偶像礼拝と言う言葉を聞くと人の手で掘った作った偶像を拝む事、偶像がたくさん祀ってある異教の神々の神殿、寺院、神社に足踏み込む事などと考えると思いますが、偶像礼拝の根はもっと根本的なもので、深い闇がある事がタナック=トラー預言書、諸書には記されています。
偶像礼拝の本質は、異教の神々に対する関わり方をイスラエルの神に対してする事なのです。
異教の神々は人に何を要求し求めますか?”生贄” ”犠牲”一番大事なものを差し出す事。だから、自分の子供を生贄として捧げていたのです。闇の世界ではこれが今も行われているのです。
でもイスラエルの神は人に対してどの様にされましたか?
失われた人達を取り戻すために、失われて迷い出た場所まで
イエシュアが来て下さり引き寄せて下さった。永遠の中で支払われた贖いの代価=イエシュアの命を与えて下さった。
この違いが見えるでしょうか?
宗教の教えの中で、混ざった意識を投入されます。あなたは神のために何を差し出すか?何を犠牲にするのか?賛美歌でも歌われている。それって偶像礼拝意識です。人は神に与えられた性質
神のプラン通りに生きる!それが本当の生き方であり、神に対して支払いきれない負債をお返ししますなどと言う教えは神が伝える事ではないです。
”本質がずれている、神の言う事では無い事に聞き入り生きる”
それは全部偶像礼拝です。
関係の世界、関係の中身の本質が無い、御利益を求めるのが宗教の教えの中心であり、自分が何かをして神を喜ばせないとならない、怒らせてはならないと常に考え、その結果自分の願いを達成し御利益が得られれば良いとする。だから繁栄の神学などまさに異教の宗教と全く同じ本質、性質、思考回路でイスラエルの神を利用し自分が神を動かす!と言う根本的にずれた場所で考えていると言う事が分かると思います。
そしてこの手の教えは肉の頭脳にはとてもアピール、魅惑的に聞こえます。なぜならこの世の願望に染まる人、異邦人は本質的にこの世の欲、富に心惹かれるからです。だからその富を得るために偶像に仕えるのです。
自分の願いを叶えるために必死で祈り続けて神の気持ちを変えようとする行為も全く同じです。聖書に書かれている祈り=テフィラとは、人が神のみ旨通りを知り、その通りに生きる事に同意する認識を持つ行為であると聖書には記されています。
詰まり自分の思索が神の思索とぴったり一致するための行為。
だから神のみ旨ぴったりであったらそれは山を動かす事=神に
取ってみ旨ならば何も不可能ではなく、人は神のみ旨通りを生きる事に意識があったら、それは神のみ旨通りになると言う事が
書かれているのです。世間で聞かれる祈り=努力して自分の願いゴリ押しにする感じがしてなりません。神の考えより自分の願いが第一。自分の願いが神の願いとずれていたらそれを軌道修正してもらう、自分の願い=神のみ旨ぴったり一致!それがトヴ最善だからです。
自分の念力で神を動かそう〜神の意識を変えよう!考えるだけで
変だと気がつく。常に人は神=灯台に照らし合わせて考え行動するそれをさせられているのです。
様々な要素が詰まっています。偶像礼拝の根本は、神の言う事ではなく、別物を慕い、別物を崇拝し、別物に頭脳、思索、心を
捧げる事です。
最初の最初に書いてある偶像礼拝の根=アダムとハワが神の言葉
声ではなく、別の声=蛇の声、蛇の思索に聞き入り、神の声=教えの中で考え続ける事から気をそらして、別物=偽物の教えに聞き入りそれを信じて受け入れ実行に移した!これこそが偶像礼拝の諸悪の根源であり、罪の源である事が書かれています。
神からの大事な厳重警告です。蛇の嘘を食べてはならない。
命の木からだけ食べる。
イスラエルが約束の地に入り、神が与えた神の臨在、実態を世界へ伝える聖別された場所を所有するにあたり、何を神から伝えられたのか。高き所、偶像礼拝、イスラエルの神に属さない異教の
神々の慣わし、教え、儀式の一切を一掃する事でした。
それが世界に向けての”地の塩、世の光”としての役割を託された
人達がしなければならない事、大掃除であったのです。
割礼のある頭脳=神の目から見る通りの頭脳、そして神に属さない性質の生き方、思想、習わし、風習、儀式を一掃する。
聖別と言うヘブライ語の言葉を考えてもはっきりしています。
”神の目的通りにこの世と分かたれた生き方をする”と言う意味であり、この世=イスラエルの神の性質に属さないものを取り入れ
交わり、同化したまま、神の子らは不純物状態では生きられないよ!と言う事を神から教えられそう伝えられているからです。
この世にありながら、この世のものに交わらない染まらない生き方=聖別=境界線がはっきり敷かれていて、その境界線=神の子らはこれこれを生きて、これこれを生きる様に造られていないと
言う事は神の教える教え=言葉を知らない限り見えないものです。
申命記11章には、神の国=イスラエル、約束の地に入ったら
聖別された天の現実を反映する国として神が造られ定められた
場所に生きるには、その場所をぼやけて混ぜ物の生き方で汚してはならないと教えています。目に見えない神の栄光、性質が地上に反映されるとは、人が神の性質通りを生きる事を通して可能になり、周りに実際に見える形で現れ出るのです。
その時に、”異邦人は異教の地に住むから関係ないさ!”と考えるかもしれませんが、もちろんイスラエルに住む状態と異教の神々の国=神の教えなど丸無視して生きる国に住む場合は、状況が
違うのは事実です。神の記念日に国中が祝日になるなんて世界中でイスラエル以外にありません。
たとえ異教の神々の国に住んでいたとしても、その中で神の教えを忘れずに生きる、神の子らとされた新しいアイデンティティを聖書=神の言葉から学ぶ、知る。神の子らは何を生きて、何を
生きない様に造られているのか、神の言葉ートラーを学ばないならその全貌は分からないのです。聖霊に導かれて教えられる真理とは、神の言葉で記された真理以外にないのです。
聖書=聖霊全く一致し矛盾や相違が無い。神の言葉は聖霊により書かれた!とあるからです。神は内部分裂する様な矛盾など無い。神が神の口から発せられた教えは永遠に同じ!と言う基本中の基本を神の言葉から知る必要があるのです。
福音書以降には神の子らの生きる詳細は書かれていません。
トラーの抜粋しか記されていない、罪の全貌詳細も記されていない!それは最初の部分に全部記載されているから、重複していない、トラーを知っている前提で福音書以降は書かれている=だからイエシュアは契約=トラーを受け取った代表=イスラエルの
失われた羊の所以外には遣わされていない!と言った意味がはっきり見えるのです。
それは異邦人がセカンドグレードの人種だからではなく、先ず
神の家族の代表=長男=イスラエルの所に来て、タナックに記された神の言葉、教え=福音を正確に世界へ伝えるには、イスラエルが先ずタナックに記されたメシアが来られた事実に気が付き
そして世界へ伝えるそれが起きたのが1世紀なのです。
1世紀はほぼほぼイエシュア信者の全てはユダヤ人、ごく少数の
異邦人しか存在しませんでした。
神の子らはいつも神の国に意識を向けて、神の教えられる真理に
生きると言う事はどの場所に住んでいても変わらないのです。
神の教え、インストラクション、説明無視して勝手に生きるのがこの世の生き方です。
コピペすると長いのでしませんが申命記11章を読んでみて下さい。
そしてパウロが語る神の教えではなく人の教えを生きるとは、それらの内容を考えている事、ローマ1章でも読み取れます。
人はなんでずれるのですか?ずれたのでしょうか?
神の言う事ではなく、自分の考え悟りを優先したからです。
今の世の中でも、クリスチャンの世界でもこんな事を言うのを
聞くと思います。
あなた自身の”真理”を発見すれば良い。あなたが感じる正しいと
思う事をすれば良い。でも神は神の伝えるインストラクションを
生きよ!と教え、それが正しく真実で真理であると人に伝えています。
でも世間で聞かれる教えは、人の概念、考えが重要!と言います。人が自分が猫であると主張すれば猫となり、馬となり
そして、自分の自己像、アイデンティティが分からなくなり
男が女に女が男であると考えて生きる事が良い事であり、誰からも批判されるものではないと言う。でもこれは神の真実を知らない、偽物の自己像を学んだ結果であり、それらを生きる人達に
周りが影響されて、それが良い事であると考え、世界は暗闇の
ドツボに導かれて行っているのです。
ローマ帝国が滅びたのも自己像が分からずLGBTを生きた結果で
あるのです。人は神の性質以外を生きると必ず破壊されてしまうと言う神が伝える真実を理解していないから、自由自在に自分の感情悟りに頼り勝手に生きるのが良い!と考えるのです。
問題の根の本質はどんな事、どんな課題でも同じです。大小差は
あれど、同じ。それは人が神の言う言葉、教えを無視する!それから全てのズレが始まるのです。二つの箸をぴったりではなく少しずらせばそれは永遠に違う方向に向かって逸れるのと同じです。
少しのほころびが、世界をこの様な悪に導いてしまった。
少しのほころび〜神の言うことなど本当じゃないかもしれない
神は本当はそんな意味で言ったのではないかもしれないと言う、
神の言葉をしっかり握り、それない!と言う事を怠ったアダムから罪が全世界に浸透したのです。
宗教の教えとは本当にいらないものです。人の選択でどんな生き方をしてもそれはその人の選択です。でも神が言う事を曲げて
別物の教えを主張し実践すること、本当にこの事が神が伝える
真実を妨害するものであるのです。
今日は神が定められた週一度の記念日 シャバットです。
人間が猫であると言う、男が女であると主張する。
神の記念日は別物と主張することも、問題の性質は同じです。
神が言う真実を人が塗り替えてその人の考えで変えてしまっているからです。
神の伝える真実では無い、人が感じる人が考える概念で記念日を
変えた。それって神がしなさいと言ったのではなく神が禁じていること、神の言葉に手を付けて変えた罪でもあるのです。
新月も月に1度しか空に現れ出ないでしょう。その日をホデシュ=新月と言い、祝う日です。新月はユダヤ人にはこの日に現れて、異邦人には別の日に現れますか?同じです。1つしかない。
神の創造にぴったりマッチしている、1つしかない。シャバットは1つしかない。宗教の編み出した安息日は神が伝える安息日ではないと言う事実にさえ聖書から気が付けない、私は少なくとも
15年前で気が付けなかった。聖書にはっきりシャバットは第七日目とあるのに、日曜日=第一日目と読み違えていた。
宗教の教えと、神の教えは違う!と言う基本中の基本の事実
ある事柄は同じでも根本的な事がずれている!と言う真相を
聖書の記述から神が伝える永遠の真実を把握しない限り、人の教えなのに神がそう言ったとアダムが蛇の声を神の声と錯覚したことと同じ間違いに陥るのです。神は神の言葉を変えない。
だから聖書ー神の言葉に照らし合わせて自分の頭でじっくり神の伝える言葉に向き合い考え真実を把握すると言う基本的な
作業は必要です。
神が伝える最初の警告、神の言葉から逸れて違う教えに騙されてはならない!それがはっきり聖書に記されているのです。
Shabbat Shalom