人の創作の教えと神の伝える真実とを聖書に基づいて識別 区別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

秋の祭りは一年を締めくくる最後の祭りであり、その祭りの後に

又命のサイクルを生きる暦がスタートします。

ゼカリヤ14章に来たるべき未来は世界中の国々が仮庵の祭りでエルサレムに来て祝うとありますが、仮庵とは神の祭りの最後のブックエンドである、仮庵が書かれていると言う意味は、シャバット新月、そして春の祭りを祝い、最後の仮庵を祝うと言う意味で書かれているのです。神が創造された聖会=祭りを1つ2つ取り出して祝うのは神の意図、シャローム〜欠けがない完全な状態にはならないからです。

 

そして秋の祭りから、春の祭りまでは、神の祭りが何も無い長い冬の期間があります。

冬にはハヌカがあるんじゃないの?と考えますが、ハヌカはレビ記23章に記された神が呼び出した日=福音、イエシュアの業を網羅する神の創造された記念日とは違う性質の祭りです。

ハヌカは、マカバイ戦争でユダヤ人達が異教徒たちから偶像、豚や汚れた動物が祭壇に捧げられ神殿を奪われていのを取り戻し、神殿をきよめて再び奉献した事を祝う記念日なのです。

 

イエシュアもこの”宮きよめ”の祭りでエルサレムの神殿に来られて祝った記録が聖書の中、唯一ヨハネ10:22に記されています。

冬至がある12月には古代からの慣わしで異教の神々の祭りがたくさんあります。異教の神々の祭りは春分、冬至、夏至、太陽にちなんだ日に祭りを行うからです。

元が太陽神、エジプトの異教神、ラーに繋がるものです。

 

異教徒の祭り、偶像、汚れた動物の血からきよめられ、神の神殿が神に再奉献されたのがハヌカの祝いの背景の出来事です。

12月にはユダヤ人はハヌカを祝い、クリスチャンはクリスマスを祝うのではないのです。クリスマスも4世紀以降異邦人の新宗教、ローマ教により作られた祭りであり、聖書には記された祭りではありません。

キリストが地上で誕生した事は事実ですが、その事を祝う様に

神は人には1度も伝えていません。どうしてだろうと思います。しかもキリストの誕生はひっそりとでした。ヘブライ人の世界には誕生を祝うと言う慣わしもありませんでした。

神は永遠から永遠に存在し、終わりも始まりもない。

そして神の記念日の中に全てが網羅されているからです。

 

この冬の時期にイエシュア=救い主が生まれたのではない、その様な事は聖書には記されてもいない事を今や多くの人は知っています。12月25日はキリストが生まれた日ではないからです。

この冬の時期は異教神祭りがたくさんあり、異教の神々の祭りの代わりに、この時を我々異邦人は救い主の誕生日に変えよう!と異邦人が決めた記念日、それがキリストが生まれたのではないのに12月25日をキリストの誕生日にしようとなった経緯です。

ロシア正教では、1月7日がキリストの誕生日ですが、2度もキリストが別の日に生まれたと言うのは聖書に記された真実ではないですよね。だから人の創作した記念日なのです。

その様な事は聖書のどこにも記されていないのです。

しかも寒い寒い冬にイスラエルで羊飼いが野外に野宿して羊が

外で出産するのを見守るのは、この様な真冬ではないからです。

羊飼いは真冬に野宿などしないからです。

まあ便宜上、この異教の神々の祭りの時期に自分達の宗教の祭りを便乗すれば、宣伝になると考えた、あのハロウイーン〜悪霊祭りをカトリックの聖人の祭りと変えたのと同じ思考回路です。

 

キリストの宣伝になれば事実を曲げると言うやり方は異邦人のやり方です。

ザビエルが日本にカトリックを伝えに来た時に、”仏教の一派の天竺教です。”と言う偽りを言って日本人に紹介したのと同じ思考回路です。事実を語らなくてはどうしようもない。

 

聖書の事実と人の創作話をはっきり分けて、何が聖書に記された事実であり真実で、何が人の教えの作り物なのかを知っておく必要があります。フィクションとノンフィクションと書物を紹介する時にはっきり伝えている様に、フィクション=創作話はフィクションとしてその事実を伝えないとならないのです。私達は聖書ではない不真実をあたかも神の真実のごとくに他者に語る事を神から禁じられているからです。

はいははい、いいえはいいえと言いなさい。伝統で語り継がれた人の創作の教えと、神の純粋な言葉、教え、真実とは異なるものだからです。

人の言葉でもその本人が言ってもいない事を、誰かにあの人がこう言ったああ言ったなどと言うことは、その人に対しての不遜、

無礼行為、侮辱、不真実で信頼を損なう行為なのです。

ましてや神が言ってもない事を神が言った言ったなどと人間が

神の言葉を塗り替えて言い換える事は天が許さない行為なのです。

ユダヤ人がイエシュアを嫌うと言うのは、嘘で塗り固められた

異邦人が語る一部の創作の教えのせいであると言う事にも気がついたら良いと思います。

 

秋の仮庵の祭りの後は、春の祭り過越まで長い冬の時期が来ます。その中であり様々に日常の中で起きてくる事件、出来事を通して、自分の中にある”古い人で生きて来た障害物”が何であるのか、神から教えられる時です。

この時が一番キツイ内容に直面する事に気が付きます。

 

でも自分が対処、対応、向き合う事が出来ない内容を神はその人に決して持ち出して来ないのです。なぜなら、深く潜んだ”歪み”や”傷”に対応出来る、問題に直面して、それらを自覚し問題の根に対処する力に相応しい課題を見せられるからです。

そうでなければ手に負えない、対抗出来ないものに自分が潰されてしまうからです。

 

アダムとハワの罪=ズレが全人類に影響し、そして先祖代々それぞれの人が生きて来たズレが今の自分にも影響を与えているのです。水は通って来た全ての場所を記憶している事実がありますが私達の中にあるDNA、水の中にも先祖の罪の記憶が知らない間に継承され刻まれているのです。

 

だから自分はどうしてある事柄にこの様に反応するのだろう?と

理解不能な感情や反応はどこから来ているのか?

それは必ずどこかに原因、由来があるからです。

自分の直接の親なら親の行動考えが自分に大して多大に影響している事を自覚出来ますが、祖父母、曽祖父母、その先に居た先祖など名前さえ知らないのに、彼らの生き様が記憶として今の自分に影響を与えているなどとは考えないのです。

 

イスラエルに居るユダヤ人の友人がたくさんいますが、彼らの家族の誰か必ず皆ホロコーストを体験しています。そして自分が直接その体験をしていないのに、自分の中に確実に影響を与えて今を生きる妨害になっている事を自覚していると何人もの友人が話しているのを聞きました。パニック障害に悩まされた、恐怖に

悩まされた、ベーコンの匂いを嗅ぐだけで具合が悪くなったと言う話を聞きます。

 

日本にも”親の因果が子に報い”などのことわざがありますが、

呪いは代々受け継がれてしまう、呪い=神の似姿を生きなかった

代償は確実に影響してしまうとあります。記憶として誰かの生き様が私達のエッセンスに刻まれて継承されてしまう。

でもその負の連鎖を断ち切るのは、新しくされた人として生まれ

変わったその実態を日々生きて、本物の自分を自覚する、再所有しなければならないプロセスがあるのです。

 

キリストに出会って新しくされた、全てが新しくされた!とありますが、そこで全て終わったのではなく、単なる始まりなのです。

自分の中にある記憶、行動パターン、物事に対する反応の全部が自動的にリセットがされるのではない事は、モーセの五書、イスラエルが代表として通った荒野の旅路の出来事の数々を読んで

聖書に登場する他の人々、ヤコブ=イスラエルの人生を通しても新しくされた人で生きる事を再学習する訓練が地上で残っている事をはっきりと教えられています。

自分が誰か分からないまま長い間生きていたからです。

 

以前よく聞いた教えは、救われた瞬間、瞬時に全てが変わり自分が変化し別人になったかのごとくに教えられ、そうではなければ聖霊に満たされていない、祈りが足りないのだなどと言われましたが、その説明は不適切であり、様々な要素が抜けている、空洞化しているのです。

空洞の箇所は、”神の言葉”=実態を生きる!と言う事がすっぽり抜けている事です。

パウロが説明している”主と共に死んだ人”の記憶に振り回され

新しい人で生きる妨害がされているとあるのはそれです。

 

新しくされた事実は瞬時に与えられています。でもその新しい人で生きると言う訓練のプロセスが全ての人に残されているのです。頭脳に割礼を受け続けて生きるプロセス=神の目から全てを見て生きる訓練があるからです。

 

アヴラハムが神に突然呼び出された時、”東西南北”を見よ!と

言われましたが、その中には、神の目線に合わせて神の視点、思索から全てを見ると言う事をこれから教えられる事が書かれているのです。

この東西南北と言うヘブライ語の意味の中に深い教えが秘められているのです。これは以前に説明したので今は端折ります。

 

新しい人で生きることは神がする事ではなく、新しい命に変えられた個人個人が新しい人の実態を生きて再学習再所有する以外に出来ない事なのです。楽器を与えられ楽譜を与えられたらそれで

その楽器の演奏を習得できるのではない。実際に練習学習なければ上達しない。どの分野でも同じなのです。

だからそのプロセスを端折れば、救われてもな〜んにも変化ない

元の古いキリストと共に死んだままの自分で生き続けてしまうのです。

 

クリスチャンの世界では、神の言葉=古い律法であるなどと言う

不適切な翻訳と異邦人が作った神学教理のせいで神の言葉を覆い隠し真実を曲げて多大に誤解しています。

 

聖書に無い教えを神の教えのごとく教えられていますが、神の言葉がどうして与えられているのかその根本を理解していないからだと思います。

神の言葉は救いを得るためとか仮の義を得るためとか、そんな事のために与えられているのではないからです。

いつ文字で記された契約書=神の子らが生きる詳細が与えられたのかでも分かります。贖い出され救い出され新しい人とされた

事実を得た後です。クリスチャンも同じでしょう。

神の子らとされた人がどう生きるのか何から学ぶのでしょうか?

聖霊で書かれた神の言葉=教えにより生きる!とイエシュアが言われた通りではないのでしょうか?

 

 

続く