昨日29日の日没から7日間の仮庵に住まう神の記念日が始まりました。7と言う数字は、完結、完了、完全、修復、元に戻るなど、様々な深い意味のある数字です。
注意深く聖書を読めば、神は”7”と言う数字の意味で福音の中核を語っている事に気が付けます。
神の記念日も、修復のサイクルも全て”7”を中心に語られているからです。人が生きるのも7です。1週間は7日間。神が止まられたのは7日目であり、神が止まられた様に、人も働くのを第七日目に止まりなさいと神が言われました。神が言われたのであり人が言ったのではないのです。
一年で一番盛大で喜びマックスの祭り=仮庵の祭りに関して書いてみたいと思います。第七の月の15日から7日の間喜び楽しみ祝うとあります。
申命記16:13 打ち場と、酒ぶねから取入れをしたとき、七日のあいだ仮庵の祭を行わなければならない。
16:14 その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。
16:15 主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。
全ての記念日は最初から最後まで福音の側面、内容を網羅しているものです。
そして過越の祭りから秋の祭りまで全部繋がって1つの福音、
イエシュアの業を表しているものです。そしてこれら全て実際に地上で起きた、これから起きる預言的祭りでもあります。だから神の記念日のどこか1つだけ取り出して他を端折ると神が教えている意味が見えなくなります。ドラマを早送りしたり、飛ばしたりして見ても意味が分からない、1つの曲をどこかだけ取り出して聞いても全体が理解出来ないのと同じ事です。
だからペンテコステ1つだけ祝うと言うのは神の意図ではないのです。過越もペンテコステも、仮庵も同じ祭りです。三楽章ある曲を真ん中だけ演奏する、聴くと言うのは完全では無い。全部同じ都上りの特別な祭りなのです。それらをハグ複数でハギムと呼ぶのです。ハギムと他の記念日の違いは又別枠で書きます。
神の記念日はシャバット、新月、春秋の記念日、祭りの全部を祝って初めて1つの欠けのない=シャロームな状態、記念日を創作された神の意図通りが地上で反映、表されるものになるのです。
イエシュアも含め聖書に記されている人達は全て神の記念日の
全部を祝っていました。どれか一つだけ取り出してランダムに
祝うと言う様な事は聖書に記されている人々は行いませんでした。
その様に神の教え、神の記念日が異邦人の世界ではなし崩しにされ、祝われなくなって行った本当の理由は、異邦人が編み出した宗教の教えが入り込んで、神の言葉や神の記念日を排除して来たせいなのです。
神が神の教えや記念日を終了させたのではなく、異邦人が神が
創造された神の記念日を祝わなくなったと言うのが本当の理由です。だから神のトラーから離れた人達にヨハナンが黙示録で
”あなたははじめの愛=トラー=モーセの五書に記されたイエシュアが教えた教えから離れた!と警告したのです。
神の記念日、シャバット、新月、春、秋の祭りは全て福音、
イエシュアがされた業を表しているものです。
水、木、空=天、神の子羊、天から下った命のパン、生ける水など聖書には様々な物理的な身近なもので神ご自身=イエシュア=聖霊の実態を人の話教えています。
イエシュア=救い、福音はイエシュアが来られた2000年前に突然神が人々に明かされて教えられたのではなく、最初の最初からエデンの園からアダムとハワへ、ノア、アヴラハム、イサク、
ヤコブ、神が口頭で直接それぞれ個人個人に語られ続けて来た事が聖書の至る所に記されています。モーセを通して神は永遠の証拠として文字で記された神の契約書=婚姻契約=トラーを与えて
下さったのです。その内容は口頭でノアやアヴラハム、個人個人に伝えて来た教えと全く同じ神のトラー=教えなのです。
考えてみて下さい。古代の人達、1世紀の人達、聖書に登場する人達の教科書=テキストは100%タナックだけです。
それが神の言葉=教え=トラーだからです。それで十分、神の言葉、教えの完全版だからです。福音書〜黙示録は、タナックの後書きです。短い要約、注解であり、その中にはトラーとは異なる新しい教えなど1つも記されていません。
聖書の最初の数行だけでは全て細かい説明が全部されていないから見えてこないのですが、考えてみたら分かるのです。
エデンの園を出てカインとアベルは前後の解説もなく、何の脈略もなく、突然”コルバン”を神に前に捧げている事が書かれていますね。どうして?いつどこで彼らは神からそんな事を教えられたのでしょう?それが聖書には書かれていないけど、彼らの行動が神が教えた内容を示しているのです。神が彼らにこれこれあれこれの意味は何だからこうするのだと伝えた事が記されていないだけなのです。そしてカインとアベルは神から伝えられた意味を
知ってコルバンを捧げていたのです。
エデンの園を出たアダム一家は神から引き続きトラーを教えられて、それらを行なって生きていた事は聖書に基づき疑いない事実です。太古から様々な方法で伝えられた同じ福音、同じ神の言葉と記されているからです。
神はエデンの園を出た子供らを無法地帯に放り出し、共に住まわず、生きる上での何の指導も教えも知恵も与えないまま放置していたと思いますか?どうしてノアは神のトラーを知って神の義を生きていたのでしょうか?しかも周りが皆邪悪な生き方をしていたのに、その中でノアだけが神の義=トラーに記された義の姿を生きていたと記されているのです。義の定義、罪の定義は永遠に同じ。神が人を神の似姿に創造されたので、人間が進化変化しないなら人間の性質も神の性質通りを生きる事は変わらないからです。
人間の親でも自分の生み出した子供に対して、生きる全てに気を配り、生活の中で必要な全てを手取り足とり日々教えて行くでしょう?それならば、尚更この世界を人のために造られた神が人に神の教えを何も教えないまま、人を危険に晒したまま放置するなんて考えるのは、イスラエルの神を誤解しているからだと思います。神はエデンの園からアダムに全て教えていた様にエデンを出てからも共に居て教えたのです。エデンから流れ出る水はイエシュアを表しているのです。世界の四隅にイエシュアは人と共に居て下さった。今も神はこの世界を覆って存在しているのです。
神の存在しないスポットなどどこにも無いのです。
ただ聖書の最初の数行にその詳しい解説がなされていないだけです。聖書全体で福音、イエシュアが解説されているからです。
人間の書いた書物、話でも最初の部分で全部事の詳細が分からないでしょう。その書全部を使って解説するものだからです。
聖書も同じです。コルバンを捧げると言う意味は、神の前にどの様に近づくのか、人はエデンの園で神の言葉とは違う事を蛇から聞いてその嘘を信じて行動した結果罪が入り込み、神との間に隔たり、越えられない壁、幕が出来てしまった、だからエデンを出なくてはならなかったのです。そのままの状態ではエデン=神の中に留まれないからです。
神の前に近づくには、”コルバン”=イエシュアの贖いの血が最初から必要である事、神との関係に戻るにはイエシュアの贖い業を通して以外、神との隔たりが破かれ、神と直接関わる事は可能では無い事実がはっきり読み取れるのです。
太古から語られた同じ福音とある通り、同じ神の教えを最初からずっと教えられていたのです。
神の記念日は春から始まります。一年は1月1日から始まるのではなく、神の暦は春から始まります。第一の月=ニサンの月から一年が始まります。これはよくよく考えて行けばたくさんの真実が明かされている事を発見するのです。
奴隷であったイスラエルとそして少数の異邦人達が出エジプトしたのはいつですか?第一の月です。そしてこの過越で子羊の血の意味が最初からはっきりと教えられています。子羊の血=イエシュアの血で贖われた人達はエジプトを出て約束の地を目指して
荒野に導かれ40年の地上の旅をするのです。
バプテスマのヨハネが”見よ!神の子羊”と言いました。
ヨハネ1:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
何を考えてヨハネはその様な言葉を言ったのでしょうか?
日本人がそれを聞いたら”人間なのに動物に例えるなんて失礼”と
考えるでしょう。
更には当時そこの場所に居てその言葉を聞いた人は、罪を取り除く神の子羊の意味を理解していないと彼ら聴衆にはその意味、
話は通じません。誰にも意味の通じない事を言うのは無意味でしょう?
彼らユダヤ人が聞いて理解出来る事をヨハネは言い放ったのです。その根拠は、モーセの五書、預言書、諸書に記されていて
それらを知っている”イスラエルの失われた羊達”に対してヨハネはそう言ったのです。
神の言葉=トラー=契約を最初に世界の代表として与えられた
ユダヤ人達はモーセの五書、預言書、諸書から、荒野から神の神殿=移動式神殿で教えられて来たのです。過越の”子羊の血の贖い”約束の救い主が、永遠の中でなされた業で人は贖い出されている事実を最初から理解しているのです。
だから福音書には、この人は預言者か又はタナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されたメシアなのだろうか???と考え始めた多くのユダヤ人が当時居たことが書かれています。イエシュアに遭遇しこのお方がタナックに記されたメシアだろうと確信に至った人々=それが1世紀のイエシュア信者であり、1世紀の
イエシュア信者の殆どがユダヤ人で占められていたのです。
これが異邦人の世界とは大きな違いです。異邦人はユダヤ人の様にタナックを生まれつき教育される様な背景がなかったからです。だからイエシュアは”わたしはイスラエルの失われた羊以外の元には遣わされていない”と言ったのです。
どうして彼らは”子羊の血の贖い=イエシュア=神の子羊”を理解していたのか?
それはタナックに書かれた内容から、そして過越から秋の仮庵の祭りの中で神の子羊の贖いの意味を先祖代々、イエシュアが来られる前からずっと教えられていたからです。
タナック=モーセの五書、預言書、諸書にイエシュア、福音
イエシュアの完了の業が至る所に記されているからです。
過越で実際に起きた出来事は、”子羊の贖いの血”でイスラエルと少数の異邦人が贖い出された事を教えています。神ご自身が備えてくださる子羊の血で贖い出された事実は、同じくアヴラハムもまだ見ぬイエシュアを理解していました。その事実がイエシュアの口からも語られています。ヨハネ8:56
アヴラハムはイサクをモリヤ山=神殿が未来に作られる場所で
捧げた時の出来事でも、アヴラハムは復活のイエシュアの命の
事実、神が備えて下さる事を理解していたのです。イサクも同様に理解していたはずです。イサクは幼児ではなかったからです。自分の意志で父アヴラハムの決断に同意し従ったからです。
エルサレムのモリヤ山まで旅して上って行ったのです。信仰の一致があったのです。そうでなければ、イサクは抵抗して逃げる事も出来た年齢だからです。
アヴラハムは神の言葉=トラー=イエシュアの完了の業を信じてそれがアヴラハムの”義”とされた、その事実はどの時代も今も
イエシュアを通して義とされ新しくなった事実を信仰により受け取った、同じ事なのです。イエシュアを通して以外誰も父の元に来る=取り戻され新しい命を持つことができない!と言う永遠不変の事実、タナックに記された事実をイエシュアも語られた通りだからです。他の方法=代替えで父との隔たりが破かれ父の元に
取り戻される方法は歴史の時代で、人種により異なる救いの方法は無いと神が言われているのです。
そして”過越”の祭りで表されていることは、イエシュアを通して新しくされた人の事実です。
種無しパン=罪=要らないもの=パン種=ハメッツがそぎ落とされた人を祝う7日間の祝いで教えられているのです。種無しパン=除酵祭とは過越の日から始まる7日間、種無しパンを食べる
祝いの事です。使徒20:6にも記されています。そしてその真ん中に、”初穂”=イエシュア=復活の命に連なった新しくされた人を祝う日があるのです。それが神が創造されデザインされた神の方法で人々に福音の事実を教える定めの日です。
その初穂が成長する過程が7週間=穂を数える7週であり、7回のシャバットを祝い、シャヴオート(ペンテコステ)を迎えて
祝うのです。
続く