ユダヤ人の中には2種類のグループの人達が存在していました。1つはタナックに記された地上に来られるメシアがイエシュアである事を知らない人達、もう一つのグループは地上に2000年前に来られたメシア=イエシュアがタナックに記された約束の
メシアであると知っていた人達です。
イエシュアが昇天した後、イエシュアがされた業を祭りを祝う中で、自分達のグループの儀式の中でイエシュアのされた業を表しているものがあるのです。
ユダヤ人イエシュア信者達により、イエシュアが地上でされた業を過越の祭の一連の儀式や秋の祭の中で伝承しています。
イエシュアが地上に来られた事、そして昇天された事、そして再び来られることを過越の祭の晩餐の儀式の中に組み入れています。メシアを知らないユダヤ人達も同じ事をしますが、その儀式の意味が何なのか知りません。これは別の時に書きます。
一方、昇天以降もう一つのグループがありました。
異邦人イエシュア信者達です。1世紀当時は異邦人イエシュア信者達はごく少数でした。大多数のイエシュア信者はユダヤ人です。
異邦人達は使徒の記述でも分かる通り、ユダヤ人のシナゴグに
加えられ、ユダヤ人イエシュア信者達に繋がって、そして会堂でシャバットごとに初めてトラーを学ぶと言う人達であったのです。クリスチャンの世界では、1世紀パウロや弟子達が生きていた時代にエルサレムには既にキリスト教と言う宗教が存在し、
キリスト教と言う宗教の集まりの場所があって、そこに土曜日ではなく、皆が日曜日に集まっていたと考えていると思いますが、その様なことは起きていませんし、聖書にも記されていません。
しかも日曜日は彼らの世界では普段の労働日です。私達の感覚では月曜日と同じです。月曜日に仕事や学校を休んで昼間集まらないでしょう。イスラエルでは今も同じです。金曜日の日没に家庭でシャバットのイブの晩餐を盛大にします。
家族、親族、友人と。
そして、土曜日の昼間にはトラーの箇所を朗読し学んだりします。古代でもシャバットには会堂でトラーが読み上げられるのでそこでトラーを教えられていたのです。これが事実です。
日曜日にカトリックの建物に行き、福音書〜黙示録を読んでいた
のではないのです。使徒15:21でも”シャバットごとに異邦人も
トラーを学べば、神の教えが分かる様になるだろう”と言っている下りでも分かると思います。
ユダヤ人イエシュア信者はユダヤ人であり、その当時はパリサイ派が主流でしたからそのユダヤ人達の会堂に集いシャバットに
トラーの朗読を聞いて、家庭でシャバットの交わりをしていたのです。だからイエシュアを知らないユダヤ人達にパウロは鞭打ちの刑を受けたと告白しています。彼らの間に受け入れられるために、関係を絶たないために、パウロはその様な仕打ちを甘んじて受けたと言う意味なのです。
つまりイエシュアを救い主と信じないユダヤ人には、単なる人が神であると言う告白は神に対する冒涜と考えていたからです。
異邦人イエシュア信者もユダヤ人イエシュア信者も、そして一般のイエシュアを知らないユダヤ人も1世紀は全ての人がトラーを生きて、そしてシャバットや新月、春、秋の祭りをずっと変わらずに祝っていたのです。この事実からだけ考えて、1世紀に
ローマ・カトリックと言う教えに、イエシュアが昇天された以降
その宗教の教えにみんなが即座に移行したと考えていたら聖書の真実見えて来なくなってしまうのです。
そして、70ADのローマ帝国による神殿崩壊後、ユダヤ人は
エルサレムから追放され、やがて世界に散って行きました。
聖書翻訳で”教会”と言う造語を使われてしまっているので正しく理解するのには紛らわしい言葉なのですが、聖書には教会と言う意味の言葉はヘブライ語で、そしてギリシャ語のヘブライ語翻訳にもありません。翻訳をあてがう言葉、元の言葉の意味を全く
反映しない用語を異邦人が作った=それが教会と言う言葉であり元のヘブライ語やギリシャ語翻訳の意味を全く反映していない言葉なのです。
元の言葉は、カハール、ケヒラ=ヘブライ語、それらのヘブライ語のギリシャ語翻訳がエクレシアです。共に神の声に呼び出された人の群れと言う意味のある言葉です。コル=声神の声により呼び出され応答して集められた人々。
そのグループは創造の最初から存在し、エデンの園を飛び出した時から同じ1つの家族。イスラエルの神の1つの大家族であり、分裂した別の集合体ではないのです。歴史が進みその中に多くの
人が加え続けられて行っているのです。
だから、教会と言う造語を使うと、昇天以降に新しい教えが出て
異邦人達が大多数信じて、教会と言う新しい教えを生きる新しい別種のグループが出来たと考えられていますが、聖書にはその様な事が書かれてはいないのです。神の意図はイスラエルと異邦人が亀裂している隔ての壁のある2つの家族を創り出す事ではありません。最初から同じ1つの福音、救いはイエシュアを通して以外無い、この事実は永遠に同じだからです。それをイエシュアが
来られる前にアヴラハムの様に理解して受け取っていた残りの
民がいたのです。神に直接語られ教えられた人達が当然周りの人にも同じ福音、同じ神の教え=トラーを教え続けたのです。
しかも福音書〜黙示録に記されているイエシュア信者の大多数はユダヤ人なのです。異邦人は極少数。諸外国の群もユダヤ人
が中心の群れです。
どの時代にも神の口から伝えられた同じ教え、同じ福音を知り、イエシュアの贖いを通して義とされている事実を信仰により受け取り聖霊を内側に受けて生きていた残りの民が存在しているのです。
デイスペンセーション神学では、イスラエルと異邦人と実際に分けてそして地上で艱難を通るのはユダヤ人だけであり、天に上げられるのは異邦人イエシュア信者又はイエシュアを信じたユダヤ人だけである?と言います。そんな教え聖書にありません。
イスラエルは地上で神の国を統治し、異邦人イエシュア信者は
天で神の国を統治すると言う聖書には記されていない完全創作の教えを唱えて教えています。ではユダヤ人でイエシュアを信じたら地上と天をワープして移動し続けるのですか?空想、ファンタジーの教えの世界。この様な聖書ではない人造思想神学の教えが浸透して皆がそれが聖書だと勘違いしている事が起きてしまったのです。
自分だけ艱難を逃れる〜自分勝手=セルフィッシュな思考回路。
聖書が閉じられた後、歴史の中で異邦人イエシュア信者達が独自の教え=西洋教父達が編み出した教えをもとにグループを形成し、それがローマ帝国の宗教となり、それがカトリックと呼ばれる宗教になり、16世紀にはマルチンルターにより、カトリックの教え=非聖書的と彼らが考える教えから決別し新しいグループを作ったと言うだけで、それは神が作ったイスラエルの大家族が分裂し、神が意図する教会となったと言う事ではないのです。
これらの事を聖書の記述からはっきり区別して、聖書に記されている内容、そして黙示録に記されているものは、イスラエルの神の1つの家族であり、当時の小アジアの国々に存在していた群れなのです。
当時それぞれの群れが、神の教え=トラーをしっかりガードして生きていたのか、又は神の教えから離れてしまったのか、その
警告が記されているのです。これは歴史の中のどの時代のどの人達に関しても同じ事なのです。パウロが教えていた1世紀でも
既にグノーシス主義が入り込み、肉体は汚れている、楽しみは
悪い、霊的なことは崇高、結婚を禁じ、楽しみを排除する事は神に喜ばれるなどの思想が信仰の人々の思想の中に入り込んでいた事がパウロが警告しているのです。
そしてそれらの7つのカハールへの神の言葉は歴史の中の様々な人々に対しての同じ警告、教えなのです。
2つのカハール=群れ以外、はじめの愛から離れたとあります。2つ〜イスラエル、異邦人両者、神の婚姻契約=シナイ山ではじめて文字として永遠の保証契りとして記された愛の詳細=神の
教え=トラーをガードして生きた来た群れです。
神の教えをガードして生きる人を聖書では”残りの民”と呼んでいるのです。どの時代にも2つ、イスラエルと異邦人、神の契約をガードして生きてきた残りの民が存在しているからです。それでなければ、神の教えは完全に混ざり別物の宗教に変身してしまい、オリジナルが消えてしまいます。でも神は文字で記された
証拠=ヘブライ語で記された神の契約=トラー、預言書、諸書を完全版として保存しているのです。これこそ神業としか言えません。ヘブライ文字で記された聖書は、翻訳と異なり別の版、
バージョンはありません。文字数や言葉も全部同じです。
そして神の言葉=教えをガードして生きる人達がどの時代にも神により純粋に保存されているのです。
黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。