シャブオートでエルサレムで起きたクリスチャンとユダヤ人の間の暴動 隔ての壁 敵対心2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に記された”神の言葉”は、私達人に対しての誠実な神の永遠不変の証拠約束保証であり、神の言葉のどの箇所も互いに違う

意味、内容、年代の新しい箇所が年代の古い箇所を塗り替える、否定する、敵対する、破棄すると言うものは1つも書かれていません。

聖書に記された神の言葉は一貫して同じ事が貫かれ全部が同じ

意味、同じ内容、同じ真理を語っています。神の言葉、教え、

インストラクションの全ての土台は、モーセの五書=トラー=

婚姻契約に記されたものです。

 

イエシュアが教えられた事、生きられた事は100%父の言葉=モーセの五書=トラーであり、イエシュア=トラー=イエシュアは”ハ トラー”と呼ばれていたのです。ヨハネが”言葉が人となって来られた”とは、トラーが肉体を取って地上に現れたと言う

意味です。異邦人には神=言葉=トラーとは繋げて考えられないのが普通だと思います。その様な下地の知識が全くなく聖書を読んでいるからです。

隔ての壁とパウロが語った”分厚い壁”は、ユダヤ人と異邦人とを隔てる、決して交わりを持たない分裂した関係であったものを

神は神に創造された人、人種に関わらず誰でも神の言葉を聞いて

イエシュア=救いを通して贖い出された人は、同じ天の宝を相続する同じイスラエルの神の家族である、その人達の間には、

隔ての壁は存在してはならないし、存在するものではない。

隔てを生む教えは人が作り出した律法であり、伝統で語り継がれた戒めであると書いてあるのです。イエシュアは隔ての壁を壊し人々が神にあり1つになるためとあるのに、ひどい分裂状態なのです。無数に違う教え、宗派、敵対心、闘争心。

 

クリスチャンとユダヤ人の間の深い亀裂は、互いが誤解している内容があり、これがいつか和解されるのは、1つの道しかないのです。神の言葉で記された真実に戻る!両者がです。

 

言葉=イエシュアであるのですが、イエシュア=トラー=モーセの五書であり、ユダヤ人の中にもイエシュアや神の言葉に対しての誤解があるのです。この理由は長い年月に渡る異邦人が神の言葉を曲げ続けて来た教えに対しての抵抗であり、そのために本物のイエシュア=救いを認めない、クリスチャンが語る救い主は

別の宗教の教祖様であるくらいにしか考えられないからです。

彼らは何が何でもクリスチャンの言うことには全て抵抗しようと言う態度があるのです。

彼らから見たらクリスチャンもエホバもなんでも全て”カトリック”と一括りに呼びます。

 

そして、クリスチャンの側でもイエシュアを伝えようとするなら、聖書に記された真実だけを語らなければならないのです。

人が作った宗教の教え、神学、教理など伝えてしまえば、それこそ偽物!聖書では無いイエシュアを正しく表現し伝えていないと言う事に聖書から気がつかないとならないのです。

イエシュアは父の言葉、モーセの五書を絶対にどの箇所も否定などしないからです。

タナックに記されたイエシュアが地上に来られ、そしてイエシュアは何を生きよと教えていたのか!その真実の点が抜けてはならないのです。

 

イエシュアを知らないユダヤ人が単に福音書以降を読めば、そこに書かれたのはヘブライのトラーであり、イエシュアの言動にものすごくインパクトインスピレーション(聖霊ですがあ)を受けると言います。彼らが読めば福音書以降にトラーとは違う教えが

書かれているなどと言う読み込みはできない、なぜなら読めば

そこに記されているのはトラーであると分かるからです。

そこが異邦人の理解との大きな違いでもあるのです。

 

神の言葉を否定した教えをイエシュアが教えるわけがない

教えていない、トラーに記された契約の愛の生き方を生きること

をずっと教えている、どの箇所も父の言葉=モーセの五書を否定してない、モーセ=トラーを教えている!と言う事実が見えない限り、真相は見えないと言う事なのです。

 

西洋宗教の教えはユダヤ人から見たら単なる異教の宗教にしか見えない理由は、第一に神の言葉を捨てて違う事を生きているからと言うのは当然指摘される事実なのです。

 

今年2023年の春の最後の祭りは、シャブオートで5月25日

木曜日日没から始まるものでした。シバンの月の15日と聖書の暦では決まっていて、その曜日は毎年違うものになるのです。

でも、西洋宗教の世界では、必ず記念日は日曜日とフィックス

設定されています。それはローマ教が決めたものだからです。

そして神の創造された呼び出し日=聖なる集会=ミクラ コデシュを捨てて、2世紀以降違うものを祝う様になったのもローマ帝国の下で作られた新宗教の教えのおかげなのです。神が神の教えや記念日を終了したからではなく、人間が勝手に終わりと決めた!この歴史の事実、人が神の言葉を曲げ続けた事実を知る必要があります。

シャブオートとはヘブライ語で”週”と言う言葉の複数形で、

出エジプトして過越から7週を経た時にシナイ山でこのシャブオートの時に神が直接現れ直接語り直接天がシナイ山の山頂に降りてきて、しかもイエシュアと70人の長老が契約の契りを交わした祝宴の宴会で盛大に食べ飲み祝った事が記されているのです。

 

使徒2章が聖霊が初めて降ったその始まりではないのです。

聖書を読めば信じる人の内側に聖霊が住まっている事がずっと

記されている、その事実に気が付けるはずです。

聖霊=イエシュア=イマニュエル=人と共に居られる神は最初から信じる人の内側に住まっていた。古代現代未来ずっとその事実は変わらない。神はある時=特に神の定めの時に歴史的に福音の内容を知らせる重大な事をして、神の現れをしている事に気が付いて読んだら見えてくると思います。

 

イエシュアが処刑され昇天されたのも過越の祭りです。過越の祭りの内容、福音、救い贖い許し助け全て最初から教えられている、復活の命も最初から神の祭りの中で教えられている!それが

出エジプトの出来事一連でイエシュアがされる業、永遠から完了している贖いの業を教えているのです。

 

そして贖い出された人達は、神の子らとされ、異教の神々の教え

から完全に決別し荒野に導き出され神の伝える生き方=婚姻契約に記された生き方に招かれ、新しい人として生きる旅路に置かれたと言うことはトラーを学べばはっきり理解出来るものなのです。

だから、西洋神学が語る様な昔はモーセの五書を生きてかろうじて仮の儀や許しが与えられたなどと言うのは、聖書とは全く

違う思想で考えているからその様な発想をしているのです。

救われた後の歩み、救われる前も、出エジプトの一連の出来事に

約束の地に入る荒野の旅路の内容も100%全ての人に当てはまる事実が記されているのです。

 

贖われた人=神のものとされた人その花嫁は異教異物の生き方

から引き出されて決別し、神の伝える生き方=トラー=神の言葉、教えインストラクションを生きる事を1から学ぶ、それが全ての人に取って同じである、それらが荒野の40年の旅路=頭脳に割礼を受けて神の訓練の中新しい人として生きる事を教えられる事それが記されているのです。

 

ずれた思想や概念、人の教えを通して聖書を読むととんでもなく

別の教え=宗教の教えに変身してしまうのです。

 

一般のクリスチャンはトラー=モーセの五書は神が伝える人への

麗しい生き方が書かれている、イエシュアの生き方=神の似姿に造られた人の生き方が書かれているなどと考えられない、教えられていない、何が書かれているのか読まない、学ばないのが普通です。

そして、神の言葉は一時的な仮の教えで不完全であり、人を縛る古臭い悪い教え律法!と教えられ続けているから、神の言葉に

対する誤解が増すのです。まるで悪いものに敵対するかのごとく

神の言葉に対する敵対心を刷り込まれているのです。

こんな事教えられたらもう偏見の目で神の言葉を眺めるのは無理

もない事です。刷り込みとは恐ろしく強烈であり最初に教えられた事を拭い去るのにどれほど時間がかかるのか、無意味な思想に

時を奪われてしまうのです。

 

そして福音書以降に記されているイエシュアが教えていた教えはモーセの五書以外に無いことにも、イエシュアの教えを読んでも全く気がつく事がないのは、最初に書いてある内容を知らないまま神の言葉は破棄されたと言う人の教え=神の言葉を理解する妨害をする教えで聖書を読んでいるせいなのです。

 

さて今年2023年のシャブオートの時のエルサレムでの出来事で、どれほど正統派ユダヤ人達とクリスチャンの間に亀裂、誤解隔たりの壁が存在するのか顕著に分かる出来事がありました。

 

キリスト教ではペンテコステは、神の呼び出し日に祝うのではなく、ローマ教の暦で常に日曜日ですから、シャブオート=ペンテコステも神の暦呼び出し日の5月25日ではなく、5月28日日曜日のペンテコステの時に祝っていました。

クリスチャンは神の創造された記念日は廃れたと言う人の教えを信じているので、他の聖会=神の呼び出した記念日を全く祝いませんが、ペンテコステだけは、聖霊降臨祭りと名前まで変えてそこだけは祝いますが、この祭りの神が伝える福音の意図、趣旨を理解していないのが一般的です。

 

神の創造された聖書に記された記念日をクリスチャンは祝わない。でも聖書に記されている事実を読めば1世紀の人達は皆何も変わらずに神の創造された記念日=聖書に記された聖会を祝っていた事が書かれています。試しに聖書を読んで確認する事をお勧めいたします。

聖書に記された事実から目を背けたら神が伝える永遠の真実は、見ようとしない人には見えないままになります。

 

クリスチャン達がエルサレムに集い大々的に祈りの集会イベントを開いたのですが、そこで正統派ユダヤ教の人たちの絶大なる反感をかい大変な暴動になってしまったと言う事がありました。

 

このイベントはIHP=インターナショナル ハウス オブ プレヤーと言う団体により行われたのですが、どんな事が起きたのかと言うと、彼らがイスラエルのために祈り出したので、正統派の

人達は怒り出し、クリスチャンのリーダー牧師に対して侮辱的な

行動を起こし追放しようとしたのです。

 

ここで考える必要があると思います。彼らに対してのアプローチを間違えてはいけない、宗教の教えや自分の考えを持ち込んだまま彼らと接触しようとしてならないとユダヤ人イエシュア信者達は警告してくれます。

ユダヤ人がクリスチャンの言う事に対して全て反対をする!詰まりクリスチャンが青と言えば赤、黒といえば白、理由がなく反対する、その理由があるのです。

よく考えれば分かる事です。これは歴史を遡らないと見えない事

です。クリスチャンは、ユダヤ人は救い主を信じない頑ななもの

そして契約から外された人と考えている人もいます。

 

でもどうでしょうか?反対にもしクリスチャンがトラー=神の言葉は永遠に堅く立ち不変で今日も有効だ!と誰かが言うのを聞いたら真っ向から反対するのではないでしょうか?モーセの五書=古い律法=諸悪の根源的な思想を深く刷り込まれているからです。そしてそれは神が語る真実ではないと言うことに全く気がついていないからです。それを無理やり気が付かせようとさせられたらどう感じますか?

一般の異邦人クリスチャンは神の言葉が無効であると本気で信じている、それを違う事を言う人がいたら瞬く間に反感を示しませんか?実際神の古い教えに戻るのは悪い事だ〜と烈火のごとくに怒り出した人を何人も見た事があります。

 

続く