神の言葉を変形する教えが語り続けられる損失は | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

永遠に視点を合わせて神の視点から全てを見る事をする。

クーポン券は<神の救い、許し、聖霊が人の中に住まうのは>

2000年前の昇天以降のシャヴオートの日、この日から初めて救いが有効、稼働するなんて言うそう言う思考回路では、神が私達に伝える永遠の中から同じ教え、同じ福音が見えて来ません。

 

神が実際に奇跡や不思議をし、そして神ご自身が現れる様な事が

最初から聖書には記されていますが、それは神が選んだ時に特別な意味があって神が自由にされている事です。

聖霊が降ってきた〜そんな場面は使徒2章だけではありません。

そんな事言えば、同じシャヴオート〜シナイ山でのあの日、

もっと凄い出来事がおきたでしょう。約60万の人が目撃した!

ものすごい光とサウンドのショー!天から直接来た神ご自身により行われ、神が直接語った!

シナイ山の山頂に天が降りてきて、神が直接人々に現れ、

声〜コルを皆が聞いた出来事がありました。出エジプト19章。

使徒2章も、出エジプト19章も、同じ神の創造された過越から

7週間後に来る”シャヴオート”の祭りなのですよ。ギリシャ語で

ペンテコステ(第50)と呼んでいますが、ペンテコステは使徒2章に始まった祭りではない、最初から神が創造された祭りなのです。

その祭りは、聖霊降臨祭りなどと言う西洋人が名付けた名前ではなく、”シャヴオート”週と言う名(ギリシャ語ペンテコステ)

神のトラー=婚姻契約を天と地と証人として与えられた事を

祝う日!なのです。神が名付けた祭りのオリジナルの意味の名前を変えては祭りの主旨が見えなくなります。

 

神の契約書を受け取った祝いの祭りが使徒2章の祭りなのです。

あの時エルサレムの神殿に居た使徒達はあらゆる言語で語り

そしてその場に居た人たちは、この出来事とシナイ山での出来事

と繋げる事が出来たのです。

いきなり知らない外国の言葉を使徒達に語らせられるなんて聖霊の働きによるものでしょう。そしてエルサレムから今度は世界の四隅に神の教え=トラー=婚姻契約が運ばれる幕開けになったのです。

聖霊の特別な力を得なければ、使徒達は特殊、特別なミッション誰でもがする事ではない限られた人達が行う事その様な任務を

こなす事など聖霊の特別な働き、力を与えられなければ、出来ませんでした。だから、時が満ちるまで、シャブオートの祭りが

来る過越から7週間の間=穂を数える週で、使徒達はイエシュアを失った事から癒され回復されると共に次の重大ミッションに

頭脳を心を準備させる時でもあったのです。だから聖霊の特別な力を受けて、特別な仕事をする時まで、過越の祭りの後から、

次の都上りの祭りの時まで〜シャブオートまで、故郷ガリラヤに帰らないまま皆でエルサレムにそのまま滞在、留まり励まし合い続けなさいとイエシュアが言われたのです。

そして聖書を書くと言うミッションは聖霊によりなされるものです。その様な重大特殊任務、人々へタナックに記された約束の救い主が来られて、彼らと共にイエシュアが実際に生きて住まい、トラーの真髄を使徒達に教えた、その中身を伝える事、その仕事ミッションを使徒たちは受けたのです。その人達には特別な聖霊の働き、助けが必要であり必須なのです。

イエシュアが地上に来られる前の太古も全く同じです。

 

福音、救い、贖いは永遠から永遠に同じ1つのもの、1つの方法=イエシュアを通しでしか可能でなはい、誰もイエシュアを通して以外父の元に戻れない!と言う事実をイエシュアも預言者達と

同じく話しています。信仰により、神の言われた事、永遠の中から存在する”イエシュア”の業を皆古代の人達は様々な方法で教えられた、特に神の言葉を通して、預言者が神から聞いた同じ

トラー=福音を聞いて、それを実際エルサレムの神の家の中で

五感を通して体験的に救い、贖い、イエシュアの流された血潮の意味、修復の意味神の前にどう回復され癒されるのかのプロセス、神の教えが伝える癒しのカウンセリングを受けて教えられ来たのです。

血潮で罪洗い流され、神の前に新しくされている事実、そして

神に芳しい香りとして受け取られ喜ばれている、それらの意味を

タナックを通して実際に神の家の中で教えられていたのです。

それらを体験した人達が家族に周りの親族、友人にトラーを

教えたのです。ユダヤ人の生活は1日中トラーを語り生きる事は普通のことだからです。

 

それらはレビ記に詳しく記されたミシュカン=移動式神殿や固定式神殿での様々な儀式を通して実際に体験をして贖いの業、許しの意味を学び、教えられ、祭りの儀式、シャバットを通して、

イエシュアによる修復の事実を教えられていたからです。

彼らの方が今よりもよっぽど深く深くイエシュアの贖いの血の

意味、新しい人に修復される意味、福音の意味を体験的学習を

通して理解していたのです。

 

だからアヴラハムや、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ、聖書に

記されて登場する預言者や、選び出されて記されている代表の

人達を通して、同じ福音、聖霊、新しくされた事実を受け取った

証拠が記されているのです。残りの民全員の記録なんて聖書には

書けないからです。ある一部の人の記録を聖書に読んで”特別に選ばれた人だけが古代聖霊を受けていた”などと言うこれまた人間解釈の空想神学を述べているのです。

しかも、昇天以降を”聖霊時代”などと言うデイスペンセーション神学思想の思想タイトルなど付けてしまっているから、神の言葉や業が変化した、聖霊の働きが昇天以降始まったなどと信じているのです。

聖書ではなく人の教えを信じているのです。今の時代より聖書に記された太古の方がよっぽど顕著な聖霊の働きがあった事が記されています。神は永遠の中から存在し同じ神であり、神は時代

ごとに変化せず、どの時代も同じ神にアクセス出来るのです。

 

そんな事を言うならば、今は新月が現れ出る前の暗闇の世界なのです。その暗闇の意味は、神の言葉、教えや、聖霊の働きなど

太古の人達が理解していた事に比べたら、人々の目に神の真実が覆い隠されて見えなくされている状態だからです。詩篇78

だから”神の言葉は廃れた、終了、無効!”などと、神が伝えてない人の教えが浸透し、多くの異邦人はその人の教えを神の教えだなどと信じているのです。

 

もし聖霊を受けなければ、どうして人々が神を認識し、神と語り合い、神の救い贖いの意味を理解し、新しくされた事実をはっきりと理解する事が出来るのでしょうか?ダビデの告白の中で、

彼が深く深くイエシュアの贖いの血の意味、罪から清め表れた

事実、神の前に罪許され肩から重荷が降ろされた体験を賛美しているのはどうしてですか?

イエシュアが来るまで人を放置したままにする神?そんな残酷な

無慈悲な神、怒りの神が恵の神に変身するとは空想のイスラエルの神であり、聖書に記されたイスラエルの神ではく、人の肉の

頭脳で考える別物の神像です。

 

太古は聖霊が人のうちに住まわない、仮の許しがかろうじて生贄を通して、律法を行う事を通して与えられていたと言う、神が

伝える事とは違う事を言いつづけています。動物の血は一時的にも永遠にも人の罪を消さない!とはっきり神が伝える、その事実に対して人が唱える神の仮の許しが全く矛盾していることに気が付いていないからです。

聖書からズレた思想を根拠に信じて考えているから、聖書に記されている事実が見えて来ないだけなのです。イエスキリストは、昨日も今日も永遠に変わらない、同じ!とあります。神が言う事実を額面通りに受け取り、神が変化する、進化する、神の言葉も同様に変化進化するなどと言うイスラエルの神=聖書とは全く関係のない、西洋人の教えの方こそ完全削除すれば、聖書に記された真実が浮かび上がってきます。パン種除去=偽の教えは除去しないと、再び嘘偽のパン生地=非聖書的教えが膨れ上がってしまうのです。

 

神が人に伝える通り、イエシュアの業は2000年前地上に来るまでアクセス出来ない、存在しないものではないのです。

永遠の中に既に完了、完結済みで存在している!それが聖書が

伝える事実です。その事実が”シャバット”=第七日目の聖日の中で教えられ、表されているものなのです。

 

神が第七日目に止まられた。それは6日の間で全て必要な事、

創造の業、人が生きる上で必要な全ての事が完了したから。

欠けるもの、後から付け足ししなくてはならないものは何も残っていない。人は神がデザインして提供している全ての中に於いて生きる事を教えられている。それがエデン=喜びの源泉であり、神の中に住まう実態そのものである!と伝えているのです。

だから神が伝える実態とは別物を生きると、エデンから飛び出た状態、それが部分的でもなんでも本来の生き方とはズレた不具合

がある!と教えているのです。水に浸った魚は生きるけれど、

半分飛び出したりしては、具合が悪くなるのです。

 

贖い、救い、許し、イエシュアの業は永遠の中に既に完結済みで存在している。どの時代に人も神のもとに戻る道が最初から永遠の中から既に完結済み、支払い済みで用意されている、それが

シャバットで表されているのです。

安息=シャバットの安息が残されているうちに入れとあります。

どの安息に入ると教えられていますか?シャバットの安息の意味

が分からなければ、ヤコブが話している意味が分からないのです。最初から人はシャバットの安息に生きる事、イエシュアの

完了の業を受け取り神の中=エデン=喜びの事実の中で生きる事を教えられていたのです。それがタナックに記されているのです。

 

ヘブル4:1それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ

存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者があなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

4:3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

 

2000年前に初めてイエシュアの完了の業が出現したのではないことがはっきり書いてあります。同じシャバットの安息〜

イエシュアの中に住まう実態は永遠の中に、この世の礎が築かれる前に、すでに存在していた!と書いてあるのです。この箇所

天国に行くとか地獄に入るなんて考えてるから読み違えてしまうのです。だから”見ずに信じる者は幸い”とあるのです。

古代の人はアヴラハムの様に、未だ見ぬ未だ地上に来られない

永遠の中に既に完結し存在しているイエシュアの贖いの事実、

子羊の血の代価の意味を神から直接教えられて知り未来に見て

聖霊を受けて喜んだ生きていた。現代の人はアヴラハアムが

知って信じて義とされた同じイエシュアの同じ業を2000年前地上で証明されたそれを後ろに見て信じて受け取り義とされ

新しくされ聖霊を受けている。同じ事なのです!同じ事実〜永遠の中に既に用意されていたイエシュアの完了の業を過去も現在も

未来も、信仰により受け取る!同じなのです。

地上でイエシュアが処刑され復活されたたことは、”証明”です。

タナックに記された子羊の血の贖いは事実ですからと言われても

実際に物理的に地上で証明されなければ、文字と事実と1体として証拠として人は認識しないからです。

 

その様な事実が聖書に記されていてタナック=モーセの五書、

預言書、諸書のページの面の至る所に記されている事実が見えていない場合、目に見えること=地上にイエシュアが来られて、

処刑され復活したと言う事、タナックに記されている、永遠の

中から存在する贖い救いの業が地上で証明された!その事が起きた事を見て、初めて神の最終的な完成版の救済策、新しく到来した、それが新しい時代の救いだ〜などと考えてしまってるだけなのです。

神はご自分の造られた”時”に阻まれたり、影響、左右される様な

存在ではない!のです。

イエシュアはご自分が創造されたこの世の時、時空を超えて、

永遠の中に存在して時を含めてこの世の全てが物理的に創造される、この世の礎が創造される以前から、全ては神の中、永遠の中に存在し、完結していた事実がはっきりと書いてあるのです。私達も永遠の中から、創造が始まる前から、選び出されていた!と理解不可能な事を神が人に伝えています。それは昇天以降の

人達だけであるなんて書いてあるのでしょうか?

 

エペソ1:4みまえにきよく傷のない者となるようにと、

天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

 

神はご自身の口から、永遠から永遠に変わらない、神の言葉も

変わらない、神は永遠から恵、憐れみ、許しに富、愛の神である事を最初から人に紹介しているのに、人間がその神の言葉を勝手に塗り替えて変形する作業をし続けてているのです。それが宗教と言うものなのです。そんな事が神の前許される行為であると

考えるのが異邦人異教神異教徒思想背景文化の思考回路なのです。

 

 

 

続く