1 神の顔の上に別の顔を置いてはならない
2 偶像を作りそれに仕え拝んではならない
3 神の名をみだりに唱えてはならない
4 安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ
5 父と母を敬え
6 殺してはならない
7 姦淫してはならない
8 盗んではならない
9 隣人に対して偽証してはならない
10 隣人のものを貪ってはならない
なになにしてはならないとある言葉は、ヘブライ語では単純に
NO〜 するなかれ ”ロー”と言う言葉、そして動詞の言葉で表されています。
最初の警告は、これは何度も書いているものですが、神の言葉の上に、人の創作した教え、宗教の教え、別物=別の顔を置いては
ならない!と言う基本的重大警告です。
神の警告は最初から同じです。神の伝えた言葉、教え通り!
命の木からだけ食べてと言われたのです。エデンの園のアダムとエバの失敗に対する警告でもあります。
アダムは、神の顔=神の実態、神が語る真実な言葉の上に、
蛇が仕掛けてきた半分嘘、半分本当の混ざった教えを置いて、
もしかしたら、神が言った意味は違うのかも?この蛇が言う事が
本当なのかも!?アダムの胸中に何が行き来していたのか書いてませんが、自分の目には麗しくとある通り、誘惑に引きずられたのは間違いないでしょう。そして神の言う事にぴったり密着せずにまんまと騙されたのです。
人間の問題の根、根本は何ですか?神の言う事を退ける、聞かないで、自分の考え、悟りを優先する事。人造宗教の教えは皆これです。神の言う事を部分的にでも否定する事、退ければ、罪は
戸口から忍び込んで来る事を最初から教えられているのです。
戸口を開けて別物を自分の中に招き入れる事は避けるのが当然なのです。
偽物、騙しの教えを神の真実な言葉、実態=顔の上に置いたら
だめ!あなたのために!と言う言葉で警告されているのが
出エジプト20章の10の言葉の冒頭の警告なのです。
宗教の歴史の教えはこれをずっとやっているのです。
ある事実は真実でも、本質が違う事を神の教えをたたみ込んで教える、神の言葉を退けて違う教えを伝える事はこの最初の警告、神の顔の上に別の顔を置いてしまっている事を指して同様に警告されているのです。
姦淫の罪と神が言われる事、高き所の礼拝を取り除かないと
神が警告している事は全て、混ぜ物の教え、半分神の教え、半分は神の教えではない人の教えを混ぜたものでイスラエルの神に
近づこうとしている行為についてNOとはっきり言っているのです。
黙示録にも熱いか冷たいかどちらかにせよ!とあります。
熱い=本物 冷たい=異教の神々の教え、生ぬるい=混ぜ物
ミックス=吐き出そう!とあります。
熱いか、冷たいかは見分けが付きますが、混ざったら偽の教えが
イスラエルの神が言う事であると誤解してしまうからです。
人に神の顔とは違う実態を伝えてはならない!偽証してはならないとあります。
混ぜてはならない事はトラーの中で物質的側面でも同じ様に教えられています。実際にこの様な事をすると不都合があるのです。
二種の糸は温度差がありバランスを崩すと言います。霊的物理的
一体なのです。分けて考えると見えないですが、見える世界と
見えない世界は1体なのです。
レビ記19:19 あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。
イスラエルがイスラエルの国から吐き出されたのは、混ぜ物の教え=異教の神々の教えと混ざりながらイスラエルの神に仕える、シナイ山の麓でイスラエルが金の子牛をイスラエルの神になぞらえ拝んだ事と同じで全部繋がっているのです。人の手で作った教え=宗教の教えでイスラエルの神に近づこうとしてもそれはズレて本来の関係に留まりエデンを体験出来ない疎遠な場所に飛び出す事を教えている警告でもあるのです。
神が最も忌み嫌われるのは、この”混ぜ物”宗教が編み出した人間が考えた教えと神の言葉をミックスさせる事であるのです。
偶像を作るとか、自分の考えに沿って偶像を作りますよね。
カトリックはこの第二の項目を抜かしていると言います。
人が考えた教え、イスラエルの神の実態では無い空想の偶像を
作ってそれに仕える、本当空虚で馬鹿らしいと分かると思うのですが、人は実はこれを繰り返ししているのです。
人の編み出した教えも同様に人が作り出した偶像なのです。
イスラエルの神の実態を反映しない人の教え=宗教の教えです。
混ぜ物の教えに生きてズレたイスラエルの歴史での出来事は
歴史書にも預言書にもたくさん記されています。
だからこの1つのタイトル=偶像を作るなかれと言う言葉で
表されていて、その実態は聖書の中で細かく記されているのです。
神の名をみだりに唱えるとは、神の実態では無い、空虚な事を
言ったり、実行するなかれ!と言う事です。
詰まり人の編み出した宗教の教えを生きる事もそれです。
イスラエルの神の実態では無い、空〜無。ヘブライ語では
”吐息”で表される言葉、消え去ってしまうほどはかなく虚しい。この言葉はカインに殺されたアベルの名と同じ意味です。
הֶ֙בֶל֙=ハベル。コヘレトの書にある、”空の空”と言う言葉と同じです。
神は人が編み出した神の実態とは異なる様々な生き方や教えなど
全然ありがたくもなんとも受け取ってはいない、むしろ空虚、
神の実態を表すことはするな=みだりに神の名を唱えるなかれ!と教えているのです。
人は神が言われる事ではなく、自分が編み出した教えの方が
好ましいと思う、その根底にあるのは偶像礼拝思想だからです。
神の前に自分で考え付いた何かを持ち出して神に喜ばれよう、
それによって何かを得ると言うことをするからです。
ある国のとある宗教では、偶像の神を担いでずっと運ぶ事をする
そうです。落とさないように運び続ける儀式がある。
詰まり、人が神をコントロールして神に何かしてもらおうと言う
下心、思考回路が見える行動です。人間が神を支えて動かす。
だから御百度参りをして願い叶えてもらおうと言うのと、何かをして、断食、祈りをして神を説得して神の気持ちを変えよう、
動かそう、それら全て偶像礼拝と全く同じ思考回路である事が
聖書の中に記されています。
トラーの題目の5番目にはイスラエルの神の記念日を表す中心でもあるシャバットについて記されています。
シャバットを覚えて聖なるものとせよとあります。覚えるとは
実際にその日を知ってその日を神が伝えるその日=シャバットの性質通りに取り扱い過ごし生きると言う神からの教えです。
この箇所、クリスチャンの間では別の曜日に変更されていますが
神は第七日目以外の別の日をシャバットとして聖別された日としていません。
なぜなら、神が止まられた様に!人も第七日目に止まると言う神の教え、神の創造された世界が7日目には完了して全てが止まった事実も変わらないし、人が第七日目に止まるデザインも変わらないからです。シャバットは最初から”復活の命”だけを強調して
祝う性質の日ではなく、神が全ての業を完了して地上に実現し
完成した事、神が提供する安息から生きる事、この中に全てが
網羅されているからです。
この点をよくよく考えてみたら良いと思います。クリスチャンが別の日を安息日の記念日としているのは、それは復活を記念して、神の創造されたシャバット第七日目を日曜日へとローマカトリックが変更したからです。神ではなく、人間が変えたと言う
永遠に揺るがない事実があるのです。神は神の言葉をどの箇所も
人間が手を加え、差し引き付け足しするなかれ!と言われました。その神の言葉、仰せ、警告を理解しない人達が神の言葉を
勝手に変更し続けているだけなのです。
イースターも4月の春分の満月の直後に来る日曜日としているのは、神の仰せではなく、同じく宗教の決めた日なのです。
イースターは聖書には無い名前の記念日です。もちろん復活された事実はありますが、神の聖別された春の祭=過越の祭りは、春分=満月になる辺りに来る第一の月の15日から始まり、復活の命=初穂=イエシュア=新しくされている事実は、神が過越の祭り、種無しパンの7日間の真ん中に初穂の記念日を最初から設けて太古から今に至るまで未来も同様祝い続けられている日があるのです。
この事実を認めて考えたら、人が神の記念日を作り変えただけなのです。もちろん復活を記念してと言う心情は分かるのですが、でも神がその様には人に教えていないのです。
復活の日は本当は不明なのです。聖書の暦とグレゴリオ暦とは
異なることもあります。聖書の暦では、土曜の日没は既に日曜日
グレゴリオ暦はまだ土曜日だからです。
でもどの日に主が復活されたとしても神が創造されたシャバットや春と秋の祭りの記念日も変更などないのです。
5世紀以降カトリック宗教が編み出した祭り、クリスマスや
イースター、ハロウイーンは聖書に記された神が呼び出している
記念日ではなく、宗教の定めて作った記念日であることは聖書の記述、宗教歴史でも明らかな事実なのです。
神が創造された記念日と人が作った宗教の記念日の違いを識別し区別する必要があるのです。
どの日を祝おうとそれはその個人の自由ですが、神が呼び出した日は神が呼び出した聖別された日なのです。神が人々を聖なる
集会として呼び出してない日は、宗教の記念日であり、それらは神が創造された記念日ではないので、イスラエルの神は神の子ら皆を呼び出して神の聖なる会合として、宗教の記念日を祝う様に命じてもいないのです。しかも今はクリスマスやハロウイーンはクリスチャン以外は、宗教の記念日と言うよりは異教徒でも諸外国で多くの人が皆祝う、楽しい季節のイベント祭りとして定着しています。元々クリスマスは既にクリスマスと言う祭りをローマ教が作る前に定着していた、冬至を祝う異教神の祭りがあったのです。その同じ冬の時期の季節の祭りに宗教の祭りを便乗させたものであって、所詮クリスマスの裏にあるのは、先に存在していた異教神の祭、異教徒の文化の祭りなのです。
クリスマスは、プレゼントを贈り合うと言う習慣も、異教神祭りの慣わしの伝統から来るものなのです。その時期に飾られる様々な飾りやクリスマスツリーも異教神信仰で意味のあるものを同じ様に使っているのです。
アメリカやヨーロッパなら信仰に関係なく家族や友達と集う楽しい家族の祝い日季節の祝い日と言う認識で祝っている人が殆どです。日本で言えばお正月が一番大きな家族、親族の祝いと言うのと同じ位置です。
その一方聖書に記されているレビ記23章の神が聖別された神のオリジナルの記念日は異教徒は誰も祝いません。この違いを考えたら見えてくると思います。神のオリジナルに創造された記念日は神の創造された記念日の意味を知る人達で祝われています。
主にイスラエルと、そしてイエシュアを知り神の言葉を愛して
尊重して生きる異邦人達で神の仰せの通りに祝われて来た祭りであり、イエシュアが再臨された後もずっと祝われ続ける記念日、祭りなのです。
これは偽証してはならない、神の顔の上に別の顔を置いてはならない、神の名をみだりに唱えてはならないと言う警告にも
ある通りのことなのです。神の伝えた通りに生きてと言う神からの教えなのです。神が言ってもいない事、聖書に記されてもいない事を神の仰せの様に伝え取り扱う事は神の前に"ロー” NOと言われる事だからです。
続く