神の創造された記念日は全て人の生きる性質、福音、イエシュアのされた業が凝縮されて教えられているものです。
全ての記念日の中心はシャバットです。特別な祭り、都上りの祭りは、”ハグ”חַג 複数”ハギム”と言う名前です。この語源は”円”を
表すものです。円をぐるっと回り完結する。神の暦は円、サークルです。神は全ての事を永遠の中から語られて人は円の中心に
どの場所からも同じ距離で神の中に戻る事が出来るのです。
人の人生も人類の歴史も円です。繰り返し繰り返し同じサイクルを辿りながら流れて行く。人が生まれ成長しそして次世代の子供を産み育てそしてこの世を去る。そして次世代が同じサイクルを繰り返す。神の暦の中で、神のデザインしたモアデイム=神の定めの時=それが一年に渡る季節で表されその一年の暦のサイクルを人は生きて歴史が続いているのです。
そしてこの円とは喜び踊る事を意味しています。
祭りの時に皆で喜び祝い円になって踊ります。日本の学校で誰もが習ったフォークダンス”マイム マイム”は、生ける水、仮庵の祭りのテーマを喜び歌ったイザヤ書の中から歌詞が取られて曲を付けたイスラエルのサークルダンスなのです。
手を繋ぎ円で踊るでしょう。
この間のヨムテルア=ショーファーを吹く日やヨムキプルなどは単独の記念日でありハグではありません。
ハグとは大宴会を伴う祝宴のフィーストです。そしてそれらの祭りは全て収穫にまつわる意味を教える都上りの祭りです。
春の収穫=大麦、新しくされた命が成長し、秋の祭り〜収穫に
向かってその量が増え広がって行くのです。
そして秋の収穫は、1年の全ての収穫が揃い農業の季節が終わり
新しい農作業のサイクルが始まる時でもあります。
1つ1つ繋げて考えれば見えます。全ての収穫=全ての神の子らが最後に集められ、毒麦と本物を仕分けられるとイエシュアが
言われたことと同じです。穂の成長=作物の収穫=イスラエルの神の子らが加え続けられて行き、やがてここで終わり!と言う
最後の収穫の時を迎えると書かれていることと同じ事を秋の祭りで教えているのです。
春の最初の収穫は大麦の収穫=小羊イエシュアの血で贖われた人、種無しパンを食べる7日間=罪が削がれた事、新しい人にされた事、初穂=メシアに繋がれた事を教えるもの。
新しい人としての歩みの最初です。
春の最後の祭りシャヴオートは小麦の収穫。過越の時は種無しパンですが、この時にはタネありパンを2つ神に捧げるのです。
この意味は”新しいパン種”イエシュアの性質を加えられた人を表すものなのです。
そして秋の祭りは、1年の全部の収穫が揃った事を祝うもので
あり、歴史の最初から最後まで全て神の子らが秋の祭り=再臨の
時に神の前に集められ、本物の麦と毒麦が分けられ、神が統治する世界に入る新しい時代が来る事を教えているものです。
過越、シャヴオート、仮庵。この3つが三大ハギムであり、
実際にエルサレムに上る都上りの祭りであり、将来イエシュアが地上に戻られたあかつきには全ての人がエルサレムに神のハギムを祝うためにエルサレムに上って来ると書かれています。全ての人が来られなくても各国の代表者はエルサレムに来られるでしょう。イスラエルに住む全ての人が古代に全員都上りが出来ない場合、親族代表の男子がエルサレムの神殿に行ってコルバンを捧げ祝った事でも分かります。
未来預言は確実に実現します。神の言葉はもれなく全て確実に実現します。人が神の言葉をどう受け取ろうと、どう信じようと
信じまいと、どう神の言葉を解説しようとも神は神が約束公言された事を必ず実現させるからです。神の言葉に反する人の言葉、教えはその時嘘であると証明され偽物は全部その時に完全に吹き飛ぶのです。神が言われた事で神が後で神の言葉を訂正、取り消すと言うものはありません。そんな事を神がしたらいい加減で適当に口から出まかせを言う一貫性、信頼に値しない神であり、
責任感ある誠実な人間より信じるに値しない神と言う事になります。神が語られた言葉は聖霊により人を通して記され将来これらは必ず地上に実現するのです。
ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
先ず前回の記事に書いた春の祭りの意味だけ考えても神が何を
教えているのかはっきり見えます。全てのイエシュア信者が通る受け取るイエシュアの完了の業の事実を一人一人が体験し受け取り通る事を教えています。
1 子羊の血で贖い出された 過越の子羊の血
2 新しくされて義とされた人=種無し=罪が削がれた事を意味するパンを食べる7日間の祝い
3 初穂 イエシュアの復活で古い人に死んで新しくされた
4 新しくされた人で成長する7週間=穂を数える週を経る
5 シャヴオート=婚姻契約を受け取り地上で神の証人として
生きる旅路が本格的に始まる。
1〜5は全ての人が実際にその場に生きて経験した事ではありませんが、イエシュアに出会った一人一人はこの世の旅路で同じ行程を通っている事に気が付きますか?
過越の子羊の贖いの血の代価でイエシュアと共に死んで、イエシュアと共に新しい人として蘇り義とされて許しを受けて復活の命=聖霊を内側に頂いた。そして婚姻契約書=神の言葉を今度は新しい人として生きる様に変えられている事実から生きると言う事を始める。
シャヴオートの祭りは聖霊降臨祭ではありませんし、神はその祭りにその様な名前や意図を置いていません。シャヴオートは神の民とされた人として神の家族に属する神の性質=イエシュアの
性質を生きる事に加えられ、それらが文字で永遠の保証、契約、約束として神の子らに与えられた事を祝う祭なのです。
聖霊は信じて義とされた瞬間に受け取るものです。聖霊はガソリンポンプの様に”追いガソリン”の様に注入される足されるものでは無いのです。
神の性質通り、神の御旨ぴったり、神の考え意識と1体、聖霊に
浸って支配されている状態、それが聖霊に満たされている
バプテゾー=浸されて一体となっている状態だと聖書には書かれています。
太古の人もどの時代でも聖霊=イエシュアが人の中に住む事を、神の移動式神殿でも教えられているのです。
そしてシャヴオートの祭りは、実際にシナイ山で神が文字で記された婚姻契約書=石の板に記された神の言葉を与えた事を覚える
祭りなのです。そして使徒2章のシャブオートの祭りは、イスラエルだけではなく、様々な国の言語を話す異邦人たちへも同じ
トラー=神の教え、婚姻契約が世界の四隅に運ばれる幕開けだったのです。神のトラーはエルサレムからシオンから出るとある
預言の通りだからです。
イザヤ2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。トラーはシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである
ここに記されている道とは、文字で記されたトラー=神の教え=モーセを通して与えられた教え=文字であるトラーが肉体を
取って来られたイエシュアを指して話しているのです。
シャヴオートの祭りは、私達救われた一人一人が、聖霊により
神の教えを生きる事に戻り、今度は地の塩世の光として周りの人達の間で神の性質を生きて伝えていく事をも表しています。
一人一人イエシュアに属する人の歩みと重なります。
春の祭りから秋の祭りは、この世の旅路を、神の教え=性質を
生きる人生の旅路と同じでぴったりと内容実態が重なります。
そして人類の歴史とも重なる事実なのです。最初と最後がある。
今この週祝っている秋の祭りは、一年で一番最大な祭り、一年の最後を締めくくる祭りなのです。その秋の祭りの意味を考えるのです。この祭りはこの世の終わりを意味するまだ地上で実際に起きていない未来に実現する預言的祭りです。再臨、王の戴冠式、いつか神の前に皆が立つ日が訪れる。そして仮庵=イエシュアの中にこの地上で住まった後、永遠にイエシュアが統治する世界へ住まう事に入る事を表しているものです。仮庵はイエシュアそのものを表し教え続けているものなのです。
ヨハネが神=言葉が人の間に住んだと書いたくだりは何を考えて書いていると思いますか?
ヨハネ1:14 そして言は肉体となりわたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。