地上でイエシュアの中に住まう旅路が終わり新しい時代にイエシュアと共に皆が住まう 仮庵 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨハネ1:14 そして言は肉体となりわたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

肉体となったトラー=イエシュアが”わたしたちの内に宿った”とあります。実際に2000年前地上で神であり人である

人としてイスラエルにイエシュアは住まわれました。
でもその前があるのです。神が人と共に住まわれた=イマニュエルの神は人の間で物理的に表されているものがあるのです。
神の”ミシュカン”移動式神殿、仮庵=テントです。婚姻契約が
シナイ山でイスラエルと言う民、国民全体に与えられる以前は、
神=イエシュアは個人個人に現れ出て語られていました。
出エジプトし、個人だけではなく、民全体に神は語られて現れて下さいました。そして終わりの時にイエシュアが実際に地上に来られて多くの人の前に生きて神の言葉を証明して下さったのです。
雲の柱と火の柱。そして神の契約の箱=言葉=神の臨在がミシュカンの至聖所にあり、神が直接天から下した火で24/7神の祭壇の上の火は絶える事がありませんでした。目で見える神の臨在雲と火の柱に導かれてイスラエルと少数の異邦人は荒野の40年の旅をしたのです。雲と火の柱が止まれば止まる。進めば宿営全体の人々も全員一緒に移動し進む旅路。神の言う通りを聞き行動し生きる訓練をしたのです。
 
日本語では幕屋、英語ではタブナクルTabernacleと訳されていますが、ヘブライ語では”ミシュカン”です。
この言葉だけでも細かい解説が必要ですが今はざっと書きます。
シェキナ、神の栄光が住まう場所、神の臨在が宿る場所。
ミシュカンとはשָׁכַן)=シャハン”宿る” ”住まう”、シェキナと言う言葉にも繋がっています。
イマニュエル=われらと共に住まう神は、最初から人の中に住み同じイエシュア、真理、福音が教えられているのです。神のミシュカン=神の臨在が住まう場所を通して、愛、許し、憐れみ、
忍耐、慈しみ、神の性質=イエシュアを教えられたのです。
 
出エジプト34:6
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。
 
イスラエルの神は人造神学が解説する様に七変化の神ではなく、最初から神はどんなお方か神ご自身の口から人に紹介していますから、神の言葉が絶対であり信頼に値する、神ご自身が伝える
イスラエルの神像を信じないとならないのです。怒りの神が途中で変身して恵の神になったとか、怒りの神がイエシュアの生贄で気が済んで許しの神になったとか、聖書の事実ではないイスラエルの神像を解説をしてならないのです。永遠の中から同じ!最初から憐れみ深く、恵と許しにとみ、いつくしみ深くまことに満ちた神と神ご自身が言っています。永遠の中からイエシュア=救い=贖いの救済策は完結している!その事実から考えないとなりません。円!真ん中に全てがありその周りの円のどの地点からでも神にアクセス出来るからです。
 
ミシュカンを通して実際にイエシュアの実態に地上の影を通して物理的に触れ、体験し、そしてそのイエシュアにまじかで出会ったのです。
イエシュア=言葉=トラー。そして荒野でミシュカンを通して、
恵とまことに満ちた神の実態を出エジプトしたイスラエルと
少数の異邦人達はずっと神から教えられていた、その事をヨハネはモーセの五書の事実を土台に話しているのです。
命の言葉=トラー=トラーが肉体を取ってこられたイエシュア。
 

1ヨハネ1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、

目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――

1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

 
イエシュア=ミシュカン=栄光が宿る神の臨在が住まう場所、
シナイ山=天が直接降りてきて、その天の中にモーセだけが招き入れられて神と顔と顔を合わせ語り、神から直接見せられた
”天に存在するミシュカン”神の家=神殿をモーセが見た通り、
そっくりそのままの型で地上に神の家=ミシュカンを作りなさいと神が言われました。どうして家が必要?家族には家が必要、
家族が住まい交わり関係を育む場所が必要だからです。
 
型=天の元の型があるからです。その天に実在する影、レプリカが地上で作られた神のミシュカン=移動式神の家であり、それが約束の地に入った時に固定されたエルサレムのモリヤ山=”神が教師”と言う場所に建てられたのです。
 
物理的地上のミシュカン=神の栄光、臨在が宿る神の家=イエシュアそのものの、目に見えない天の現実、イエシュアそのものを教えるレプリカ=ミシュカンに触れ続けて、そして実際に地上のイスラエルで1世紀当時イエシュアに出会って、その生き様に触れた事について記しているのです。トラー知るヘブライ人なら、この事を読んで容易に理解出来るのです。
神の子らは仮庵=タブナクル=ミシュカン=神の家=地上の中に居ながら実は目に見えない天の現実の中に今居る。イエシュアの中に今住まって居る事実をミシュカンを通して教え、そして地上の歩みがやがて個人でも全人類の歴史でも終わる時が訪れる。
人の”悪”で支配されて来たこの邪悪な時代が終わり、新しい時代イスラエルの神がエルサレムから全世界を統治し誰も互いに主を知ろうと言わなくても誰でもが割礼をされた頭脳に記された神の教え=トラーを生きる世界に移行する。イエシュアが地上に戻られ、実際に地上のエルサレムの神殿から大祭司として世界を統治する世界へ入る事をはっきり秋の祭りを通して最初から教えているのです。
最初から福音が語られ最初から終わりの時に何が起こるのか語られているのです。
 

荒野での40年の旅も実際にイスラエルと少数の異邦人が荒野

で生きた記録がありますが、荒野を旅した後に約束の地に入ります。

ここで考えて見て下さい。約束の地に入ったのに、その後もまだ

”仮庵に住むの?”その事を覚えて祝う祭りをするの?と思いませんか?

約束の地に入ったら家に定住するのでもう仮のテントになんかに宿営し続ける必要なんてないでしょうと。

イスラエルの辿った40年の荒野の旅=神の声だけを聞き分ける訓練の旅路です。これは私達イエシュアを信じた一人一人地上での旅路と全く同じです。私達イエシュアを信じる人達ももれなく約束の地を目指して地上の旅路を歩んでいるのです。

贖われて救われた人として、神の声を聞き分けて、神の性質を

生きる、それが私達の地上の旅路なのです。

そして私達はどこに向かって生きているのでしょうか?

私達イエシュアに属する一人一人も全てやがて約束の地に入る。約束の地とはイスラエルでは実際に地上の約束の地に入りイスラエルの国を獲得しました。荒野はずっと滞在する場所ではないからです。私達もこの地上の旅路もテンポラリー、一時的、仮の宿の中で生活しているのです。でもこの地上の仮の宿に住まっているとは、実際に今”イエシュアの中”に住まう現実の中にあるのです。

同時に一人一人もこの世の旅路の中で目指して進んでいるゴールは約束の地=神の国です。

今は目に見えない天の現実の中に実際に物理的に見える状態で

入り神と共に皆で永遠の中を神の性質=トラーを生きる天の国の実態が100%反映されている場所で生きる事です。

 

私達は地上で今生きています。仮庵の祭りはイエシュアそのものです。仮庵は、イエシュアそのものです。私達はこの地上の旅路を生きているけれど、でも実はこの地上で既に天の現実=イエシュア=仮庵=ミシュカン=神家の中に神と共に住まっている事を教えているのです。だから私達の毎日一瞬一瞬は天の永遠の現実に直結し繋がっているのです。だから全てがカウントされる。

いい加減に生きてもいいやどうせここは仮の場所、将来天国行くからここはどうでも良いなんて考えているのは神に何を教えられているのか分からないからです。今天の現実の中に生きている!この事実を理解したらいい加減に生きるなんて考える事はなくなるのです。

仮庵の祭では仮庵で毎日ルラブを振るのですが、このルラブを作っている植物の意味を理解すると神が何を教えているのか分かります。

ルラブは、常緑のギンバイカ=エステルのヘブライ名のハダサ

そして柳、椰子の枝、そしてエトログで作ります。

これらは何を表しているのでしょう。キンバイカはイスラエルの

高い場所にある、そしてゴツゴツした岩の多い場所にあるそこにも神は共に居られ、そしてやなぎは荒野の小さい川の流れ辺りにある。乾いた大地で神は共におられ生ける水を与え人を生かした、そしてエトログはレモンの様な植物ですが、これが長い事腐らずに持続してもつのです。神の祝福、喜びが永遠に続く事を表しています。

そしてヤシの枝もそうです。やしは喜び溢れる状態を表している木でもあります。天に向かってまっすぐに伸びて、そしてその枝は両手を広げた様に天に向かっているでしょう。

その束を、世界の四隅に向けて振るのです。世界の四隅に神の祝福を与える人達は祝福を祈り、そして天に向かって振る事、それは神が全てを天、永遠の中から統治し、そして地に向けてルラヴを振るのは神がこの地上をも、全ての時を永遠の中で統治している事を表している動作なのです。王の王、主の主。私達神の子らはそのお方が創造されて神の子らを呼び出している特別な定めの日、記念日、祭りを神が言われる通りに今も毎年毎年続けてサイクルで祝う様に神から直接伝えられているのです。

 

春の過越と秋の大贖罪日、ヨムキプル両方”贖いの血”で意味が

繋がり表されています。

イエシュアは春の過越の祭の日に処刑されました。地上で処刑された時、至聖所にかけられている幕が二つに裂けました。

神との隔たりがイエシュアの子羊の血で壊されている事を示しているものです。

子羊の血、エジプトで屠られた子羊の血=この世の礎が出来る

以前から永遠の中に屠られている子羊の血は春の過越の祭で地上で証明され表されました。この子羊の血の贖いでユダヤ人も異邦人も父の元に引き寄せられ元の場所に戻る、エデンに戻る事を教えられています。

そして子羊は既に葬られています。でも終わりの日に再びイエシュアが戻られ神の前に立つ日が来ます。

神の至聖所=神の臨在のある場所に入るには、”贖いの血”がなければ入る事が出来ない事をヨムキプルでも表しています。

過越で屠られた子羊の血の事実で、ヨムキプルは神の元に繋がれる、全世界の神の子らが集められ神の前に立つ事が出来る事を

教えているものです。大祭司が贖いの血を伴い至聖所に入る。

神の只中に入るのは、イエシュアが流された贖いの血によるのです。ヨムキプルの大祭司のために屠る雄牛の意味、身代わりの

山羊の上に全ての人の罪が移行しそして東から西が離れている様に、その身代わりの山羊も東門から出て荒野に葬られる事で

神が罪を遠ざけた事を教えています。

 

終わりの日に本物の大祭司イエシュアが来られイエシュアがされた身代わりの贖いの血で私達が罪注がれ無罪になっている事

全世界に証明するために来られる。

神の前に神の子ら全員顔と顔を合わせて相見える日がやがて来るのです。クリスチャンもそれを信じて待っているのではないのでしょうか?

秋の祭りはやがて再びイスラエルに戻られるイエシュアの再臨のリハーサルであり、神が異邦人もユダヤ人も神の大家族に属する人達皆を呼び出している日、祭りなのです。

春の祭りの一連地上で実際に起きた出来事を通して、イエシュアがされた業、イエシュアが来られる以前に実際にイスラエルの上に起きた出来事、そしてそれらが信じる者一人一人が辿る旅路である事を教えているのです。

秋の祭りは一人一人の人生、そして人類歴史の終わりの時を表す

まだ起きていない事実の預言的祭りであり、それを毎年リハーサルし準備しているのです。そしてイエシュアが来られた後も変わらずに神の創造された記念日を全世界で祝う様になるのです。

 

一人一人この世の旅路を通りそしてやがて天の現実に入る。

仮庵はイエシュアそのものです。私達は地上の仮の住まい=イエシュアの中=天の中に今生きているのです。過去に生きた人達も地上の仮の住まい=イエシュアの中に住んで次の世界へ、イエシュアと共に移動したのです。でもその仮の住まいの現実は実は

天の中=イエシュアの中に今私達信じる者は住まっている事を教えているのです。地上の生活は=この世に在って実は目に見えない天の現実の中を生きている!と言う事を教えているものです。

 

 

続く