神の神殿での儀式を理解する大前提 動物の血は罪を消さない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨムキプルを迎えるには、準備が必要です。神殿が存在した当時

大祭司、祭司達は人々に正しく神の言葉を教えるために、この日に行われる儀式の一連をトラーから入念に学び、リハーサルを重ねました。

 

ヨムキプルで教えられている内容は、トラーであり、そしてイエシュアの贖い、終わりの時の最後に神の前にに立つリハーサルの日でもあり、”動物の血”は人の罪を消さない!と言う大前提の上で聖書に記されている全ての神の教えの内容を理解しないとなりません。

 

異邦人クリスチャンの世界の教えでは2000年以前の教え=

救い主が来るまでの仮の教え=古い箇所の聖書、動物の生贄で

かろうじて許されていた。イエシュア昇天後、許しが与えられ、聖霊が内側に初めて人の内側に住む様になったので、神の古い教え=律法は生きるに値しない無用ものになり、生贄を通しての許しは無くなったから様々な神の教えは終了したのだと考えていますが、それは聖書とは全く違う教えであり、神の教えを誤解しているのです。

 

それらの教えは聖書の記述に照らし合わせたら全く辻褄が合わないものになることは聖書に基づきクリアーな事実です。

 

なぜなら福音書以降も、すべての教え=聖書に記された全ては

モーセの五書だけを語り、昇天以降もモーセの五書を生きて、

使徒以降に記されているのはモーセの五書の教えの抜粋であり、彼ら1世紀の人達、ユダヤ人イエシュア信者達も同様に、シャバット新月、春、秋の神の祭りを祝い生きていた記録しか書いてないのです。

しかもパウロは諸外国のユダヤ人で大多数を占め、その中に異邦人が混じっているグループに教えに行った時もシャバット=第七日目ごとにトラーを教えた記録しか書かれていないのです。

神の教えや記念日が終了したのならば、どうしてパウロ達が過越や種無しパン、シャバットや仮庵を祝い続けていたのでしょうか?人の教えに照らし合わせたら、完全に辻褄が合わないのです。しかもパウロはエルサレムの神殿、トラーを教える本拠地が彼の拠点であり、パウロは一生涯パリサイ派に属していたのです。

パリサイ派であり、最終的にイエシュアを信じる異邦人らを受け入れてくれたグループの人達が居た事が使徒15章に記されています。

1世紀の人はイスラエルや諸外国にキリスト教会と言う場所が

既にあって、イエシュアを信じる人達はそこに日曜日に安息日を変更して集って礼拝したのではなく、イエシュア信者も一般の

ユダヤ人もシャバット=第七日目にシナゴグでトラーを学んでいたのです。

聖書が記されている1世紀は、オリジナルの聖書=ヘブライの

聖書、タナックから離れて出来たローマ教=カトリックと言う

宗教、その教えはまだ存在していないのです。しかもプロテスタントが出来たのは16世紀なのです。デイスペンセーション神学も19世紀に登場した教えです。聖書とは異なる思想や教理の

原型は1世紀後半から異邦人の世界では少しずつ登場してきましたが、それらの教えは1世紀の使徒達が生きていた時には存在などしていないのです。

シャバットが日曜日に変更されたなどと言ってそれを実践する

イエシュア信者など異邦人含め誰一人として地上に存在しなかったのです。その事実から考えれば見えると思います。

 

そして、1世紀には、福音書〜黙示録など聖書として存在していない、ほぼ数人の限られた人、パウロに直接書簡で諸外国でトラーを生きる実際の実践の回答をもらったグループだけが、パウロの書簡を読んでいただけです。しかも全て手書きで印刷出来ないのすから、そんな書簡のコピーは多く流通などしていないのです。

そしてそれらが聖書ではあるなどとも誰も1世紀当時認識していないのです。

聖書はすべて霊感により書かれとある下りも100%すべて

モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っているのです。

その当時他の聖書など存在していないからです。

福音書〜黙示録も同様に霊感により書かれていてそれらは、

モーセの五書、預言書、諸書の短い短い注解書なのです。

何一つモーセの五書に反する教えは聖書のどの箇所にも

記されていない事実を把握して知って読まないとならないのです。もしモーセの五書に反する教えが書かれている書ならば、

もちろんそれは聖書ではない、神から出た、聖霊により記された書ではないのです。

 

安息日=昇天以降は日曜日などと言う神の言葉の事実を曲げた

読み方をしている限り、神の言葉が語る真実に対して盲目になったままになります。翻訳聖書を読んでも、そんな事どこにも書いていません。

聖書に書いてある通り、安息日=第七日目以外には無い!と言う

永遠の事実を土台にして、その真実から聖書を読み直す必要があります。

使徒1:12 それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日=第七日目

許されている距離のところにある。

13:14しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日=第七日目に会堂にはいって席に着いた。

13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日=第七日目ごとに読む預言者の言葉が成就した。

13;42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日=第七日目にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。

13:44次の安息日=第七日目には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。

15:21古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日=第七日目ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。

16:13ある安息日=第七日目に、わたしたちは町の門を出て、

祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこに

すわり、集まってきた婦人たちに話をした。

17:2パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの

安息日=第七日目にわたり、聖書=モーセの五書、預言書、諸書に基いて彼らと論じ、

18:4パウロは安息日=第七日目ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

 

最初から動物の血は人の罪など決して消すことなど出来ない!

罪の赦しの代替えとはならないと言う重大な前提を神が人に言われたからです。動物の血で一時的にイエシュアの命を代償出来る程度の事だったらイエシュアの命の代価なんて必要ない、意味がなくなります。

 

では動物のコルバンは何のためなのでしょう?エルサレムの神の

家、世界の中心にある神の家の中=地上の神の家は天の神の家を

表す地上の影=レプリカであり、神の教えを学ぶ体験的学習センターだからです。

神の家の中で教えられているのは、目に見えない天の現実=

イエシュアの贖い業の詳細、神の子らの大家族での生き方、

神の前にどの様に近づくのか?そして自分の過去の傷、歪みを

神の前に神の目が見ている通り告白して、神直々のカウンセリングコースの中で癒されて行くプロセスが教えられているのです。

イエシュアの業、人が神の一方的な業、恵みにより罪赦され

新しくされ神の前に陰りなく出る事が出来、神の前で癒されていくプロセスを五感を通して体験して学習するのです。

 

考えてみれば分かる内容なのです。このエルサレムの神殿に来る事が出来る人は、古代、世界中でもほんの一部の一握り数パーセント以下の人、いや1%もいたのでしょうか?神殿以外神の祭壇は無い、他の場所でコルバンを神に捧げる事が出来ないからです。

全世界の1パーセント以下の人しか2000年前以降は許しが

与えられなかった?

そんなケチな意地悪な神はイスラエルの神ではないのです。

詩篇の記者も書いている通り、モーセや預言者が記している通り神は愛であり、憐れみ慈しみに富み許しに富む神であり、瞬時に人を許す事が聖書には書かれているのです。

どの時代のどの人に対しても同じです。神は神の方からその個人個人に近づくことが出来る、動物の口を開いても神は語ることも出来る、なんでもできるのです。

 

しかもイスラエルに住んでいたユダヤ人も、このエルサレムまで都上りの祭り、又は他の時に訪れる事が出来る人はイスラエル全員ではありません。

経済的、身体が弱くて徒歩での長旅が出来ない、乳飲み子や子供を抱えていて行けない、色々事情はあったのです。今の様に

飛行機、新幹線、高速道路を車で走るなんて旅ではないのです。

 

その場合、都上りの祭りは、親族代表がエルサレムに上って行ったのです。ほんの一部の人しか太古には罪が許されない?

そんなの変だと分かりませんか?神殿に行ける人だけ許される?

古代=律法=生贄=仮の許しと言う思考回路と、実際に聖書に

記された神が伝える教えや真理は人の教えとはまるで違う考え、違う視点、違う領域を話しているのです。

本体と影で教えられている様に、本体=イエシュアがされた業の

意味、実態そっくりそのままを、目に見えない天の現実、実態を地上の神の神殿で、特に日々、シャバットで新月で神の祭りの時に福音の全てを網羅するイエシュアの業の意味を神殿での儀式を通して教えられていたのです。神殿で行われるすべての儀式は

トラーに記されているのです。

大祭司、祭司達は神の教えを深く理解して人に教える役割があったのです。

だからイスラエルは神の言葉、教えを直接学んだ”イスラエルの羊”として全世界へ地の塩、世の光として福音を伝える役割が与えられたのです。福音はユダヤ人を通して世界に伝えられた事実が

あるのです。

 

動物の血は人の罪を許すためにささげられていたのではない!と言う大前提をまず聖書から理解しないとならないのです。聖書に

記された大前提を理解しないまま聖書を読むから事実が曲がる

誤解するのです。

罪の赦しの意味、目に見えないイエシュアの業の意味を最初から

動物を通して教えられていたのです。

 

”罪を取り除く神の子羊=イエシュア”とヨハネが言った意味が何なのか?春の祭り、過越、そして秋の祭りを神殿での儀式を理解していた人なら分かるのです。

リハーサルは実際の事と同じ事をします。でもリハーサルで

イエシュア=子羊が実際に何度も屠られるのではないのです。

神の贖いの業を他の代替え=影=動物を通して、教えられ学習し続ける様に神がデザインしたのが祭りの中での儀式の一連なのです。贖いは1度。その事実は永遠の中に完結している事実を地上で表して証明して下さったのです。だからイエシュアは木にかけられたままではなく、昇天され復活の命を証明し天の神の右の座座しておられるのです。

この事を理解した上で、ヨムキプルの一連の儀式がイエシュアの業を表し教えていると言う事を発見して行くのです。

 

古代の残りの民は、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記された内容を理解して実際に生きてメシアを理解していたのです。

神の前に空の手で出ていけない、動物のコルバンがあると言う事を通しても、神との顔をあわせる親しい関係の中に入るには、

イエシュアの”贖いの代価の犠牲”があった事をその事からも思い出させる要素となっているのです。

でもそのコルバンを備えて下さったのは神です。

アヴラハムにイサクを捧げよと言われた神ですが、代替えの

動物を神ご自身が備えて下さった、これがイエシュアを表している事をアヴラハムもちゃんと理解していたのです。

 

続く