神の祭の全ては婚姻のプロセスを教えている 終わりの時 イエシュアが到来し天と地が1つになる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シナイ山で起きた出来事は何だったのでしょう?シャヴオート

(ペンテコステ)の祭りで表される通り、神からの正式な婚姻

契約書を天と地の証人の前で受け取った儀式なのです。

 

古代ヘブライの世界の婚姻は、実際に共に生活を始める前から

婚姻関係が結ばれている実態があります。

シャヴオートでの出来事でこの婚姻関係にある事実が公にアナウンスされ天と地を証人とし世界に正式に発表されたのです。

そして婚姻関係にある事実の印は”神からの婚姻契約書”トラー=石の板に神が自ら刻んだ神の言葉=命、神の臨在が宿る場所として渡されたのです。そしてこれが契約の箱の中に保存されたのです。この命が宿る場所=神の臨在=言葉がミシュカンの一番奥

至聖所に置かれたのです。神は最初から人と共に住まい居られて

人と関係を持ち語られ続けている事が記されています。

 

70人の長老達はシナイ山の頂上=天の中でイエシュアと共に

祝宴の宴会で食べて飲んで契りを結んだ事への祝い、宴会を盛大に開いた事が記されています。出エジプト24:11

 

出エジプト 24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。

24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。

24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である

 

マタイ26:28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

 

ここで語られている”契約の血”は全く同一の意味です。イエシュアが地上に来られる以前に既に存在している天にある完結した完了の業=イエシュアの贖いの血は、1つしか無いのです。

イエシュアは永遠から永遠に存在して、始まりがない。地上で

生まれられたけど、既に永遠の中に存在し、地上で神が語られた贖いの業の証拠を実際に見せるため、屠られるために地上に来られたのです。

それが地上で”影”としてイエシュアの贖い救いの全貌をレビ記に記されている様々なコルバン=

生贄と訳されていますが、それらを通して教えられていたもの

イエシュアそのものの業が実際に過越の祭の時に地上で人々の前で処刑され復活し贖いの業を地上でも証明されたのです。

 

注意深くイエシュアの言葉を聞いてみる事でも分かるのです。

イエシュアが処刑される以前に、イエシュアは人を癒し、そして

”あなたの罪は許された!”と宣言しているでしょう?もしイエシュアが処刑され復活するまで許しが無かった、聖霊は人の中に住まないと言うなら、イエシュアがどうしてそんな事言えるのか

意味不明じゃないですか?

子羊の贖いの代価の支払いは永遠の中に既に完了しているのです。世界の全て人が生きる全ての全部が完了して揃ったから

第七日目に神が止まれた!と言う短い言葉の中にそれが凝縮されているのです。付け足すもの何も残ってない完成!完了!

これは聖書を最初から読んでその事実を把握すれば、イエシュアの贖いの業は至る処で表されて教えられています。

 

イエシュアが過越の祭の晩餐の中、次の日に処刑される前に

弟子たちに語られた”新しい契約”とはエレミヤが語る新しい契約と同じです。エレミヤもイエシュアも語った契約とは、このシナイ山でモーセを通して神の子となった人達に与えられた中身は同じ契約=新しいと言う言葉は新月の新しいと同じ、ハダス”再更新”され続ける新しいと言う意味の新しい契約なのです。中身は同じで参加する人達の状態が違う=頭脳に割礼=イエシュアを通して贖い救われ聖霊を内側に受けて、神の国を神の教え、インストラクション通りに生きる事に同意し参加する大家族のメンバーで再更新される同じ婚姻契約と言う意味なのです。前の契約とは中身が別の契約が与えられたのならば、聖書を最初から全部書き直さなくてはならない事実に気が付いて聖書に書いてある意味通りに内容を把握し理解すれば最初から最後まで一貫して同じ事を神が伝えている事を発見します。

 

婚姻関係でも形だけ、口先だけ、法的に保証、保護を約束しないその関係を法的に維持すると言う宣誓がないなら、本当に無責任な関係の結び方です。いつでも1抜けた!と言う事が出来るし何も責任を問われないからです。でも神は永遠の保証、約束を文字で記した契約書と言う形で神の子らに与えて下さったのです。
私達神の子らと神が契約を結んでいる、その証拠が必要です。
婚姻届、婚姻証明書が無いなら、それは法的に意味が無い関係です。

シナイ山でのシャヴオートは婚姻契約を結んだ暁の神からの”

婚姻契約書”であり、それが神の子らに対する神からの保証、

約束、そして神の子らの生き方を神が口頭でモーセに伝えた

内容を文字で記した永遠の証拠なのです。

 

この婚姻契約書ですが、ヘブライの世界では”ケトウヴァ”と呼ぶ

ものです。婚姻契約書は一方的なものではありません。

両者が存在し、夫となる人は妻にどんな責任、役割、保証、助けをするのか事細かに記します。そして妻も妻となった立場として

夫に対してどの様に振る舞い生きるのか、同様に夫に対してどの様な責任を果たして行くのかそれが書かれているのです。でも今のイスラエルでも妻に対して有利に保護し優遇された事柄が記されているのです。

 

多くの異邦人が神の言葉を”人に対して生きる事が不可能な厳しいするしないと言う律法の掟リスト”を与えたなどと誤解しているのは、神との関係に入ったと言う事が何を意味するのか、神が伝える通りに理解していないからだと思います。

 

神の言葉の意図からずれている思想、思考回路こそが10の言葉の冒頭にあった神の顔に別の顔を置く、”別の顔”=イスラエルの神が伝える神像では無い別物の神像を自分の中で作り上げている事なのです。脳内なんとかと例えて言いますが、”脳内イスラエルの神”それは、聖書に記された神では無い神かもしれないのです。だから何が聖書に書いてあるのかだから確かめないとならないのです。

イスラエルの神では無い、自分想像、空想の神像=偶像=

事実ではないイスラエルの自分流に考えたイスラエルの神像を信仰の土台としてしまうのです。それらを作り出して、自分の中で勝手にイスラエルの神はこんな神、あんな神であると勝手に決め込んでいるのです。それが宗教のもと、種なのです。

だからイスラエルの神が伝える神の説明、教え、インストラクション、神とはどんなお方か、私達が誰か、神の子らとされた人達はどの様に生きるのが神の似姿に創造された人の本来の生き方に沿っているのか、神ご自身の口から人に直接教えている、それが神の言葉であるのに、その神の言葉の殆どがを排除、無視、捨てたらそれは空想の神像を作る事に走る事になってしまうのです。

 

婚姻関係に入って新しい生活を始めたら今までの生活、独身で

勝手に生きてきた時とは全く違う責任を他者に負う事でも分かると思います。個人が勝手に思い思いに生きるのが本当の自由ではないからです。イスラエルと少数の異邦人達がシナイ山の麓で神に伝えられた婚姻契約の命を生きる事に対して何と言いましたか?

出エジプト24:3 モーセはきて、主のすべての言葉と、すべての

おきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。

 

婚姻関係に入る時に言う誓いの言葉。英語圏なら結婚式の誓いで

”I do"と言い、日本語だと”誓います”と宣誓するでしょう。

忠誠を誓います!生きます!行います!と言うそれです。神との特別な関係、神の前に神の性質を生きます!と言う宣誓を民全体でしたのです。最初は。。。

でも最初から神はイスラエルが神の伝えた婚姻契約の中の生き方

から外れて、別の教え、偶像の神々の教えが混ざった生き方に

走る事を預言し伝えてもいます。

 

そしてここまでまとめて神の祭と婚姻のプロセスに関して振り返ってみます。神の記念日、祭は全部イエシュアに贖われた人達の辿る道筋であり、これらは婚姻のプロセスとも重なるものです。

春の祭り=春の収穫祭から始まり、1年の終わりの秋の祭り、

1年の全ての収穫が取り入れられ集められる時まで、この婚姻の

プロセスは終わらないのです。

 

春の祭り=花嫁となってスタートし、その人達が同じ神の大家族に歴史の中で加えられその人数が増え続け、この今の世の終わりの時には個人個人だけではなく全世界に散っている、それぞれの時代の人達全て(初穂が成長した収穫の全て)が最後に集められ終わりの時神の前に立つ日を迎え、正式に婚姻が成立した暁の

子羊の婚姻の宴が7日間開かれ(仮庵の祭り)、8日目の記念日は新しい時代に入る事、それを意味しているのです。

 

1過越で贖い出された 神のものとされた。この時から婚姻関係にある事実が始まります。

2 シャヴオート(ペンテコステ)でこの婚姻関係は全世界に向けて正式に公になったのです。

3夏から秋〜この時期は穂が成長する時期であり、実りが枝に

成って実り続ける時期を表しています。人類歴史では、最初から、そして歴史のこの世の終わりの日に向かっての時期を表しているのです。個人の信仰生活ともぴったりマッチしています。

実を付ける生き方をして約束の地を目指して生きているか。それとも神の教え無視で生きて実がならない生き方をしているのか。

4秋の祭りは、この世の終わりにイエシュアが再び地上のイスラエルに来られて王の王として戴冠式をする、その警報、シグナル
お知らせ、目覚ましコールが鳴る時が来るのです。
そして大贖罪日、ヨムキプルは最後の審判などと呼ばれますが、
神の義がこの世界中全体を覆うのです。
 
異邦人が裁きと聞くとネガテイヴなイメージしか湧きませんよね。裁かれる〜と。でも違うのです。神の義を私達はどのくらい
待ち望んでいるのでしょう?この世、邪悪な世の中で悪が大手を
振って横行し、弱者を顧みず痛めつけて、人間の司法の世界にも汚職が蔓延り正義なんて無い。人が計画し手を加えた人災で世界を破壊し、人の健康を破壊し、人の富や財産生活を破壊し、搾取取り上げている。でもそのやり方が眠っている人には分からない方法でやられているのです。いやそろそろ気がつくでしょう。
この世界の人口は約79億と言われていますが、約2600人の人達で世界の富を一手に牛耳っていると言われます。
そこまで見えなくても日本のお隣のとある国は、リーダーが国の
富をほぼほぼ全部搾取し一般の人々がどれほど困窮した生活をしているのか、富を搾取するとはトラーに全く反した生き方なのです。
その様に邪悪なものが好き勝手に富を集め使う事や、人を誘拐し
痛めつけ、虐待をし人の命をダメにして金儲けするなど、想像もつかないことが裏では当然の様にされて来た、いやもう今は表に堂々と悪が出来てて行われているのです。悪を善、善を悪と言い
神の教え、真理を語ろうものならば、社会から追放されてしまう様な世の中に移行しているのです。
そんな破壊された世を神の義で神が正しく裁き、悪者に対して試合終了!と宣言する事を待ち望んでいるのではないのでしょうか?神の裁きは本物の解放と自由、喜びをもたらすものなのです。神の義=誰も神を知ろう、神の義=神の教え、トラーを生きる人達でこの世界が満ちたらそこはシャロームであり天国です。
 

 

 

続く