イエシュアの業 福音を網羅する神の記念日の意味 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日は週一度の神の記念日です。

人間ではなく神が聖別され創造された定めの日アポイントメントの日=神ご自身が神の子らを呼び出し聖会をする日シャバットです。

神が6日の間創造の業をし全ての業を完成し終わった。7日目に止まられた。だから人も神と同じ様にし、神と共に止まり祝う日と、シンプルに神は人に神の考えを伝えているのです。それを人が聞いて実行するか、聞かないまま実行しないか、その違いだけで、神の語られた教えや記念日は永遠に変わらず神の声を聞き受け取る人達が神と共に永遠に祝い続けられて行くものなのです。

 

従うと訳されている元のヘブライ語の言葉は”聞く”シャマ!です。神はイスラエルよ聞きなさい!と言われました。

神は唯一であり2つに分裂したものではない、その神の言う事を

聞いて生きよ!と教えているのです。

マスターが言うからその通りにしようとサーバントはするものですが、マスターが言う事とは違うことをしようぜ!と言うのが

宗教の始まりなのです。

 

申命記 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

<シャマ イスラエル アドナイ エロヘイニュ アドナイ
エハッド>神が言う教えを聞くのか、人の教えが混ざった宗教の不純物の教えを生きる事にすり替えるのか、その警告が最初の最初から神から与えられているのです。

 

そして8月31日は満月でしたが、今度の9月の満月は”仮庵の祭り”が始まる日です。仮庵の祭りは必ず満月になります。

一年を締めくくる最後の祭りが秋の祭りです。

 

神は創造の時に、月星太陽=天の万象は神の時を司るために

造られたと言いました。神の時=モアデイム=神の記念日=レビ記23章に記された神の記念日を司るためにこの天の万象を造られたと人に教えています。

詰まり、人は神の時、神が造られた時の中、神の暦で司れられる季節の中、神が伝える人の生き方を生きるサイクルの中に造られた事実が記されているのです。


神が創造された記念日は、週一度の第七日目以外、曜日には関係なく、第一の月、第七の月と言う事が書かれています。

 

今度来るミクラ コデシュは、第七の月の第一日目です。

ショファーを吹く日。神の訪れを告げ知らせる日。

テイシュレイの月の第一日目

 

今年は西洋暦では9月15日、金曜日の日没から始まります。

そして、大贖罪日=ヨム キプルはその日から10日後の第七の月の10日。9月25日、月曜日日没から。

そして仮庵はその5日後の第七の月の15日から。

今年は9月29日金曜日の日没から7日の間仮庵の祭りで最後の8日目も聖会である日程なのです。

 

注目すると神の暦、日程には意味があり、その日程の数字の中に神の教えがびっしり詰まって込められています。

第七の月、1、10、15日。

シュミタ年やヨベルの年も同じです。”7” 7年を7回繰り返してヨベルの年になる。買い戻しの年。神により修復される事を表す数字でもあります。

買い戻し、贖いを表すものです。

取り上げられていたもの元の所有者の元に戻る。

春の祭りの暦も、過越から7週、7回のシャバットでシャヴオートが来る。同じサイクルを教えています。7X7=49 ペンテコステと言うギリシャ語は第50日。7週を7回過ごした次の日が

第50日目だからです。神の教えは一貫しています。

何もどこも永遠に変わらない。なぜ?神=言葉=イエシュア、

イエシュアは昨日も今日も永遠に同じ!と神がそう伝えている通りだからです。

 

秋の祭りはこれから未来に実現する再臨を表すものです。

レビ記23章に記された神が創造された神の祭り、記念日は全て福音、イエシュアがされた事を網羅するものなのです。

だから神の教えを理解し神の時を生きる人達はイエシュアを

タナックから理解していたのですどの時代でも。

太古から伝えられる同じ福音!と聖書には記されています。

福音は1つしかないからです。イエシュアは1つだからです。

そして、異邦人の世界で語られる様に神の教えや祭りは終了するものではなく永遠に存続し神の子らで生きて祝われるものです。

聖書に無い、人が考え出した教えを元に語る事を全ての人が止める日、やめさせられる日が必ず来ます。

神の真実だけが世界を覆う日がやがて来ます。

その日には神の宮=家に偽物を売る商人は存在しないとある通りになります

 

神の家の中=神殿の中での様々な事、意味を知ればイエシュア

そのものを表している事にはっきりと気が付く事が出来ます。

エデンの園を飛び出した人達はどの時代もどの人種も誰一人として、そのままの状態ではエデンには戻れないのです。

父の元に飛び出したそのままでは戻れない。

命の木に、エデンを飛び出したままアクセスしたら危険。

別世界に飛び出て隔たりが出来てしまった、元の状態ではなくなってしまった。

だからそのままで神に直面し触れたら死んでしまう。

チェラビムがエデンの園をガードしていますが、同時に”ここに戻れ!”と言うシグナルを発しています。

 

神殿の中にある至聖所には、たった一人=神に選ばれたレビ族の

アロンの家系の大祭司しか入れません。一年に一度ここに入り

神の臨在とアクセスする贖いの血をふりかけると言う儀式があります。何を表し教えているのでしょう?

ヘブル書で記された新しいものが来たら以前のものは廃れると

ありますが、神の教えが廃れる事など書かれていません。

 

未来にイエシュアが実際に地上に来られる時が来て、イエシュアがエルサレムの神殿から世界を統治する王の王として戴冠式を

済ませたら、その王の王は、レビ族のアロンの家系の大祭司が

代理をする必要はなくなると言う事なのです。

イエシュアはユダ族、ダビデ王の家系に属する救い主であり

レビ族ではありません。天の大祭司。

地上と天は、地上=本体、地=本体を表す影です。

でも地上で天の家の現実、イエシュアの福音を表す一連を神殿で

司り人々に教える事を任命されたのはレビ族です。

 

その地上の代表者は実際に本物の救い主が地上に再び来られたら、影の役割をして人々を教えていたレビ族の大祭司はイエシュアの代わりをする必要などなくなるからです。

 

一年に一度の大贖罪日に、イエシュアを表す代表である大祭司が

至聖所に入るのですが、ここには垂れ幕があるのです。

人はエデンから飛び出して神を直接見て神と顔と顔を合わせて話す、関わる所から隔たりの場所へ出てしまいました。

この隔たりを目で見える形で表しているのがこの幕ですが、

これを大祭司が通って人とのとりなしをしている、イエシュアを

教えているものです。イエシュアを通して以外誰も父の元にアクセスできない事を教えているのです。同じ福音。

 

神の家の中の出来事、レビ記に記された事はたくさんの内容が詰まっているので一括りには書けませんが、1つ1つイエシュアがされた事、私達が神の前にどの様に新しくされているか、どの様に傷、ほころびを癒し修復するのか、どの様な意識で神の前に出る事を教えられているのか、その詳細が書かれているのがレビ記の中に記された神の家で行われる一連の儀式の中で教えられているのです。

春の祭りは記念日は実際に地上で既に起きた出来事です。

出エジプトの一連の出来事はイエシュアの業も表しているものです。そしてイエシュアを信じた人全てに繋がる事実を伝えている

ものでもあります。

神の中から生まれ出た人達が偽物の主人に仕える場所に長い間生きて、本来の自分が失われたままになっていたのを、神ご自身が自ら計画し、人々の所に来られて救い出された。自分で考えて自分を救出したのではなく、神の方から一方的に救い出して下さった。

救い=イエシュアの業はタナック=トラー、預言書、諸書の

至るところに記されています。

そして贖いの代価は神が支払って下さったものであり、人が支払えるものではありません。

 

よくクリスチャンの教えの中で、ユダヤ人は昔は神の律法を守ってかろうじて許されていたなどと言いますが、それはとんでもない誤解をしているのです。

神の言葉は救いを得るために、仮の許しを得るために与えられているのではないからです。その様な目的のために神の言葉、教えが与えられているのではない!

神の教えを実行したから人は贖われ救われるのではない!と言う

永遠の事実にまず気が付かないとならないのです。人の手柄や

行いで救われるならイエシュアは要りません!と言う事になるでしょう。

そして、その様なずれた思考の教えを語る事で神の伝える事実

真実、真理が大幅に覆い隠されてしまっています。だから他の

異教の宗教の様に偶像礼拝=自分の努力で清められよう、より良い人になろう、神に喜ばれよう、神に犠牲を捧げようなどと言う教えに変身してしまうのです。そしてその様な教えによりいつも実は神の前に怯えさせられているのです。捧げ足りてない、自分は神に対して十分にやってない、神は自分から何かを取り上げるかも知れないと言う奥底に潜んだ恐れを生み出す、それは神が伝える真理ではないから、人を縛る教えだからです。異教の神々に仕える思考回路、偶像礼拝の根の意識そのものです。

 

誰一人何かをしたから仮の救いが与えられるとか、仮の許しが与えられるとか、それらの異邦人の教えは聖書の中には存在しない

架空の教えなのです。聖書を書いてある通りに正しく読み取れば分かる事なのです。

なぜなら救いは1つしかない!救いを人が人の努力では得る事など出来ない!とはっきり書いてあるでしょう。

イエシュアを通して以外誰も父の元に来る事は出来ない!と。

 

しかも神殿の中で神の教えを教育されていた人達は、イエシュアを理解していたのです。それは全員が理解していたのではないのです。今でも同じです。目が開かれて頭脳に割礼がある人、聞く耳を持つ人、神が教える真理を捉えた人々、いつの時代にも神の伝える同じ教え同じ福音を理解していた人は存在していたのです。

そしてこれは絶対に知らなくてはならない事です。

聖書は創世記〜マラキしか存在していなかったのです。

聖書に記されている聖書に登場する人達全員タナックしか知らない!

そして福音書以降は5世紀になってやっと聖書と認定されたものであり、その中身はタナック=トラー、預言書、諸書以外の教えなど記されていない、タナックの短い注解書である!!!!と言う事実を知らないと聖書の事実は見えてきません。

多くのクリスチャンは福音書以降にはイエシュアが来られて新しい教えが出現し、許し救いが初めて与えられたのだ、聖霊が初めて人の内側に住まうことになったなどと考えているから聖書に記されている永遠不変の事実見えてこないのです。

 

聖書を最初から読めば人々は、イエシュアを通して新しくされた

事実を知り内側に新しい命を持つ人がどの時代にも存在し、聖霊を与えられ神と対話して、神との関係を生きていたことが記されています。

ダビデはどうして深く深く救い=イエシュアを理解していたのでしょう?モーセの五書に記された神の教えを理解していたからです。

それを理解出来ないのは、聖書に書いてある意味、事実が見えないからです。

 

続く