明後日の日曜日9月24日の日没から大贖罪日が始まります。
神の暦の第七の暦の10日です。テイシュレイの月の10日。
イエシュアは何を教え、何を生きて、どの記念日を祝って人に
福音の事実、ご自分の贖いの業を地上で教えましたか?聖書に
登場し記されている人達は同様に何を神の言葉として信じて生きていましたか?
イエシュアが教えられたのはトラー=モーセの五書でありイエシュアが祝われて人に福音の中核を教えたのは、レビ記23章の
神が創造されて聖別された特別の定めの日、シャバット、新月
春と秋の祭りを通してです。聖書(福音書以降も)には昇天以降も皆モーセの五書を生きて神の創造されたレビ記23章の記念日を祝い続けていた記録しか記されていません。聖書の記述、事実を曲げないで書いてある通りをまず読むと言う事をしないと神が伝える永遠の事実など見えて来なくなります。
異邦人の教えの世界では、イエシュアが来られたら以前の教えは無用で終わりになったのだと、神がそんな事など1度も言ってもいないのにそう言い続けて教え続けて聖書には無い事を信じています。神が言ってもない事を人間が勝手に代弁して神のメッセージを曲げて変えてしまっています。聖書に書いてない事をあたかも神が言ったかの如く語るのは神から禁じられている行為です。だからそれらの人が作った創作の教えは聖書に照らし合わせたら全く辻褄の合わない教えなのです。永遠不変!神は変化しない!
神の言葉は永遠に堅く立つ!とシンプルな事実が記されているのに、それらを全く無視しているのです。神が永遠不変!と一度言われたらそれは永遠に変わらない!と言う基本中の基本を知って
聖書を読まないとならないのです。
そしてやがて再臨がある!いつか神の前に顔と顔を合わせて立つ日が来ると聖書に記されている神の預言を異邦人も信じているならば、秋の祭りはシャバット、新月、春の祭り同様、神が神の子らを呼び出している聖別された”主の日”であると書いてある通りに聖書から読み取れば簡単に理解出来るのです。
これから来られるイエシュアの再臨、王の戴冠式、そして神の前に一人一人が神と顔を合わせて立ち、神と直接相見える。
やがて確実に未来はイエシュアが全世界をエルサレムから統治する時代に入る、それらの預言されている事実が秋の祭りの一連、ヨムテルア、ヨムキプル、仮庵の祭りで表されているのです。
エレミヤ31章にある、イエシュアもエレミヤ31章と同じ事を言われた”新しい契約”とは神の国に住まう人達全て割礼を頭脳に受けて、神の教え=トラー=モーセの五書に記された神の創造された本来の人間の性質=神の性質=イエシュアの性質を生きる、誰も神を知ろう!と言う必要がない時代が来ると言う意味です。そして秋の祭りは再臨を迎えるリハーサルを神の子ら全員でする一年で一番盛大な祭りなのです。
このヨム キプルの聖会がどんな意味があり、何を神に教えられるために神の子らが神に呼び出されているのか、そして神が創造されたどの記念日にも神の子らを全員呼び出していると言う永遠の事実に聖書の記述=神の言葉から気が付く必要があるのです。
悔い改めと言うヘブライ語の意味は、神の教え=トラーに照らし合わせてズレて生きて来た内容を直す、修正する事なのです。
勝手な空想の生き方に戻ることではない。神の言葉に生きることに戻る、それがヘブライ語で記された悔い改めの本当の意味です。
神の神殿の祭壇の前に出る時、自分のズレを自分で告白するのですが、その行為は、”神の目から見ている通りの事実=ズレを
自分が認識して、それを口に出して言う”。そしてそのズレを実際に直す、繰り返さない決意をする事が書かれています。
気が付いたらそのズレを直さない限り、口先だけで反省しても
何も変わらないからです。中身の無い生き方のままに留まる。
結局前の年と同じズレを繰り返しながら生きてしまうので成長も実りも期待出来ない。
どうして軌道修正が必要でズレた生き方を続けてはならないのか、それは神が私たちが傷つき、破壊される”パン種”を抱えながら生きて欲しくないからです。神が創造された人=エデン=喜びに住まう人の本当の性質ではないからです。自分が生きれる本物の生き方が取り戻されているのに、その実態を失いながら
結局エデンから飛び出た場所の中に半分閉じ込められて傷ついたまま生きてしまう事を神は悲しむのです。
私達を命をかけて愛しているから。
罪=的外れはどんな度合いでも、小さくてもその行き着く場所は
破壊、損失なのです。これくらいならいいや!程度の軽いズレは
気にしなくて良いなど言う罪はないのです。もれなく全て、ズレた状態は、いずれ破壊、歪み、損失に繋がって行くからです。
小さなほころびが大きなほころび、破壊につながるからです。
だからトラー=神が伝える性質のこれこれの部分だけ生きて、
これこれを生きないなどと言う状態はあり得ないと書いてあります。神の教えのどの部分でも破るならそれは全体を破ることと書いてあるでしょう。全部まるごとで人間が生きる性質が教えられているからです。特に道徳的な意味がピンと来ない教えなど、
どうして神がそんな事を神が言うのか、その意味の本質をちゃんと理解しない場合には見えない真理なのです。
聖別=神の子らとして分かたれた人の生き方の意味は神の言葉
教えを知り学べば分かりますが、学ばない知らないなら、分からないのです。神の伝える教えは、異教神の国々に生きて来た人には馴染みがない、ピンと来ない体験的に分からない事が多いからです。それがイスラエルの国籍、契約に遠く離れていた異邦人とパウロが言っていることなのです。何が神の前にズレ、罪、汚れた混ざった生き方なのか、神の教えを知らないなら分からないと言う事なのです。
そしてこれこれしてないから、ズレてないなどと言える
ものではないのです。
私達が本来持つべきものではない経験体験など、それらが神との
隔たりを作ってしまうのです。本物の自分を生きられない壁を作っているから、神はそれを取り除きたいと願っているのです。
でもその作業は自分の決意、行動がないと実現しないものです。
神殿の至聖所に至るまで3つの幕があります。
それらは何を意味しているのか?神との隔たりです。人はそのままでは神の前に近づけない状態である事を教えています。
大祭司イエシュアの贖いの血により神の中に引き寄せられている事実を教えているものです。至聖所には神の臨在が宿る贖いの箱が設置してあります。命の生み出される場所=神の言葉=神の
臨在。
エデンを飛び出した人は、神から隔たった場所に飛び出して、
隔たりの場所に閉じ込められているからです。自分の力で神の
元に来る事が出来ない、だからイエシュアの方から近づいて下さったのです。イエシュアが戸を叩くと言う例えでも分かるでしょう。
神との隔たりとはどんな事でしょう。罪がもたらしたものは、神と人との間の隔たりです。本来の場所、姿から飛び出した。
恥、神から隠れる、相手をなじる、責任転嫁する、傷、拒否感、過去の失敗に潰される、痛み、人間関係の壊れ、怒り、不安、
許せない心、様々にありますよね。
誰でも経験している、取り組まなくてはならない”ズレ”ハタ、
神の意図の的を外してしまう歪みを持っているのです。
一人だけじゃない、自分だけじゃない、全ての人が多かれ少なかれ解決しなくてはならない、取り組まなくてはならない何かの
罪の代償=ズレ、歪み、傷を負っているのです。
それはイエシュアの贖いの血で一瞬に消えるものではないのです。その意味は、新しくされている事実がある!古い人は主と共に死んだ!でも自分の生きて来た記憶、思考、行動パターンは
一瞬で消えて、一瞬で切り替える事が出来ません!
先祖代々の罪ズレは肉に頭脳に刻まれている。それらが新しくされた人の事実を生きる事をずっと妨害するから、死んだ人の古い記憶の思考、行動パターンとずっと意識的に格闘し排除して行かなくてはならないプロセスが成長のプロセスなのです。それは
神の前で自分がしなくてはならない事なのです。自動的に神が
何かしてくれるのではない。それは人間はリモコンで動くロボットではないからです。
ヘブル12:4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
そして神の声は人の教えの様に”責め”の声などではないのです。
責めるのはサタン!と書いてあります。神が指摘しているのは、
私達が自分のズレが何か気が付かないまま取り込んで生きていたらそれは必ず自分を周りを破壊してしまうものだから、それは
あなたに属さない”パン種”ズレ=ハタ、罪だよ!と教えているのです。
あなたがどんなに罪人で汚れているのか〜と嫌と言うほど責められ言い続ける人の教えをよく耳にしますが、神ご自身はそんな声音でそんな領域から語られてなどいません。
最初から人がズレるのを分かっていてこの世界の全てを造られたのは神ご自身ではないのでしょうか?その為の救済策も永遠の中に神はもう既に完了している!その事実が聖書に書いてあるのです。だから2000年前初めてイエシュアが昇天されて救い、贖いが与えられたのではないのです。永遠の中に完結済み!だから
歴史の中のどの時代、どの人種でも同じ福音、贖い救いの事実を受け取ったことがはっきり聖書には記されているのです。
福音、救いは1つ、二つ別物は無いからです。
親は生み出した子に対して責任を持つのです。神は永遠の中から
選び出して創造された全ての人の元に神の方から近づいて下さった、下さっているのです。
誰かがしたズレを自分も見て学習して受けてしまった、一番最初は歴史のスタート、エデンの中でアダムがやったズレ=罪が
自分の中にも浸透してしてしまっているのです。
その究極の代償を支払っているのは神ご自身なのです。
そしてそのズレを続けて生きる事はその人の選択ですが、神の
救済策以外に解決、逃げ道がないのです。イエシュア、子羊の贖いの血以外は。至聖所に入るのは大祭司、レビ族のアロンの家系の人達だけですが、天の大祭司=イエシュアを表して教えているものです。
子羊の贖いの血、過越で表されるものが大贖罪日の至聖所に入る
事で完了している事を表しています。隔たりの幕、神と人の隔たりをイエシュアの贖いの血で通過する事が出来るのです。
古代の人はもっと深く福音を理解していました。なぜでしょう?
神の言葉で伝えられている”イエシュア”の実態を、神殿の儀式を通して、神の記念日を通して体験的に学習し続けて来たからです。
ヨハネがイエシュアに対して”見よ!神の子羊”と言いましたね。
どうしてそんな事が言えるのですか?ヨハネは何を考えて言って
いると思いますか?タナックの至る所に記されたイエシュア
過越の小羊の血、小羊の血の贖いの意味、復活の命の意味
全てタナックに記された事実からはっきり理解しているから
”神の小羊”と言ったのです。そうでなければ意味不明でしょう。
そしてそれを聞いていた当時のユダヤ人である聴衆も同様にタナックに記されている、過越の祭り、秋の祭りなどで教えられ続けて来たイエシュアが遂に来られた!と理解したのです。
この日に向けて一年の軌道修正〜悔い改めをする事を一人一人が
求められているだけではなく、神の子ら全体でする様に神が設けた特別な時なのです。
この日はイエシュアの贖いの血で神のもとに引き寄せられている
事実を最初から教えられている事を聖書に記された内容を理解すれば見えて来ます。イエシュア=救い、福音は最初からタナックの至る所に記されているからです。
続く