じ教えが語られているでしょう。クリスチャンの世界では。ではなぜ聖書を読むのですか?聖霊があれば神の言葉が無用なら、なんでも聖霊に教えられるなら、何も学ばなくて良いのですか?

だったら学校にも行かず、何も訓練をも受けず全て聖霊により

理解しマスターし、達人になれるとでも言うのですか?

しかも教科書=神の教え、言葉=トラー抜きにどうして聖霊が語っているなど、識別できるのですか?宗教の教えは人を非常識にし、神の言葉を理解出来ない思考回路にしてしまいます。

そんな風に神はこの世界を造ってなどいないのです。

神はこの世界の全てを神の言葉で造られたとあるのです。

神=言葉=トラー=聖霊=イエシュアです。同じ!

それを端折るとは、イエシュアを分解する事です。

 

神は寝ても覚めても神のトラーを学び、思い巡らし、考えて

神のトラーを生きよ!と、異邦人の教え=聖霊時代を語る教えとは全く違う事を教えています。

それ以前に、神の言葉=聖霊!と言う事実があるのです。ヨハネの福音書の最初にも書いてあります。イエシュア=トラー!

イエシュア=言葉!と聖書に書いてあるのに。

神の言葉を否定、無効とはイシュア=聖霊=トラーを無効!

と言っていることにも気が付いてないだけなのです。

人の体の手足をもぎ取り、ある部分を分解すると言うのと同じ。

矛盾だらけの教えは、人の教えで塗り替えカバーするとそれらしく聞こえますが。

だから罪の定義の全ての詳細も、聖別の定義も、個人で夫婦で

家族で、コミュニテイで生きる生き方や、神の呼び出している

本当の聖日も、知らないままなのです。なぜならそれはモーセの五書に完全版として記されていて、福音書以降を読んだだけでは

分からない様になっているらです。だから神の言葉を捨てる危険

があるのです。鎧兜、私達個人を夫婦、家族、コミュニテイを

守る保護ガードをみずから取り除けてしまったからです。

 

クリスチャンの中にはLGBTQがなぜダメなのか、自分の意見はこうです〜とは言えても、神の教え=トラーを捨てたら、

はっきりそれらの生き方がどうして破壊的で人類滅亡に向かう

罪であり、神の前にダメなのか説明出来ない、言えなくなって

いるのです。

神の言葉を知る人は、なぜその様な生き方が神の前にご法度であり禁じられているか理解しています。でも神の言葉のこの部分

有効、あの部分無効などと言う人間の教えを聞いて信じていれば

同様に危険に晒されてしまうのです。神の与える保護ガードを

捨てることをして、ガードにたくさん穴があいた状態だからです。

 

神の言葉を曲げる教えを異邦人が唱え続けたその結果、多くの

ユダヤ人は異邦人が編み出した教えのおかげで、異邦人が語る

メシアは偽物!と認識してしまって、福音書以降に記されている事は、偽のメシア、ユダヤ人を迫害先導する教祖の教えと思い、その部分を読むのを禁じています。

 

でももしタナックを知るユダヤ人が福音書を書いてある意味通りに読むならば、そこに記されているのは、モーセであり預言書の短い注解である事を彼らははっきり認識出来るのです。異邦人にはその逆はありません。福音書以降を読んでそこに記されているのはモーセの五書なんて分からないし、気が付かない、思いもつかない。それは聖書の最初の部分を本当に知らないからです。

 

 

 

続く