終わりの時代に 神の祭りは福音的預言的祭り | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昨日の日没週一度の第七日目のシャバットとそして神の記念日

”ヨム テルア”を迎える時になりました。我が家でも角笛を高々と鳴らし、イスラエルの仲間ともズームで繋がりショーファーを吹くサービスに参加しました。

ヨム テルアとは、秋の祭の最初の日であり、神の暦の第七の月の第一日目、新月に当たる時です。

 

レビ記23:23 主はまたモーセに言われた、

23:24 「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。

民数記 29:1 七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。

これはあなたがたがラッパを吹く日である。

 

”叫ぶ日、告げ知らせる日、呼ばわる日、角笛を吹く日などと訳されている日です。

角笛は神の声になぞらえるものです。警報、警告、有事=戦争を知らせる警報、神の到来の目覚ましコール、悔い改めを促し神の伝える性質通り、トラーに記されたイエシュア=神が本来創造された人の生き方に戻れ!と言う警告でもあります。

 

聖書=神が伝える教えに照らし合わせて行く時に、今ままで見えなかった世界が見えて来ます。

1世紀のバプテスマのヨハネがこの秋の祭りの時期、大贖罪日を前に国全体皆が神の前に1年の生き様を省みて、軌道修正をする時期にヨルダン川で浸水をしていた事を、神の教えを理解すれば見えます。

 

この時期にヨルダン川で水に浸り古い生き方に決別し新しい生き方=神の教え通りに生きる事を決意する儀式をしていた事が

ヨハネの目覚ましコール”神の国が近づいた!”と書かれているものです。マタイ3章

水に潜る=死を意味しています。以前の生き方に決別し、水の中で死に伏して、水から出て新しく生まれる。

どの時代の人も、イエシュアの死と復活の命を様々な側面から教えられ実際にそれをして体験的に学習していたのです。

水に浸る〜聖霊に浸る=神に支配される。

だからアヴラハムは、イエシュアを理解していたと書いてあるのです。アヴラハムはイエシュアの贖い救い、同じ福音を知っていた、それは信仰により義とされ内住の聖霊を受けていたからです。

イサクを捧げた時も、イエシュアの死と復活の命を理解してた事は疑う余地がありません。イエシュアの口からもその事実が語られているからです。ヨハネ8:56

 

ヨム テルア=ショーファーを吹く日から大贖罪日までの10日の間、トラーが要約されている10の言葉=出エジプト20章にある言葉に、日々1つ1つ照らし合わせて自分の生き方を振り返り

起動修正する日々を過ごすのです。これがマタイ3章に記されている内容でもあるのです。イスラエル=神の子ら全員でする時が今なのです。これは今現在も変わらず同じなのです神の教えは変化しないからです。異邦人も同じ様に神の教えを愛するなら

神の民=イスラエルの大家族の一員なのです。

神のシャバット=記念日を尊重する人は、何と書かれていますか?神の口から直接出た言葉で。

イザヤ 56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

シャバットは全ての記念日を網羅する意味の記念日であり、

全ての神の記念日、祭りは曜日に関わらず”シャバット”=止まる日として祝うからです。

しかも秋の祭りの全てはこれから未来に再臨が来る!そのリハーサルの準備をずっとさせられているからです。

 

神は時を造られ、神の時〜定めの時〜アポイントメントの日を

司るために天の万象、月、星、太陽を造られたとあります。

人は神が造られた時の中、季節=モアデイムのサイクルの中、

神のデザイン通りの性質を生きる様に元々造られているのです。神の定めの時から時の中を生きる事は神のデザインなのです。

 

神の時、季節=モアデイム=一年のサイクルを神の教えを実際に生きて新しい人として成長するプロセスを教えています。

秋の祭りはこれから起きる再臨、イエシュアの統治、新しい時代神の統治する新時代へと移行する事を表しているものである事は聖書に書かれている事を理解し、実際に神の創造された祭りを生きる時に毎年鮮明にその意味を理解出来る内容です。

神の祭りは春も秋も両方全て福音、イエシュアの業、そして預言的祭りだからです。春の祭の全ては地上で既に成就した預言的出来事が起きた内容である事は聖書に照らし合わせれば理解出来ます。

様々な事が聖書には平行して繰り返し繰り返し何度も記されて同じメッセージが神から伝えられています。神の教えやメッセージは歴史の途中で変化しません。

神の伝えるメッセージは神の口から直接出た言葉で伝えられていて、聖書に記されたどの言葉もどの箇所も、”ああ〜”と言う言葉さえもどれ一つ意味の無い無駄で無用で廃られて破棄されるべき

神の言葉など記されていないのです。

 

だから神の言葉を神が伝える通りにどの箇所も繰り返し探求し神が伝えるメッセージを追求する場合には、神から何を伝えられているのかその度に新しく色々な事を教えられ見えてきますが、神の言葉の大部分を端折り読まず学ばず最後の部分だけを繰り返し読んでも、聖書を何年も読んでいても、見えない部分が多くある事に気が付かないと言う事が起きます。福音書〜黙示録は

タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記された教えの要約、短い解説であり、その大元の内容、教えの全貌は最初の部分に全て完全版として記されているからです。

 

神の創造された神ご自身が呼び出している記念日を忘れ去ることも神の言葉を聞かない、理解しないと言う事なのです。神の教えは全て実際に生きて学習し、行動する事である事が記されているからです。頭の中で思い巡らしているだけの哲学や思想や概念ではないからです。実際の生活で神が教えている全てを生きる!

それが神が造られた人の本来の性質、生き方だからです。

これがヘブライの世界、神の国の教えなのです。

詰まり神が伝えている真実、教えなのに、それを退けてしまっているのです。

秋の祭りは角笛を吹く事から始まります。この角笛の音の意味は神の声、神の到来、王の戴冠式、神の国の到来を準備する目覚ましコールでもあるのです。その声を聞く人は幸いと、ヨムテルアの祝いの意味を知った詩篇の記者が書いています。神の教えに目覚めて今が何の時か神に何を伝えられて教えられているのか

知って生きる人々は幸いだからです。

神の記念日、喜び歌い踊り祝うと書かれていればそれは全てレビ記23章に記された神が創造された記念日を喜び賛美しているものなのです。ランダムな特別ではない普段、普通の日の事ではないのです。

 

詩篇 81:1 われらの力なる神にむかって高らかに歌え。

ヤコブの神にむかって喜びの声をあげよ。

81:2 歌をうたい、鼓を打て。良い音の琴と立琴とをかきならせ。

81:3 新月と満月とわれらの祭の日とにラッパを吹きならせ。

<トラーを知る人なら、新月、満月、祭りと読めば秋のヨムテルア、仮庵、神の記念日の事を話していると理解出来るのです。

この箇所は秋の祭りを歌っているものです。>

81:4 これはイスラエルの定め、ヤコブの神のおきてである。

<人が命じたのではなく、神が神の記念日に神が人々を呼び出して、神が伝えた通りにその日を祝う様に命じているとはっきり記されています。>

89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。

主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、

<ヨムテルア 秋の祭りの到来を喜び祝い神の教えを生きる人

は神の光の中に歩む幸いな人>

 

神の言葉=教えに目覚め=知り、その意味を知って祝い神の言葉声を聞いて生きる人、それは神の顔=神と直に顔を合わせる親しさ、神の光=イエシュアの実態の中に歩みとあります。

 

ヨムテルアは第7の月の1日、新月が出る時に始まります。

古代は新月を観測してイスラエルの国全体にこの祭りの始まりが告げしらされ、ショーファーの音を聞いたのです。イスラエルの議会〜サンヒドリン、それらの人達は、トラーの最高峰の高等教育を受けて知識人であり、トラーだけではなく、あらゆる分野の学問を網羅して学んだ人達、詰まりイスラエルの中の学者、エリート中のエリートの集まりでした。だからパウロも人々に割礼を施す事が出来たのです。

そして、パウロはイエシュアに出会う事がなければ当然トラー、

学問のエリート教育を受けた人なので当然サンヒドリンに連なる

政治職に就くエリート路線を歩んだのです。でもイエシュアを

伝える栄光に比べたらこの世の名声は軽いと言ったのはそう言う

意味なのです。

イスラエルの国家憲法は”トラー”です。その中には法律に関する事が書かれ、何が罪でどの様な証人が必要で議会でどう罪の判決が下されるかなどの細かい詳細が書かれています。

天文学を学んだそれらの人達は新月を観測しそして議会に新月の観測を告げたのです。

 

7と言う数字、神の時の暦で表されているこの数字の意味が聖書には最初から記されています。聖書を読むと”7”と言う数字がたくさん記されているのを発見するでしょう。神が最初に聖別と

言う言葉を使ったのが、創世記2:3週の第七日目=神が定められたシャバットの日を指して使われた言葉なのです。

そして第7日で完結する。

創世記の最初からイエシュア、福音が記されています。

7と言う数字は、完全、完了、完結、修復、終わり、様々な意味があるものです。聖書の最初から”7”と言う数字で神がされた業が完全である事を知らせ、安息=神の中に住まう実態を表しているものであり、人の生きる姿、性質を教えているものです。

 

7と言う数字は、第7日目だけではなく、第7年目のシュミタ年

7年のシュミタ年を7回繰り返して迎える”ヨベルの年”でも意味を教えられています。全ては神の元への修復に向かって、エデンに向かって時は進んでいるからです。

7年目は土地も休む。作物を作らない年の前は3年分の収穫があると神が約束しています。レビ記25章。

7年目には負債がゼロになる。人が負債に追われて鎖に縛られて人生をちゃんと歩めないのを防ぐ神の法則教えです。負債者は負債が払えないので、お金を借りたその主人の家で働いた召使い

ボンドサーバントと言われる人は奴隷ではなく、7年目に自由の身になれるのです。

その主人の家で働き続けたい場合、それも可能である。

出エジプト21:1−5

そしてヨベルの年50年目には、土地が所有者の元の所有者に戻り、全てがリセットされる。詰まり終わりの時に神の元に全て戻りリセットされる事が実際の生活の中でも表されているのです。

全て”7”と言う数字で表されています。神の記念日、祭りも7で

表されています。過越からシャヴオートまで7週間、7回のシャバット。ヨベルの年のデザインと並行しているでしょう。

アメリカには、7年で負債がゼロにされると言うルールがあります。州により違うのかもしれませんが、7年で負債チャラ?と

聞いて、これが聖書の神の教えから来るものであるのを知りませんでした。アメリカでは病院で生まれた男の子に割礼を授けるのは普通の事です。アメリカで出産した日本人の方も男の子が生まれたら割礼を受けています。これもアメリカに移民したユダヤ人が聖書の教えをそのまま医療の世界にも伝えたのだと思います。

そして、大学の教授達が”セバテイカル年”と言って、一年休みをもらって自分の研究をすると言うのがありますが、

これも聖書の7年目の休みからコンセプトが取られているのだと

気が付きます。

これは深く聖書を探り学びその意味を神の言葉から知って行くと

見えてくるものがあります。

 

続く