秋の祭り 第七の月 終わりの時代 イエシュア 福音は最初から語られている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書には最初の最初から始まりと終わりが書いてあります。

始まりの時に既に終わりの事が記されていて、最初からイエシュアの業、エデンに最後は戻る事が記されています。最初から福音が語られています。

福音、イエシュアの業は、福音書以降に初めて記されているのではないのです。創世記の最初から記されている。タナック=

モーセの五書、預言書、諸書の至る所に記されている。

だから”太古から語り継がれる同じ福音”と記されています。

太古は預言者達により、時代ごとに、様々な方法で、古代の人々に語られ、同じ福音が終わりの時に”肉体を取って地上に来られたトラー”イエシュアにより、タナック=モーセの五書、預言書諸書に記された同じイエシュアの業、福音が語られたと書いてあります。

古代は別の福音や別の教えが語られ、イエシュアが来られたら

違う新しい教えが語られたなどと聖書を勘違いして読み違えていましたが、太古から語られた同じ福音は1つしかなく、救いの方法も永遠に1つしかない。救い=イエシュアを通して以外誰も父の元に来る事など出来ない!他の方法など無い!と神が言われたからです。

古代の人もイエシュアの業を神から伝えられたトラー=教えを

様々な時代の時に、様々な方法で語られた!とあります。

ノアが、アヴラハムがイサク、ヤコブ、ヨセフ、預言者達は全て

同じ福音=イエシュアの業を通して以外神の元に引き寄せられ、元の場所=エデン=神の中に戻る方法などないからです。

全部最初から最後まで同じなのです。違う救いが時代ごとにあると考えるのは、人間の発想宗教の教え、教理に過ぎないのです。

同じ1つの福音、同じ救いの方法の事実を、聖書から読み取れていないだけに過ぎないなのです。

古代の人は理解していた!とあります。何から理解していたのでしょう?

神が語られた教え=それがタナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されているのです。

聖書に登場する人達、聖書記者達には、”タナック=モーセの五書、預言書、諸書”しか存在していないのです。福音書以降を書いた聖書記者は、100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書

に記されているイエシュアの短い解説、コメンタリーを書いているだけなのです。

 

ヘブル1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

 

エデンとは、ヘブライ語で他国の言語に翻訳する時もそのまま音訳ヘブライ語のまま”エデン”としています。

だから、エデンと言う名前の園があるのかと思いますが、エデンと言うヘブライ語は”喜び” ”歓喜”と言う意味です。

神が創造された世界は神ご自身の性質通り”歓喜” ”喜び” 人は喜びを体験する様に造られている事が表されています。

そしてその喜びが存在する状態は、一体。体験的にも誰かと仲違い、誤解し、疎遠になって意思疎通も出来ない状態になったら

心痛いのは、人の本来の性質に反する事を体験してしまっているからです。

幸せと満足感、充実感を感じるのは、誰かと心の奥にあるエッセンスに触れて共鳴し合う。意思が通じ、共に喜びを共有し、

うわべだけの見せかけではない本当の意味での深い所で繋がっている関係、信頼で相手と繋がってるいると体験出来る時ではないのでしょうか。

顔と顔を合わせて関係の中に生きる。神とそして人と。

それが”エデン”が自分の中に存在する状態、神の国とはエデン

そのものの状態です。エデン、喜び、神ご自身。

 

天の国が近づいた。天の国はあそこ、ここにあるのではなく、

人のただ中にあると書いてあります。ルカ17:21

贖われ神のもとに引き寄せられた人達は、今感じなくても現実は

神の中=神の国に存在していると書いてあります。

 

ヨハネ17:23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

イエシュアが人の中におられ、私達信じる者も神の中に居る。
天の国はその人の中にある。神が内側に住まわれて私達も神の中に存在しているからです。
信じる者の中にイエシュア=神=聖霊が内側に今現実に住まわれ
そして私達も同時に”神の中”に居ると言う摩訶不思議な現実。

 

始まりがあれば終わりがある。その終わりは単なる終わりではなく、神以外のものが支配している”悪”の世が終わり、神が統治する新しい世界、時代が始まるからです。

音楽と同じで、スタートしたらそれはその曲の完結するべく流れ終結点があり、どこに向かっているのか、どの方向に行き進むのか、その意図が見えるとその曲全体の流れ、方向性、終着点への帰路が見えます。

それと同じで、神の創造された世界はエデン=喜び=神の中に全てが創造された事が最初から記されています。そして、最後には

元の場所エデン、神の国、神の元に修復されるのです。

 

少し飛びますが、聖書には同じ事が繰り返し記されています。

モーセが神の前に立った時何と言われましたか?

出エジプト3:4 主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。

3:5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。

 

ヨシュア5:15 すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、

「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。
 
出エジプト3:5に記されているヘブライ語とヨシュア5:15で記されているヘブライ語の言葉、文章は全く同じです。
 
なぜサンダル、くつを脱ぐのでしょう?神の臨在がある聖なる
場所だからです。神殿の中も祭司たちは裸足です。そこは神の家
だから土足で上がらないのです。神の臨在が宿る場所。
 
ショーファーを鳴らす日は神の声による目覚ましコール、神からの呼びかけに応答することを促されています。終わりの時にラッパがなると黙示録にもありますが、この日、秋の祭り全体は
再臨、神の前にやがて全ての人が立たされ、神と直接顔を合わせて合間見える時が来ると教えられています。悪の統治が終わり神が統治する時代を告げ知らせるもの、全部意味が繋がっています。
過越のイエシュアの子羊の贖いの血できよめすすがれ、神との隔たりが取り除かれた人達。神の臨在が宿る場所を仕切る至聖所の垂れ幕隔たりをイエシュアが子羊の血で取り除いて下さった。
ヨムキプルには大祭司がこの至聖所契約の箱の周りに子羊の血を振りかけたのです。これはイエシュアの贖いの事実を表しているもので、イエシュアが来られる前からずっと教えられて来たのです。
その人達はこの世の仮庵=目に見えないイエシュアの実態の中に
住まい地上の旅路を守られて歩み、そして新しい時代=神が統治する世界へ移行する事を教えられているのが秋の祭りの一連の
祝い日なのです。未来に確実に来る再臨、出来事、この世の終わりの預言的祭り、リハーサルなのです。
 
神の声になぞらえられているショーファーの音は、イエシュアの再臨を告げ知らせる、王の戴冠式がやがて来る王の王が来られて世界を統治する時がやがて来られる、知らせです。このリハーサルが神の祭りで教えられ実際に実演しているのです。
 
イスラエルが約束の地に入る前にエリコを征服しました。
この時7人の祭司達と7つのショーファーの音と書かれています。単にぼんやりしてるだけで約束の地を獲得したのではない。
もちろん神が与えた約束の地ですが彼らはそれを獲得する信仰が
必要であった、戦いがあったのです。敵と戦い、その敵は神の聖なる場所を汚す”異教徒達”神の聖なる場所に住まうに相応しくない生き方をしている人達が居たのです。その人達と戦わなくては
ならなかったのです。
 
7人の祭司、7日間、7度回る。全部7です。シャバットの7
春の祭り、過越種無しパンの祭りの7日間シャブオートまでの7週間、7回のシャバット。7年目のシュミタ年、シュミタ年を7回繰り返し、全てが元の所有者の手に戻るヨベルの年。
そして秋の祭りは第七の月。完了を意味する7。
1日新月はヨムテルア。
終わりの時の王の到来を告げる目覚ましコール。
10日目は大贖罪日。全ての人が神の前に立たされる。その準備
は”個人個人だけではない全員での軌道修正、悔い改め”
第七の月の15日は仮庵の祭りの祭り。仮庵の祭りは7日間。
全部7で完全、完了、集結、修復が表されています。
そして仮庵の7日の後にある第8日目の祝い日は新しい時代に入る事を意味しています。
 
ヨシュア6:4 七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。
6:5 そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり叫ばなければならない。(叫ぶ=テルア)そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。
 6:16 七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。
 
地上での神の国、イスラエル=神の約束の地に入る事と黙示録に記されている終わりの時に全ての神の子らが神に呼び出されて集められ神の統治する国=天の国の現実を生きる事、この2つは同じ事を平行して教えているものなのです。
 
黙示録には何と書かれていますか?
 

 8:1 小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。

<子羊=イエシュア、過越の小羊の贖い全部意味は同じです>

 

 8:2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。

<ヨシュアでは7人の祭司、黙示録は7人の御使>

8:3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。

8:4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。

 8:5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。

8:6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。

 

黙示録は終わりの時に神の国に入る、ヨシュアで記されている

平行です。

7人の祭司=7人の御使。

ヨシュア記は、7日の間、7度城壁をめぐり壁が崩れて約束の地を獲得したのです。

 

10:7 第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。
11:15 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。