神が創造された時 暦 季節 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人が作った宗教の教えや宗教の記念日ではなく、この世界の全てを創造された神ご自身が、神ご自身で神の子らを直接呼び出している特別な記念日、時、時期、季節があるとイスラエルの神は人に最初から伝えています。それが文字になって記されているのが聖書であり、それらは永遠に変化しないのです。神の言葉が歴史の途中で人間の言葉や口約束の様に変化したら神が語られた事が全て真実であると言う永遠の証拠、保証にはならなくなります。

 

神の創造された暦、時は、1年に渡り神の特別な記念日を迎える準備しながら、その記念日を実際に生きて一年を巡りながら、

一年の中での成長を得る事を”収穫”、実りになぞらえて教えています。神の暦のサイクルがあるのです。それを人が生きる様に

神が創造されたのです。

春の祭りも秋の祭りも両方”収穫”を祝う記念日であるのです。

 

最初の収穫、贖われた人達が、その後継続して歴史の時の中で

神の家族がどんどん1つの同じイスラエルの大家族加えられ続けて、秋の祭りで表されている最後の収穫で全て神の子らが神の元に集められ引き寄せられる事を収穫祭である祭りを通しても教えているのです。聖書には宗教が教える様に2つ別の家族は存在しません。1つ!異邦人、イスラエルと言う2つ別の家族も無い。

聖書=タナック=トラー(モーセの五書)預言書、諸書に神の言葉、神の記念日を知って聖書を読むと飛び出す絵本の様に事実が

どんどん浮かび上がってそれを捉える事をする事が出来ます。

 

イエシュアも収穫や実りなど農作業、作物、植物の性質を通して同じ様にトラーの本質を教えている事を福音書からも読み取れます。

特別な日、時は、季節が変化する事でも体感しますが、日々同じ様に時が流れて、同じ様に毎日が繰り返されて行く中では、神が作られた日が特別であるとは体感しません。

それは、その日に特別な天候に変化したり空からそれこそ神の声

がショファーの音が毎回聞こえて来て何か特別な日なのだとは

体感しないからです。

 

体感するのは、新月、満月天の万象を見る事でも分かります。

神の祭りは、秋の仮庵は必ず”満月”になります。

ヨムテルアは新月です。そして、春の過越の祭りも満月になる時です。春は少々ずれますが満月です。

古代は天の万象、新月を見て神の祭りが到来した事を告げ知らせたのです。新月も神の記念日なのです。

神の創造された祭りは、全てがシャバットが中心です。週の第七日目のシャバット以外、どの記念日、祭りも曜日が金曜日の日没に来なくてもどの曜日でも”シャバット”と同じ性質、止まり祝う日になると神が人に教えられました。神が言う事を聞いて行く時にだけ真実、真理が見えてくるのです。人の教えを途中で混ぜると神が伝える事が見えなくなって行ってしまいます。

 

第七の月、テイシュレイの月の第一日目、先週の金曜日15日の

晩、丁度週一度のシャバット、第七日目の記念日と重なる日が

ヨムテルアでした。角笛を鳴らす日。神の声になぞらえるショーファーの音は、目覚ましコール!ヨハネが天の国が近づいた!

と言われた事と同じ時期、同じ事を知らせているものです。

バプテスマのヨハネの頭の中には、トラー=モーセの五書=

イエシュアが教えられた父の教えしかない!トラーから話している!と言う事実から福音書以降の全てを読めば見えます。

 

記念日を迎えるには準備期間があります。この準備期間があり

特別な日を待ち望むから、神の記念日が到来した事を体感実感するのです。

 

その日を迎えるに必要な、頭脳の、心の、気持ちの準備期間です。この期間に、その祭りに関して、人と話す、他の人と準備する、そして神の教えを自分だけではなく人と共有して話し合い、実際に準備する期間があります。日本の祭りも同じです。祭りが行われる時にはその祭りの前ある期間、町内会で準備し企画計画し、隣近所の人達、役員さんとその祭りの関して話し合い、集まり、準備しながら交流を深めて親しくなって行くと言う事をするでしょう。都会では地元に根付いて暮らしていない限りその様な事に余り関わりが無い人も多いと思いますが、祭りの準備をした事がある人は、少なくとも町内会の人が集金に来たり、役員になれるかどうか聞きに来たり、もし役割を担う時は町内会の人との交流の期間があるものです。

 

神の祭りも同じなのです。一人一人だけではなく皆で神の教えを

考える時、親しい交わりを持つ時を神がデザインしているからです。

春の祭りから秋の祭り、神がデザインした記念日、祭りの意味

内容は全部繋がっていてどれか1つを取り出して祝うものではない、福音の全貌を表して教えているものなのです。実際に地上でイエシュアがされた業を網羅している事を聖書から、そして神の記念日の全部を祝う人なら、実際にそれらを祝うごとに様々な事を神から教えられ理解して行くプロセスを体験すると神が言われているのです。

過越の祭りを祝う時には、メシアを知っている人とそうではない

人、この祭りを祝うのは主にユダヤ人ですが、異邦人の中でも

祝う人は今大勢います。そしてメシアを知らない人と、知っている人の祝い方、中身の違い、理解の違いも見えてくるのです。

 

今2023年のこの聖書の第七の月、テイシュレイの月の1日、ヨムテルアから、第15日の大贖罪日、9月24日までの10日は、10の言葉、出エジプト20章を一つ一つ思い巡らして

自分の一年の生き方を軌道修正する事を神から伝えられている

時期です。

神の言葉に照らし合わせてズレた事に気がついて、それを悔い改め、神の教えている通りを生きることに戻る事は、この時期は

個人個人ではなく国全体=神の子ら全員がする!!!と言う

特別な時期なのです。

悔い改め!と言うならば、この神が呼び出している特別な期間

大贖罪日までのこの時期、イスラエルも異邦人も全て神の教えを

愛して生きるならこれを実行する事に呼び出されている!と言う

神が伝えている永遠の事実があるのです。人の教えと言う分厚い耳栓に自分の耳が塞がれて、神の声=言葉が遮られているから神の声が届かなくなっているのです。聖書に書いてあっても気にも留めないのです。

耳あるものは聞きなさい!目あるものは見る!とありますが、

聖書には神の言葉をどの様に聞くのかと言う事がヘブライ語では

はっきり分かる様に書いてあります。

 

”もしあなたがわたしの声の中で、わたしの言う通りを聞くならば”と言う表現がされています。私は神の言う通りを読み取れないまま、多くの部分で神が教えている事に全く気が付かず単に素通りして読んでいた、人ごとの様に神の言葉を外からチラッと眺める様な聖書の読み方をして神の招きや教えの多くの部分に全く気がつく事が出来ませんでした。

 

以前私は聖書が同じ1つの福音を語っている事実を全く知らない時、やっとヘブライ語聖書を学び始めて3年が経った頃でも、

神の創造された記念日の事や神が教えられている日々の生き方などほぼ考えないまま過ごしていました。忘れもしない2011年の9月、新しい土地に転勤になり引っ越して来たばかりの時に

”今イスラエルは祭りの時期で忙しいんですね”などと人ごとの様にイスラエルの友人に話していた事を思い出すのです。そして

秋の祭りの一連が何なのかも全然知らないままでした。

 

2011年までは年に1回2回程度2週間くらいの講義に参加して、教師の録音や書籍などを通して学びメールでのやり取りなどで色々教えてもらっていたので、ほんの少しずつしか理解が増えませんでした。2012年以降、実際に初めてイスラエルに行きそして私達の転勤先の近所に先生方の家があり年に2回は必ず来られていたので、近隣国で開催される講義にも同行して参加させてもらったり、我が家や先生方の所に私達滞在する機会がずっと与えられた幸いな時期を過ごして来ました。実際に一緒に生活

する中で、エデンの園、新しい人の実態を生きるお手本を見せて頂いています。

 

そして2012年初めてイスラエルに行った時、シャバットを体験し、その後仮庵の祭りを体験して祝った後、意識が全然変わってしまいました。今まで教えられて来た宗教の伝統の教えと聖書に記されている実際の事実の違いが目から鱗のように剥がれ落ちて、見えて来る体験をしました。これら全て神が創造された記念日であり、神の教えは何も変わっていない事を、実際神の教えを生きる中で教えられ発見した衝撃は忘れる事が出来ないものとなりました。

 

それ以降、彼らが知っている”神の言葉”ヘブライ語に記された

中身が余りにも素晴らしく、そして知らない世界が広がっている

事に魅了され取り憑かれて、私もそれが知りたい!と言う飽くなき願望と言うものが与えられて気がついたら今に至っています。

 

最初の数年での学びでさえも、今まで知らない事のほんの少しの事実しか気が付かない状態でしたが、一度の体験的学びを通して気が付ける!と言う事実があるのです。でもそれはずっと神の教えの真実と真実の点を繋げ続けていたと言う作業の下地があったからでもあります。それがなければ、結局見聞きして来た宗教の教えに照らし合わせて聖書に完全に戻ると言う事が出来ないままになるのです。

聖書に記された事実だけを繋げて行く時に、だんだんと神が伝える真実の図柄が浮かび上がり、神の教えている事が見えてくる

と言う絶え間ない作業が必要なのです。その時に神の言葉のどの部分でも否定して読む場合には真実に辿り着かず別の教えにそれて行ってしまうのです。人が編み出した神の顔=伝えている実態を覆い隠す非聖書的神学教理は本当に百害あって一利なしなのです。

特に聖書とは違う人が作った教えを学んでしまっている場合には、人が創作した教えが聖書ではないと言う事に気が付くと言う連続の作業が必須なのです。聖書の教えではない誤りの情報から正しい情報へ切り替えると言うリセットとは時間を要する作業なのです。そして必ず慣れ親しんだ教えに照らし合わせて考えている!と言う事がある事に気が付かないとならないのです。

 

難しい事が、多くの事が全部分からなくてても、これだけ分かればこの事実に照らし合わせて聖書を読めば、必ず聖霊が教えて

下さいます。聖霊=言葉だからです。神の言葉は全て同じでありどの箇所も廃れて不要で終了した無用の教えなど1つも記されていない!神が伝える通り神の言葉は永遠不変である!と言う事実だけに照らし合わせて、神の言葉を否定したり人の教えに変換して読み違えない様に注意して読めば良いのです。

臭い箇所=イエシュアやパウロがトラー=モーセの五書とは違う

事を話している!と解説する箇所は100%全て聖書の事実とは違う、読み違えの誤解した解説をする人により違う教えがなされている箇所だからです。

 

神殿が存在していた頃イエシュアの贖いの意味を神殿での儀式を通して実際にやった人は一生忘れる事が出来ない体験をし、そして人がズレて生きる代償の意味を屠られた動物を通しても体験し学習していたのです。そのインパクトは大きいのです。

 

神の言葉は生きていてとあります。言葉=聖霊=神だからです。

ヨハネも神=言葉=トラー=イエシュアと書いているのはそれです。神=言葉切り離して考える限り見えない世界です。

 

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。ヘブル4:12

 

神の言葉で世界の全てが創造され、神が語られたその通りになり

神の声=角笛でエリコの城壁が崩れた。

 

今日はヨムテルアから5日目に当たります。10の言葉とは

十戒と訳されていますが、戒律ではなく、聖書の柱を表す

10の項目で表されている神の10の言葉で1つの教えなのです。10の言葉の題目で表されている生き方の詳細が、モーセの五書の中に記されていて、それ以降の書全てはこのモーセの五書

に記された内容を様々な出来事を通して解説しているものが

神の言葉=聖書なのです。

 

1 神の顔の上に別の顔を置いてはならない

2 偶像を作りそれに仕え拝んではならない

3 神の名をみだりに唱えてはならない

4 安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ

5 父と母を敬え

6 殺してはならない

7 姦淫してはならない

8 盗んではならない

9 隣人に対して偽証してはならない

10 隣人のものを貪ってはならない

 

 

続く