ヨハネ1:14 そして言は肉体となりわたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
肉体となったトラー=イエシュアが”わたしたちの内に宿った”とあります。実際に2000年前地上で神であり人である
1ヨハネ1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、
目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
荒野での40年の旅も実際にイスラエルと少数の異邦人が荒野
で生きた記録がありますが、荒野を旅した後に約束の地に入ります。
ここで考えて見て下さい。約束の地に入ったのに、その後もまだ
”仮庵に住むの?”その事を覚えて祝う祭りをするの?と思いませんか?
約束の地に入ったら家に定住するのでもう仮のテントになんかに宿営し続ける必要なんてないでしょうと。
イスラエルの辿った40年の荒野の旅=神の声だけを聞き分ける訓練の旅路です。これは私達イエシュアを信じた一人一人地上での旅路と全く同じです。私達イエシュアを信じる人達ももれなく約束の地を目指して地上の旅路を歩んでいるのです。
贖われて救われた人として、神の声を聞き分けて、神の性質を
生きる、それが私達の地上の旅路なのです。
そして私達はどこに向かって生きているのでしょうか?
私達イエシュアに属する一人一人も全てやがて約束の地に入る。約束の地とはイスラエルでは実際に地上の約束の地に入りイスラエルの国を獲得しました。荒野はずっと滞在する場所ではないからです。私達もこの地上の旅路もテンポラリー、一時的、仮の宿の中で生活しているのです。でもこの地上の仮の宿に住まっているとは、実際に今”イエシュアの中”に住まう現実の中にあるのです。
同時に一人一人もこの世の旅路の中で目指して進んでいるゴールは約束の地=神の国です。
今は目に見えない天の現実の中に実際に物理的に見える状態で
入り神と共に皆で永遠の中を神の性質=トラーを生きる天の国の実態が100%反映されている場所で生きる事です。
私達は地上で今生きています。仮庵の祭りはイエシュアそのものです。仮庵は、イエシュアそのものです。私達はこの地上の旅路を生きているけれど、でも実はこの地上で既に天の現実=イエシュア=仮庵=ミシュカン=神家の中に神と共に住まっている事を教えているのです。だから私達の毎日一瞬一瞬は天の永遠の現実に直結し繋がっているのです。だから全てがカウントされる。
いい加減に生きてもいいやどうせここは仮の場所、将来天国行くからここはどうでも良いなんて考えているのは神に何を教えられているのか分からないからです。今天の現実の中に生きている!この事実を理解したらいい加減に生きるなんて考える事はなくなるのです。
仮庵の祭では仮庵で毎日ルラブを振るのですが、このルラブを作っている植物の意味を理解すると神が何を教えているのか分かります。
ルラブは、常緑のギンバイカ=エステルのヘブライ名のハダサ
そして柳、椰子の枝、そしてエトログで作ります。
これらは何を表しているのでしょう。キンバイカはイスラエルの
高い場所にある、そしてゴツゴツした岩の多い場所にあるそこにも神は共に居られ、そしてやなぎは荒野の小さい川の流れ辺りにある。乾いた大地で神は共におられ生ける水を与え人を生かした、そしてエトログはレモンの様な植物ですが、これが長い事腐らずに持続してもつのです。神の祝福、喜びが永遠に続く事を表しています。
そしてヤシの枝もそうです。やしは喜び溢れる状態を表している木でもあります。天に向かってまっすぐに伸びて、そしてその枝は両手を広げた様に天に向かっているでしょう。
その束を、世界の四隅に向けて振るのです。世界の四隅に神の祝福を与える人達は祝福を祈り、そして天に向かって振る事、それは神が全てを天、永遠の中から統治し、そして地に向けてルラヴを振るのは神がこの地上をも、全ての時を永遠の中で統治している事を表している動作なのです。王の王、主の主。私達神の子らはそのお方が創造されて神の子らを呼び出している特別な定めの日、記念日、祭りを神が言われる通りに今も毎年毎年続けてサイクルで祝う様に神から直接伝えられているのです。
春の過越と秋の大贖罪日、ヨムキプル両方”贖いの血”で意味が
繋がり表されています。
イエシュアは春の過越の祭の日に処刑されました。地上で処刑された時、至聖所にかけられている幕が二つに裂けました。
神との隔たりがイエシュアの子羊の血で壊されている事を示しているものです。
子羊の血、エジプトで屠られた子羊の血=この世の礎が出来る
以前から永遠の中に屠られている子羊の血は春の過越の祭で地上で証明され表されました。この子羊の血の贖いでユダヤ人も異邦人も父の元に引き寄せられ元の場所に戻る、エデンに戻る事を教えられています。
そして子羊は既に葬られています。でも終わりの日に再びイエシュアが戻られ神の前に立つ日が来ます。
神の至聖所=神の臨在のある場所に入るには、”贖いの血”がなければ入る事が出来ない事をヨムキプルでも表しています。
過越で屠られた子羊の血の事実で、ヨムキプルは神の元に繋がれる、全世界の神の子らが集められ神の前に立つ事が出来る事を
教えているものです。大祭司が贖いの血を伴い至聖所に入る。
神の只中に入るのは、イエシュアが流された贖いの血によるのです。ヨムキプルの大祭司のために屠る雄牛の意味、身代わりの
山羊の上に全ての人の罪が移行しそして東から西が離れている様に、その身代わりの山羊も東門から出て荒野に葬られる事で
神が罪を遠ざけた事を教えています。
終わりの日に本物の大祭司イエシュアが来られイエシュアがされた身代わりの贖いの血で私達が罪注がれ無罪になっている事
全世界に証明するために来られる。
神の前に神の子ら全員顔と顔を合わせて相見える日がやがて来るのです。クリスチャンもそれを信じて待っているのではないのでしょうか?
秋の祭りはやがて再びイスラエルに戻られるイエシュアの再臨のリハーサルであり、神が異邦人もユダヤ人も神の大家族に属する人達皆を呼び出している日、祭りなのです。
春の祭りの一連地上で実際に起きた出来事を通して、イエシュアがされた業、イエシュアが来られる以前に実際にイスラエルの上に起きた出来事、そしてそれらが信じる者一人一人が辿る旅路である事を教えているのです。
秋の祭りは一人一人の人生、そして人類歴史の終わりの時を表す
まだ起きていない事実の預言的祭りであり、それを毎年リハーサルし準備しているのです。そしてイエシュアが来られた後も変わらずに神の創造された記念日を全世界で祝う様になるのです。
一人一人この世の旅路を通りそしてやがて天の現実に入る。
仮庵はイエシュアそのものです。私達は地上の仮の住まい=イエシュアの中=天の中に今生きているのです。過去に生きた人達も地上の仮の住まい=イエシュアの中に住んで次の世界へ、イエシュアと共に移動したのです。でもその仮の住まいの現実は実は
天の中=イエシュアの中に今私達信じる者は住まっている事を教えているのです。地上の生活は=この世に在って実は目に見えない天の現実の中を生きている!と言う事を教えているものです。
続く