ヨムキプルの悔恨 悲しみは後ろへ置き去り 仮庵の祭りの準備 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書には最初から福音が書かれています。創世記の最初の3章に

聖書の全てのテーマが記されています。

そしてその後の聖書の全てでその三章の解説をしているのです。

 

もっと厳密に言えば、モーセの五書が神の言葉=教えの完全版

です。そこに神が人に伝える神の似姿に造られた人の生き方の

詳細の全てが書かれています。この中には法的な事ももちろん

記されています。なぜならこれはイスラエル、神の国の国家憲法でもあるからです。法律も記されています。人に対しての違反、どの様な事が犯罪なのか、裁判がどの様に行われるのか、事件の証人は何人必要かその他諸々事細かに神からの指示が記されています。

神の定義する罪=ハタ=的外れの状態、意味、内容の全ても

モーセの五書にしか完全版は記されていません。

人の生き方の全てを記した完全版もモーセの五書以外には事細かに記されていません。聖別の意味、聖別された人の生き方、

そして聖別された神の記念日の完全版のスケジュールもモーセの五書に記され、それ以外の場所に完全版は記されていません。

ヨシュア記以降はトラーの抜粋しか記されていません。

だから尚更福音書以降だけを読んでも、罪とは何か?と言う内容、的ハズレな生き方の全貌、神が伝える人の生き方の全て全貌は福音書以降だけを読んでも実は細かい事は分からないのです。最初に記されている神が解説している全部をちゃんと熟知し、理解し、実践的に知っている前提で、福音書以降は補足の後書きとして書かれているだけだからです。

 

聖書の最初と最後に書いてある事が違う!と言う異邦人教父達が編み出した神話、空想を信じて、更には聖書の最初の部分に何が書いてあるのか読まない、学ばない、ユダヤ人の様に原典聖書に書いてある意味通りに1年を通して満遍なく学び教えられる実際に生きると言う教育背景が異邦人の世界には定着していないので、イエシュアを信じて何十年も経つのに聖書に、何が書いて

あるのか読まない、知らないと言う異邦人信者は全世界に無数に

存在しているのです。救い、贖いの意味は?と聞いてもはっきり説明出来ないし、分からないのです。

聖書を教えていても分からない、それは聖書には何が書いてあるのか、聖書に書いてある通りに学び続けていないと言う単純な
原因、理由があるからです。人の思想、宗教定義の解説はしても
聖書からダイレクトに書かれている内容を解説すると言うのは
絶え間ない訓練、学び、実践が無いと出来るものではないのです。どの分野でも同じ事なのです。
 
でも異邦人クリスチャンの中で”聖書だけに戻ろう!”と考えて
探求して行く人達、神の言葉の真実の点と点だけを繋げ続ける場合には、聖書に書いてある事、書いてない事が見えてくるのです。聖書だけに戻ろうと考えている時点で、聖霊が聖霊により
書かれた神の言葉を探求する様に促しているからです。
聖書だけに戻ろうと言うならば、神の言葉をどうして終了と言うのだろう?どうして否定して神の言葉を古い、無用などと言い、神の言葉を生きる事は悪いことの様に考えているのだろう?それ以前に神の言葉は古いも新しいも変化も進化も変更、削除もないと言う事に神の言葉から全く気が付いていないからその様に考えているのです。
そして、ある人は聖書は偽りのない神の言葉、変化しないと言いながら、同時に神の言葉は変化したと言い信じて実践=削除、
否定している、神の言葉を塗り替えて曲げた宗教の教理を信じている大きな矛盾に気が付いていないのです。
神の言葉は聖霊により書かれ、神の言葉は神ご自身=聖霊そのものイエシュアそのものなのです。神の言葉から真実を指摘されて真実に基づき考えると言う事を始められるのです。そして今神の言葉は永遠不変であると言うシンプルな事実にたどり着く多くの異邦人が今いるのです。
聖書に書いてある事を曲げて読む様に教えられる事自体が異常事態だと聖書に基づき気がつかないとならないのです。
敗戦後日本の学校で教科書に”墨塗り”をして消すと言う事がありましたが、実際に聖書に墨塗りしなくても、頭の中で書いてある
事実を墨塗りして、昇天以降はこの箇所の神の言葉は終了、あの教えも終了と言い続けている行為は、神の言葉に対する”墨塗り行為”をしている事なのです。神の言葉はどの言葉もどの箇所も全て永遠に真実でありイエシュアご自身=聖霊=神であり、訂正も
否定も、改良、変更不要!神の言葉は永遠に堅く立つ!と言う
神の言葉を信じているのか?それとも否定しているのか?それはその人の思索、行動で現れ出てくるのです。
 
学校の教科書を書いてある通りに読まない様に教える、真実、
事実ではなく自分の思想や考えを教える教師はクビになると思います。人が知らなくてはいけない事は神が伝える真理、事実、
真実であり人の考えた思いつきの思想、宗教や空想ではないからです。
真実を伝えない教えない事は、正しい情報を生徒に提供する事を怠っている行為です。
偽情報を聞いてそれを真実だとしては、真実を発見する正しい
学習、自分の知識を深め広げる発展など出来ません。
その様な教師から学んだら真実から遠ざかってしまいます。
 
聖書=神の言葉を曲げるその根底には、神の言葉は最初これこれと言い、昇天以降に別の教えに変わったのでこれこれに変わったと、不真実で不正確、人が考えた発想を根拠に解説する聖書概念を信じているから、聖書の最初と最後の教えが違うと言う神の言葉を否定する教え、行為に何の矛盾も感じないのだと思います。
 
今現在多くのユダヤ人も1世紀の時以上にイエシュアがタナックに記されたメシアである事を発見しイエシュアに出会う事が起きてます。
終わりの時に!それが起きると預言にある通り。最初ではなく、終わりの時に起きると預言されている通りの事が起きるのは当然の事。
そして、同時に異邦人も、はじめの愛=神の婚姻契約=トラーに
記された父の教え、イエシュアが教えて生きた永遠不変の神の言葉は永遠に不変で真実である!と気が付き始めている事が起きているのです。
2世紀以降ローマの宗教思想に完全に移動した異邦人も最後は
イスラエルの神、1つの太古から語られている同じ福音、同じ
教えに戻る!とあるのです。そしてそれ以降、次の世代は神の教えを忘れない!とあるのです。新しい時代に入る。
30年前に、ユダヤ人のイエシュア信者以外、異邦人の世界で
救い主を”イエシュア”などと呼ぶ人もなく、ヘブライ語から直接の聖書の解説をする事なども1度も聞いたことがない、その様な
環境は異邦人の周りには全くありませんでした。
 
終わりの時代がどんどん進み、神の預言通り皆が元の実態=神の教え、イエシュアを通して贖い救いを受ける事実に戻っている、いやイスラエルの神がそうされているのだとはっきり認められるのです。
最後の時に多くのユダヤ人も約束のメシアがイエシュアである事に気が付く時が来ると預言されています。
最初ではない、最後です。
この事実も、トラーを読めば教えられています。ヨセフを妬みから排除しようとした兄弟達が、ヨセフがエジプトに連れて行かれて生きている事をも知らず、そのヨセフの元に飢饉が来たので
食料を買いに下って行きました。兄弟達は最初ヨセフが自分達の弟であるとは全く気が付きませんでした。
 
兄弟達の真実を見る目が塞がれていたからです。ここでも教えられている事は、最初多くのユダヤ人はイエシュアが約束のメシアである事に気が付けないと言う事と重なります。でもこれは全てのユダヤ人ではない事を認識する必要があるのです。
1世紀から今までひっそり表に出てこない残りの民であるユダヤ人イエシュア信者達は1世紀から存在し、その人達は神の教え=トラーを神が命じる通りに生きてきた、その様な人達により神の言葉が神の記念日がガードされ継承されて今に至っているのです。
み言葉=神の教え=トラー、そしてトラーに記された福音はエルサレム、シオンから出て世界の四隅に伝えられると預言された通り、それはユダヤ人によってなされたのです。
そうでなければ、私も含めてヘブライ聖書に記されたイエシュアが教えていた通りの神の教え=トラーや、神が永遠に祝われる
”わたしの記念日”と言う事にも全く気が付かないまま過ごして
いたでしょう。聖書に書いてある真実をそのまま正しく教える
残りの民を神は確保しているからです。神の教えに人の創作した宗教の教えが混ざったものが聖書=神の言葉であると疑いなく信じ込んだままになっていたでしょう。
そして兄弟達が次に食料を買いに来た時に、ヨセフが弟である事
を兄弟達に明かした時、彼らははっきりヨセフが自分達が捨て去った弟である事に気が付いた事が書かれています。兄弟全員嘆きそして和解し1つとなり最後は親族一同エジプトに下り集められる場面が記されています。最後に気がつく、ユダヤ人も最後に
目が開かれてメシアに気が付く。
同時に神の教え=はじめの愛=婚姻契約=神の教え=トラーから離れてしまった諸外国にいる異邦人イエシュア信者達も同様に神のオリジナルの言葉教えに戻る事が預言されているのです。
それは最初に起きるのではなく、最後、この世界の終わりの時代に起きると書かれています。そしてそれが今起きているのです。
 
イスラエルも異邦人も共に神の真実、神の実態の中に戻る!
一つ神、1つ教え、1つ救いの方法=イエシュアを通して、1つの大家族として一体に戻る、エデンに戻ると神が教えているのに、人は人の教えや創作の教え思想により人種間に隔ての壁を作り続けているのです。
神の国には二つの民族に間には宗教の教えとか人種、生まれの違いと言う隔ての壁はない。隔ての壁を作っているのは人の教え=イズム〜宗教の教えであり、純粋な神の言葉だけに戻る時に人は始めて邪魔な障害ぶつ垣根、壁が全て取り壊され、イエシュアを通して神の前に一つ家族として繋がれ、一体=元のエッセンス、デザインに戻れる、それがエデン=喜びが溢れる源泉なのです。
 
イエシュアが地上の神の国イスラエルに来られて住まわれていた間、一体イエシュアは何を教えて、何を神の聖なる日=主の日として祝われていたと聖書には書かれているのでしょう?WWJDと
言いながら、どうしてイエシュアが教え、実践して生きていた事と異なることをするのでしょう?
 
神が呼び出している神が創造されてその日を神の子らと特別に会う事を定めている本物の主の日=聖なる会合が何かを知りたいならば、聖書に戻り実際にその日神に直接呼び出されている事を神の言葉から発見し知り実践してみる事をお勧めいたします。
人が創作した教えが、神の招きを聞く事を遮り、神の言葉通りを聞く事を妨害しているだけなのです。神の言葉は偽りの無い永遠不変の真実であると言う神が語る言葉を、神の声の下に来て神の声の中で神の声の通りに聞くならば、聖霊が永遠不変の神の言葉から真実を必ず確信させて教えてくださいます。人が創作した神の言葉を削除、付け足し、無用、無効と言う教えを捨てれば、
神の声がはっきり聖書に書いてある通りに頭脳に心に魂に響いて迫って来ます。
レビ記23章に神の記念日の暦全部が記されていて、レビ記16章には秋の記念日=聖なる会合、主の日が記されています。
主の日=聖なる日、神が神の目的通りに普段の日と分かたれた日として定めている特別な日は聖書の定義ではシャバット=週の第七日目以外、週の何曜日と言う指定ではなく、暦の月、第一の第七の何日と記されています。
新月は毎月第一日目に出ます。それが新月の定めの日です。
そして春の祭りは、第一の月の14日日没に過越が始まり、その夕暮れは15日になるのでその時から7日間種無しパンを食べる。
その日=シャバットの次の日=初穂を祝う日。復活を表している
ものです。そしてその過越から7週、7回のシャバット、50日目はシャヴオートです。ここまでの春の祭りだけでも主の日は
日曜日だと記されていません。そして秋の祭りも同じです。
第七の月の1日=新月の時に、ヨムテルア=角笛を吹く日です。
10日、大贖罪日=ヨムキプルそして15日から7日間仮庵に住まい、第8日目は特別な記念日として単独で祝われ、秋の祭りが
終了するのです。主の日とは聖書では神の創造された記念日、
そして神が歴史の中で特別な事を執行する日です。でも注意深く
聖書と歴史の事実、イエシュアの業を見て行くと、聖書に記されている重大な事は全て神の記念日に起きている事に気がつくと思います。
主の日とは聖書ではローマや初代西洋教父たちが主張する様に
日曜日などでは決してありません。
神の祭りが日曜日になる場合には、祭りの開始日がちょうどその年のその祭りが日曜日になる時があると言うだけなのです。
毎年同じ曜日で祭りは始まらないからです。
 
神の定めの記念日は週一度のシャバット=第七日目以外は、曜日指定、土台、基準の記念日ではないと言う事は神の記念日の暦がいつなのかを知る最低限の必要知識でもあるのです。呼び出し日を間違えたら、人の住む社会でもその会合や祝宴の特別な時を逃してしまいますよね。それと同じです。神が呼び出している日を間違えたら、大事な意味深い会見、体験、神と神の子ら全員で祝う特別な時、特別な体験、特別な出会いをミス=逃してしまうのです。
 
 
 
 
続く