聖書の創世記から黙示録まで一貫して同じ教え、同じ事実が
貫かれて、神は永遠不変の真理を語っています。人の作った宗教の教えが解説する様に神は途中で神の性質を変化させたり、神の言葉や契約を削除、取り消し、変更などしません。
レビ記16章に記されている内容はヨムキプルで行われる一連の出来事です。その中で教えられている一連の儀式は、全てイエシュアの業、預言的内容を神殿の中で様々なことを通して実際に
イエシュアの永遠の中にある贖いの業の意味を体験を通して分かり易く教えているものです。
クリスチャンも、再臨があり、王の王、主の主であるイエシュアが統治する時代の幕開けがあり、最後神の前に立ち新しい時代に
入ると言う事を信じていると思います。それら聖書に記された
内容を、神は秋の祭りの中で教え、実際に神の子ら皆で実践し
リハーサルを毎年繰り返しながらその意味を深く知り、新しい人としてこの地上で生きる命のサイクルを春の祭りから秋の祭りの
一年のサイクルを通して教えているのです。
人の作った記念日ではない、神ご自身が創造され、”わたしの記念日”なので、神の子らは特別な記念日を覚えてその日を聖なる
日として祝いなさい!と神の口から直接語られているのです。
神はいつ神の代々永遠に祝われる日が終了になった!これからはそれぞれが作った記念日を祝いなさいと言われたのでしょうか?
しかも黙示録の最後まで、同じ事、同じ記念日の内容が記されているのです。
神の記念日の全ては、イスラエルの神に属する異邦人達も同様に
神に呼び出されて聖なる会合を開く、主の日なのです。
人が呼び出している日ではなく、父なる神、創造主が呼び出している日と言う事をはっきり神の言葉から理解すれば、どう行動するのか自ずから決断する事が出来るのです。
未来に再臨があり、イスラエルの神の前に立つ日が来ると言う
神の言葉の預言を信じるならば、神にこの日を祝う様に招かれている光栄を覚えるのです。
神の意図通りの生き方=神が伝える通りとは別の事をアダムが
したため、全人類の中にズレ=罪=的外れの要素が一瞬にして入り、人の性質とは違うものを学習してしまいました。
その時、アダムとハワはエデンの園の中に物理的にまだいましたが、霊的に神との隔たりが出来て、今までとは違う、直に顔と顔を合わせてぴったり一致し通じ合う関係が壊れました。人の目=頭脳は、神の見ている通りに見えなくなってしまった。
人と人の間、その究極の関係が夫婦ですが、人として一番親しい
間柄の関係のある夫婦の関係の実態も壊れてしまいました。
アダムがハワを見た瞬間”わたしの骨の骨、肉の肉”わたし自身そのものととてもロマンチックで全身全霊の思い溢れる感嘆を述べて、一体として生きていたのに、ズレたら今までにない要素が
二人の間に入り込みました。人間関係の壊れ。責める、なじる、
批判する、責任転嫁する、恥じる、神から隠れる。
罪の代償は死とあります。この死と言う意味も深いです。
死とは何を表すものでしょう。死ぬとは、本来の姿、命から切り離される事です。命に繋がる事とは逆の事です。トラーの中で教えられている、体からの漏出物、又は不具合のある体その他、
本来の状態ではない事を教えているものです。本来の姿ではないまま神の前に繋がれる事が出来ない事を教えているものです。
そして死が人を隔てます。亡くなった人と話は出来ないし、地上でもう会う事が出来ませんよね。肉体的物理的な事から死は人が決して超えられない壁、隔たりを作ってしまう事を体験的に皆
知っています。
そして、その死の原因は、”罪”的外れ、神の言われた事とは違う事を信じて行動した事から入って来ました。そして今も同じです。神が言われた事、人の本来の性質とは違う事を考え生きたら隔たり、死、破壊が入り込みます。罪は人と人を隔て、神と人を隔てるものなのです。
だからその罪のパン種を抱えたままでは隔たりが出来たままに
なってしまう、破壊に向かうと教えています。
神の前に、神の中に引き寄せられるには、”血”が流されないなら
それは人の力では決して解消できない事、神のもとには戻れない事をこの神殿の中の儀式で教えられています。
罪は神と人と、そして本来の自分自身の生き方、性質に隔たり、壁を作るものです。そして私達新しくされた人は、たとえコケたとしても、本当の性質は元の姿=神の似姿が取り戻されているから、本来の性質に戻ってその実態を生きなさいと教えています。それらを生きるのは、一年に渡り神が特注でそれぞれの人に教える”課題”を通して、何が自分の本当の生き方を阻んでいる、ゆがみ、ひずみ、傷、障害物なのか、それを1つ1つ神の時、モアデイム=神の呼び出している定めの日を生きるサイクルの中で教えているのです。
神の声の下に来て、神の声の中で神の声を聞くなら、何を指摘され、何を教えられているのか、はっきり気が付きます。
日々起きてくる、様々な事件、人間関係の中の問題、その他の
自分に取り嬉しくない出来事を通して、自分の反応や対応の中で
気が付いて行くものです。
ヨムキプルの一連の出来事はイエシュアの業を理解すれば、
この儀式を通して事細かに最初からイエシュアがされる贖いの業を教えられている事に気が付くのです。毎年ヨムキプルを祝いますが、子羊の血の贖いも一度だけ、再臨も1度、大贖罪日、神の前に実際に立つのも1度です。
でもこれを毎年毎年何度もリハーサルし続けて学ぶ様に神が教えているのです。
昇天以降まだ神殿がエルサレムに存在していたので、パウロ達や
弟子達、当時1世紀のユダヤ人イエシュア信者、そしてごく少数の異邦人イエシュア信者と、そしてイエシュアを知らないユダヤ人達も神殿で日々のコルバンを捧げたり、シャバット、春と秋の祭りをエルサレムの神殿で祝っていました。
古代の人達はタナック=モーセの五書、預言書、諸書から、
シャバット、新月、春=過越、種無しパン、初穂、穂を数える
7週、そしてシャブオート、秋はヨムテルア、ヨムキプル、仮庵の祭り、第8日目の祝いを通して、イエシュアの業を教えられていました。だから、イエシュアが実際に処刑され昇天されたその意味をはっきり地上でも証明された事を通して、聖書を記した
預言者達がイエシュアの贖いをはっきりと理解していた様に、
一般の人達もより一層深く理解して行ったのです。昇天以降も
引き続き、エルサレムの神殿中心に、シャバット、新月、祭りが祝われていたのです。
70ADにローマ帝国に神殿を崩壊され、ユダヤ人がエルサレムから追放される事が起きるまでは神殿が機能していたからです。
パウロの書簡が聖書として残されています。パウロが亡くなるまで活動していたのは、エルサレムの神殿が拠点でした。
そして、ユダヤ人と少数の異邦人イエシュア信者達は全てエルサレムを拠点としてトラーを学び、パウロからトラーの様々な教えを受けていたのです。パウロの書簡は、当時パリサイ派の中にあった教育方法で、生徒からの質問を書簡で回答して教える方法
それが諸外国からエルサレムのパウロの当てられた彼らの住む場所で起きている問題の対処法を、トラーからパウロが教え回答
していたものなのです。
トラーの学びの本拠地エルサレムが拠点であり、エルサレムからから諸外国へパウロは神の教え=トラーを教えに旅し、そして
エルサレムに戻り報告し、そして全てがエルサレムの神殿中心に回っていたのです。
エルサレムにも諸外国にも、ローマ教、カトリックやプロテスタントと言う宗教の教えや、現代の様な教会と呼ばれるグループなどは存在していない時代です。全ての人達はイエシュアが教えた
モーセの五書通りを聞いて学び生きて実践し、神の祭り=レビ記23章の全てを祝っていた人達しか存在していない、その事実から考えたら見えて来ます。異邦人がはじめの愛=モーセの五書に
記された教えから離れ、パウロの様なユダヤ人教師達とも決別して、トラーを否定した違う宗教の異邦人教師達の教えに移行しのはずっと後2世紀以降だからです。
ミカ 4:2 多くの国民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道に歩もう」と。トラーはシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
福音とモーセの五書=トラーが別物だと考えていたら聖書に記されている真実は見えません。福音はトラーの中に記されているのです。福音はタナック=トラー、預言書、諸書に記されていて、福音書〜黙示録はタナックの注解にすぎないからです。なになに過ぎないと言うと否定的に聞こえますが、聖書を縦にして、眺めても分かるでしょう。最初の部分は75%以上を占めていて、それが聖書、聖書に記された聖書と書かれているものです。
最初の部分に全て必要な教えの完全版が書かれているからです。そして最後の25%は、最初の75%を短く短く解説=後書きの補助解説として記されているものだからです。
聖書の最後に初めて新しい教えや今まで聞かれなかった真理が
書かれているのではないのです。
タナックを記した預言者がイエシュアを理解しないまま神の言葉を書き記したなどと考えていたら見えませんが、ちゃんと書かれている内容を、ヘブライ語で記された意味を知れば、そこには
イエシュアが至る所に記されている事を発見します。
7と言う数字だけでも完了の業=イエシュアの完了の業を表しているのです。全ては7日までに完成!イエシュアの業は最初から
永遠の中に完結存在して、それが聖書の中で細かく教えられているからです。創世記の最初の3章にテーマの全て凝縮されていて
その後の聖書箇所全てで、神の教えを解説しているのです。
1世紀のイエシュア信者は殆どがユダヤ人でした。異邦人は
極少でした。そして諸外国に居た人達も、ユダヤ人が中心です。
異邦人がトラーをユダヤ人の様に生まれた時から親や教師に学ぶなどと言う事はなかったからです。
諸外国でもユダヤ人が中心の集会。どう言う事かと言うと、日本人でも諸外国に今住んでいたら、外国に住む日本人で日本に住む日本人とは違います。特に何世代にも海外に定住する日本人、
北米、南米に移民した人達など、日本語など話せないし、2代目でも、日本語がおぼつかない人達はたくさんいます。
その様に、諸外国に住むユダヤ人、諸外国の文化や言葉を知る
人達でも契約を受け継ぐ民として、シャバットや祭りにはトラーを学んでいたのですが、それでもトラーを正しく理解するには
パウロの様な教師に学ばないと分からない事がたくさんあったのです。
ユダヤ人は神殿が崩壊したので、”コルバンの贖いの血”が神殿で
捧げられなくなり、一連の儀式も出来なくなりました。
それは神殿以外では、神のコルバンを捧げてはならないと神が
言われたからです。
そして、エルサレムからローマにより追放され、世界中にユダヤ人が散って行き、神殿も無い状態なので、今の様な”ユダヤ教”が出来たのです。神殿の儀式、コルバンの代わりに、行い=ミツボット=生贄を捧げられない代替えの儀式、祈りを通してそれを
すると言う教えを作ったのです。