神の名
四文字で表される神の一番親しい名前です。
יהוה ヨッド ヘイ ヴァヴ ヘイと言うヘブライ文字からなる
名前ですが、これは数節あるのですが、神の名を意図的に発音しないと言う事をしていたそうです。
でもこの神の祭りの時、ヨムキプルで神殿の中で神のその名を
使ったそうです。と言う事は、古代の祭司達はこの名をどの様に言うのか知っていたのです。訳では”主”、イエホヴァ、エホバ、ヤアウエなどと書かれています。ユダヤ人はこの4文字を”アドナイ”=主と呼んだりします。
私が聞いた説では、ローマ帝国の弾圧によりイスラエルの神の名を言う事を禁じられたためその後、ラビ達は迫害を受けないために公にこの名を言うのをやめようと言う決断をしたそうです。
内輪だけではこの名を言いますが公には口を閉ざし始めたそうです。
神の名をみだりに唱えると言うのは、神の親しい名前をみだりに言うと言う意味とは違う事が記されています。同時に誰かの名を
軽々しく使うと言う事も尊敬にかけた行為であると言う意識から
ユダヤ人の間では”神”と言う時に”ザ 名前”と言う言い方に変えて話すのが一般的に使われています。何れにせよ、それらは神が
伝えたものではなく人が考えてその様にしようと決めたものです。
スケープゴート 身代わりの山羊
大祭司の他に二人の祭司が立ちます。大祭司に何かあった場合に
その人達が立てられています。クリスチャンの世界での作り話があります。宗教の教えには数々の作り話、神話があります。聞いた事のある人もいると思いますが、大祭司が至聖所に入る時、大祭司がミスをしたら死ぬのでその場合大祭司の裾にロープと鈴を付けて、鈴の音が消えたら至聖所から大祭司を紐を引いて引っ張り出すのであるなどと言いますが、それは全部作り話なのです。その様な鈴やロープの付いた服装を大祭司がヨム キプルに着ることなどトラーには記されていませんし、その様に至聖所から
大祭司を出すなどとも書いてません。
聖書に無い事の作り話と言うのは後を立たないのです。
そしてこの大祭司の二人の予備の祭司がいるのです。
神の教えた通りを無視しなければ、失敗などないのです。
だから、普段でも祭司の任務に着く時には、飲酒してはならないとあります。ここに二頭のヤギがいます。
レビ記16:7 アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、
16:8 その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
16:9 そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。
くじを引く
この箱の中には2つのくじが入っていて、一つは”神”のため
一つは”アザゼル”のためと記されたものがあり、これを両手で
つかみます。
アザゼルとは”場所”の名前です。その場所にスケープゴートが
送られてその崖から落とされるのです。右手を上げて書いてあるものを読み上げます。
宿命のくじ
ヨムキプルには、悔い改めと大きな期待感、予想であふれています。ドラマチックな瞬間の1つであるこのくじでヤギを選ぶ事も
その一つです。スケープゴートはイスラエルの罪の贖いを担う事
を表しているものだからです。このスケープゴートは全人類の罪を負ったイエシュアを表しているのです。過越で神の子羊として
屠られたのがイエシュアの実際の処刑ですが、最後の時、イエシュアが到来する時の大贖罪日でイエシュアが人々の罪を負った
事実を表し皆が神の前に立つ日が来るのです。
大祭司の右手には大祭司の補佐、左手には大祭司の家族の長が
立ちます。
スケープゴートはイエシュアを表しています。イエシュアが罪人として嫌疑にかけられた時、人々の目がイエシュアとバラバを
見ていました。このシーンと重なるのです。
ヨハネ18:40 すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。
ヨハネ19:5 イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。
2つの山羊、スケープゴートは人々の罪を負い、そしてそれは
永遠に罪は人から離れている事を表しています。荒野に放たれた
スケープゴートでも表されて、そしてそのスケープゴートは人の前に再び現れ出ません。イエシュアが処刑され昇天された事と
重なるのです。
そしてもう一つの山羊は私達の罪を購った事実を表しています。
二つの側面を二頭の山羊で表しています。
”主のために”捧げられるヤギの上にクジを置きます。
”神のための罪の捧げ物”と大きな声で言って”神の固有の名前”を
発音します。
これを聞いた人は、”主の御名に祝福あれ”祈ります。
スケープゴートに印の赤い紐を付ける
スケープゴートは他のヤギと区別するために、赤い紐を付けられます。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。
たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
スケープゴートの上に手を置く
この時に大祭司がもう一度自身のための雄牛に近づきます。
そして動物の上に大祭司である自身と家族の罪が移行する事を宣言します。動物の上に力一杯手を置くと動物の匂いが手について離れなくなるそうです。大祭司ではなくても、神殿がある時代
一般の人が自分の捧げる家畜を神殿の中で自分の手で屠って、手にも動物の匂いが付いて離れなかったら、自分の罪の代価の重さを実際に動物を屠る事でも重く深く体験的に学んだのです。
神の栄光に満ちた王国 神の栄光あるみ名が永遠に祝福される様に
大祭司がスケープゴートの上に手を置きます。人々の罪を全てこのスケープゴートの上に移行している事をなぞらえている行為です。メシアであるイエシュアが全ての人の罪を負った事を表しているものです。
雄牛が屠られる
二番目の告白の後、大祭司は雄牛を屠ります。
ミズラックと呼ばれる容器にこの血を取ります。
最初にこの血は採取した後直ぐに薫香の儀式のために準備されます。そして後で至聖所の入り口の外に立ってこの凝固しないために容器を動かしながら持ちます。二番目の祭司が大祭司が戻るまでにこの容器に関わっている間、待ちます。大祭司はこの時に
長い取っての付いた銀のシャベルを持ってこの聖なる日に薫香の
難しい儀式を行うために集中します。
一連の儀式の中でメシア ハ マシアの贖いの業のこと細かい
事をこの儀式の中で知る事が出来ます。注目するべきは、ヨム
キプルが終わらない前に祭司達は既に白い衣服をまとっているのです。イエシュアの贖いは過越、永遠の中で完了していて、神の家の中で人は神の前に義とされている事実、その前提からのみ
全てを教えているのです。義とされている、白くされている
罪注がれている事実の根拠は全て”神がしてくださった業”贖いの業が存在するからです。人の努力ではない。人が何かの儀式をしたからそうなったのではない事がはっきりと神の神殿の中で教えられている事からも分かります。神殿で行われている内容は
全てトラーに記されている内容です。
続く