以前私は、古い箇所の聖書=旧約聖書は原始的教えで、救い主が
地上に来られるまでの仮の教え、仮の許し、仮の救いが書いてあり、それらはユダヤ人がおもに生きるものであり、異邦人には
関係の無い教えですとか、救い主が来るまでの仮の教えだから
今は聖霊時代なので、それらを生きる必要はない、又はやりたい
人だけ生きればと教えられて来ました。これは一般的に普通に
異邦人クリスチャンの中で教えられている教えだと思います。
でもそれらの教えは、聖書の教えでは無いです。私自身もそれらの人の教えが聖書=神が伝えている事では無い事に聖書の記述からはっきりと気が付くまでに数年間を要しました。聖書を書いてあるヘブライ語の言葉の意味、内容通りに教えられ、そこに記されている言葉の意味、それは文化背景やイスラエルの地形や歴史や当時の文化や宗教的グループの間で使われていた慣用句の意味や、当時のユダヤ人達の間に流通していた人の編み出した教え=口頭トラー、行いの律法、又は先祖の伝統の教えなどと書かれている内容があり、聖書記者達が何を話しているのかを知って初めて見えてくる真実なのです。
一般的に異邦人の世界ではモーセの五書は古い律法、仮の教えと教えられ、特にレビ記の中に記されている内容を、古代の人達は救い主が来られるまで、動物の血を通して仮の許しを得ていたなどと教えられていますが、それこそが神の教えている内容とは全く違う事であり、レビ記は仮の許しや仮の贖いが書いてあるものではない、仮の教えが書いてあるものではない、その様なズレた前提から聖書を読むので、神が人に伝える永遠の真実が覆い隠されて行くのです。
動物の血は罪を消さない!!!とはっきりと記されているのです。動物の血で仮の罪の赦しになるなどと聖書にはどこにも記されていません。それは中世に存在したカトリックの教え、免罪符の話だと思います。免罪符を買えばあなたの罪許されている事とカトリックはそうしましょうと言うその思考回路です。
そうすると、ではどうしてレビ記の中に記されている事は動物の
コルバンを捧げて神の前に近づく事をしているの?と考えるのが
普通です。天にある目に見えない神の家を地上での復元=レプリカで表していて、実際神殿には神の臨在が存在していました。
その中で教えられている様々な事はイエシュアの業、福音、
そして神の前に人がどの様にされているのか、神により罪注がれきよめられすすがれ、芳しい香りとして神に100%受け取られ喜ばれている。そして神の前に、神と人との修復の方法、神の前にどの様な意識で出て、どの様に神に語るのか、全てが教えられている体験的学習の場なのです。
贖いも、罪の赦しも、イエシュア=子羊の贖いの血を通して以外にない!他の方法は存在しない。仮と本物と言う区別はない。
イエシュアを通して以外誰も父の元に来ることが出来ない!
人の教えに照らし合わせると、神は2000年以前に生まれた人を放置する極悪非道な神と言っているのです。ある時代の人を放置する神?異教の神々を想像している思考回路です。
贖い、救い、イエシュアは永遠の中に存在し、この世界の礎が
出来る以前に全ては存在し、私達でさえこの世界が出来る前から
選び出されていたと書いてあるのです。信じる者たちが選び出されるには、私達が既に神の中に存在していた事実が無いとなら無いのです。無いものは無いからです。聖書には時空を超えた永遠の中の出来事が書かれているのです。
時間、時さえ神が創造されたものだからです。神=イエシュアは時を超えて存在しているお方なのです。始まりも終わりもない。何にも制限されず誰にでもどの時代にも神ご自身が近づいて下さるからです。
人間の方で神に近づくと思うのは、人間主体を考えているから見えてこないのです。神が近づいて下さった!神が私達をイエシュアを通して神の元に引き寄せて下さった。この事実を忘れてはならない、一方的に神が全部用意して神が私達一人一人その個人個人の時に近づいて下さったのです。
神が警告している、”別の顔”を”神の顔=神の伝える実態、神の
本来の性質が伝える事”を覆い隠しているものなのです。
インプリンテイング=刷り込み、特に信じた最初に刷り込まれてしまった非聖書的教えはどうしても頭脳を占拠し、聖書ではない別の思想=人間の思想、哲学、神学教理からしか聖書を読む事が出来なくなっているので、神の教えに”仮の教え”が存在するなどと言う偽りを信じてしまっているのです。
それらを神の言葉の事実に照らし合わせて1つ1つ害虫、シロアリやネズミを駆除する様に、家の中に巣食い人の住まい、命を脅かす危険な要素を全部完全に取り除く続けなくてはならないのです。シロアリに食われた家はやがてボロボロになってしまいます。砂の上に建てた家はやがて崩れると言われた事は真実だから。砂=偽の土台に自分の信仰の土台を建てたら崩れてしまう。
聖書に記された事をどの箇所でも否定する!と言う行為が神の警告に照らし合わせたら何を意味するのか、はっきりと知らないと
ならないのです。
イエシュアも言われた通り、トラー=父の教え=モーセの五書
神の言葉の一点一画も廃れない!トラーのどの部分でも排除する様に教える人は天の国で神の前に一番価値がない、意味がない存在となってしまう!と言う警告を真に受けないとならないのです。マタイ5:19
宗教の教えは、ある部分の神の言葉は”正しい、有効”とし、ある部分は廃れた、無用であるなどと、神に成り代わり不真実な事を
人間が述べ、余りにも神の権威、神の領域を侵害している事に全く気がつかないまま、神の言葉=呪い、悪い律法だからなどと言う意識で、知らないまま神に対して抵抗する事をしているのです。
神の言葉を捨てたら、神の言われる意味など分からなくなり、人の教えの不真実の迷路の中にまよい出て閉じ込められます。
それ故神に何を今教えられているのかも、見えない、理解出来ないことが起きるのです。
ヨムキプルとは神が創造された記念日、一年で一番大きな意味の
あるものです。一人だけではなく、民全員が神の前に軌道修正し
一致して神の前に出るリハーサルの日がずっと最初から教えられているのです。終わりの時の準備をずっと歴史の中で神の記念日を通して神の子らは教えられているのです。
1世紀イエシュアが来られた時に、福音書以降を読んでもイエシュアが話されている内容でも、神の言葉=タナック、モーセの五書、預言書、諸書から、神殿での様々な儀式、それらは全てモーセの五書に記されていますが、その事を通して”イエシュア”の
実態を教えられて、それを理解する人々を残りの民と呼んでいるのです。
エジプトから出た人々を、初めて神の国の聖なる民=国民=イスラエルとして呼んだのがシナイ山での出来事、過越からシャヴオートの祭りまでの出来事です。
それまでは個人個人に神が同じ教え=トラー語って、その記録が創世記に記されています。でもシナイ山では、文字で記した永遠の契約書=婚姻契約書をイスラエルと言う国民全体に与えたのです。
それは、イスラエルだけに与えられた契約ではなく、イスラエルは全世界の民族の代表としてそれを受け取ったのです。
アヴラハムは全世界の民族の父!としたと書いてあるのです。
聖書に記された神の言葉の事実を繋げて考えれば見えます。
アヴラハムは元々異邦人でした。突然異教徒の地、異教の神々に仕える父テラそしてその親族一同から決別して物理的にも違う
土地に移動する様に神から伝えられました。突然!です。
決別しなければならない理由は出エジプトと同じ。異教の神々に
仕える人々、仕える地では、神の教えを聞いて生きる学習が出来ないからです。
そのアヴラハムも、神の同じ教え=トラーを口頭で伝えられ
理解していたのです。もちろん、イエシュアの贖い、救い、許し聖霊が内側に宿る実態も体験的に理解して知っていた記録が
書いてあるのです。それを読み取れないのは、書いてある内容を
理解してないだけで、聖書の至る所に同じ福音、救いがずっと
最初から記されているのです。
ヨハネ8:56あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
アヴラハムはイサクをモリヤ山、モリヤ=神は教師と言う名前の神殿のある場所で捧げた時にも、イエシュアの復活の命を知っていた、神が贖いの代価を用意して下さる事を信仰により確信していた、イエシュアの命の代価の意味を知っていたのです。
預言者達も同様に神からイエシュアの業の意味を教えられ、その内容を理解して預言書に記しているのです。突然2000年前に神が人々に神が支払った贖いの代価、救い、許しが教えられたのではないのです。
しかも、福音書以降を読んでも分かる事ですが、弟子たちが
”あなたが約束の救い主ですか?”と質問していますね。どこからそんな考えを持っているのでしょう?タナック=モーセの五書、預言書、諸書にイエシュア=救いが記され、イエシュアを通して贖われる事、それが地上の神殿で様々な方法で教えられている事
それを彼らは知っていて話しているのです。
ヨハネが”神の子羊”と言った言葉でも分かるのです。
子羊=タナックに記されているイエシュア=救い主だからです。
過越の鴨居に塗られた子羊の血。全部意味は同じです。
シメオンも神殿の前で赤子のイエシュアを見たとき、約束の救い主がとうとう地上に来られたからこれを自分の目で見たからと
言われたでしょう。どうして赤ちゃんのイエシュアが救い主と分かったのでしょう?聖霊に教えられた、その裏にはタナックに記されたイエシュアが来られる事、人々の罪を背負い処刑される事、復活される事知っていたからです。それは過越、ヨムキプル
そして仮庵の中で教えられている事からも学んで知っていたからです。
今でも同じです。聖書がこれだけ印刷され、ネットでも見る事が出来るのに、多くの人はイスラエルの神、イエシュア=救い主を知らないのです。
それと同じです。そして、聖書に記された事実をどれだけの人が
書いてある通りに理解しているのでしょうか?これも同じです。
聖書に書いてあるのに書いてある通りに読まない、教えられないなら書いてある事実を理解出来なくなる、つまりある部分は分かってもある部分は聖書では無い教えを聖書であると誤解して認識してしまっているのです。学校に行って教科書に書いてある事を読み替えて別物に解釈する様に教師は教えませんよね。どうして宗教の世界はそれをしているのだろう?と疑問に思うべきなのです。どうして読み替えているのだろうと。永遠を一時的などと。
人の教えを通して聖書を読んだら神の伝える真実がぼやけ、歪み
変形され、見えなくなってしまいます。
ノアがノアの時代唯一正しい人で神と共に歩んだ事が記されています。この一言で何を意味しているかが書かれているのです。
正しい=義とされて神の前に神と共に生きる唯一の方法は何ですか?
イエシュアの贖いの血の事実を内側に受けて、聖霊を内側に受けそして、神の教え=トラー、神が口頭で伝え続けた教えを神の前に生きていた!それが書いてあるのです。
創世記6章で細かくその詳細を説明していないだけでです。
人の教えや人が付けた神学タイトルは、神の言葉の真実を同時に
たくさん覆い隠しています。原始福音などと言いますが、福音に
原始も初歩も進化も発展もその様なものは神の教えの中には存在しない!全部同じ1つの福音、1つの救い=イエシュアしか存在しない事実からだけ考えないと神が伝える真実が見えて来ません。
Shabbat Shalom