隔ての壁 敵対心 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イザヤ40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。

40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

 

 

ヘブライ語でこのイザヤ40:8の箇所はこう書かれています。

 

וּדְבַר־=ヴ ダヴァル אֱלֹהֵ֖ינוּ=エロヘイニュ=しかしわれわれの神の言葉は

יָק֥וּם=ヤ クム=固く確立する

לְעוֹלָֽם=ラ オラム=永遠に

 

われわれの神の言葉は永遠に堅く立つと訳している日本語訳もあります。われわれの神=イスラエルの神、その神は人種により

人相、性質、言葉が変わる神ではありません。

 

人間の側でイスラエルの神を無数に別物に解説しているだけで

神は人により七変化に性質、教えを変える神である!と考えているなら、それは聖書に記されたイスラエルの神ではなく別の宗教の教えが語る別の神になってしまいます。

 

異邦人の世界では神の言葉=イエシュアの実態=DNA=人の性質が書かれた神ご自身である言葉を、ものすごく軽く取り扱って

いるとユダヤ人は考えます。いやそんな事してないと思うかもしれませんが、聖書に記された神の言葉を否定している!無視して

気にも留めもしないと言う現実を聖書から読み取れば神の言葉を否定し、神の言葉は廃れたから生きる必要なしと信じた最初から教えられてしまっているのです。神にではなく、人間に教えられている。神の言葉は終わった、破棄された今は関係ない!と

主張するそれらの言葉、教えの全ては神から発したものではないことは聖書に照らし合わせれば明らかな事実なのです。

 

ヘブル13:8

イエスキリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

これも同じく神は永遠に同じ!永遠に変化無い=神の言葉も神

同様に変化しない!と神が伝えているのに、どうして人は神が

言う言葉を真っ向から曲げて神の言葉に無感覚になるのか?

それは神の言葉ではなく、神の言葉を否定する人の教えに染まってしまっているからであり、人の言葉が真実で神の言う言葉の

意味が耳に届かないからです。

聞く耳がある見る目がある人とある通り、神が語る真実に、

耳ふさがれ、目が塞がれるのは人の教えが原因なのです。

 

この様に神の言葉を宣言しながら、神=キリストは変わった、神の言葉は変わり廃れたと同時に矛盾を信じる不思議に疑問に思わないほど、人の教えに自分の思索が支配され違う教えの中に、

自分の信仰の土台である神の言葉に対する認識が取り込まれてしまっているのです。

 

一般の人は教師に教えられる事をそのまま信じるものです。

教壇から教師に教えられる事を、その誤りや間違いを指摘出来る場合は、その分野に関しての正しい知識と確信を持つ知識のある

人しかいないのです。でも一般素人にはそれが分からない。

だから正しい事、事実を教える教師が必要なのです。

どの分野に於いても。

特に宗教の世界は、聖書を教える人は神から任命されているので間違ったことなど言わないと妄信的に信じてそう考えるので自分で聖書を知り吟味し考えない限り、人から何を教えられたとしてもそれが聖書、神の言葉だと思い込んでしまうことが起きる。

それが19世紀以降にもヨーロッパ、アメリカで起きたのです。神学校の講壇から聖書ではないダービーの思想が教えられた、

その思想の根は1世紀後半から出現した西洋宗教=西洋人が編み出した思想=聖書、神の言葉を否定する、神の教えを塗り替える思想宗教の教理に根付いた教えが爆発的に浸透してしまったのです。神学校で間違った教えなどする訳ないと考える思考回路も

同じです。科学者が進化論を教える、進化論は事実なのでしょうか?

だからクリスチャンは当然のごとく、神の教えは2000年前に廃れて別の新しい教え=新しい契約、生き方が出現したと信じて

いるのです。聖霊に導かれれば神の言葉を生きる必要はない。

でもその思想は異教徒思想そのものです。聖霊=神=言葉=

イエシュア=トラーと聖書に記された事実に対して盲目だからです。聖霊=神の言葉=トラー=モーセの五書は互いに敵対したり相反する事は永遠にありません!聖霊=永遠不変の神の言葉

ぴったり1つで一致しているのです。途中で変わらない。

 

間違った教えをするのは一般人ではなく、実は教師なのです。

教師から正しくない教えをされても、それが真実だと生徒は受け取る。進化論、ニセ科学などその良い例なのです。

 

宗教、聖書を教える世界も同じなのです。1つ気を付けて注意していれば分かることがあります。神に造られた人間の身分なのに

なぜ神の言葉を人が勝手に塗り替えることが正しいなどと主張しているのか?神がそんな権威をいつ人に与えたのか?

イエシュアはいつ父の言葉=トラーを否定する教えをしたのか?聖書に記された真実、真相を突き止めれば良いのです。

普通していないのです。

神の言葉のどの部分、一点一画でも否定する教えは聖霊から出た教えなどでは無いと言う神が伝える真実だけに立って神の言葉を読み直す必要に迫られているのです。

 

イスラエルでこの間のシャヴオート (ペンテコステ)辺りで

エルサレムで正統派ユダヤ教の人達とクリスチャンの間で

大変な揉め事があったそうです。

 

クリスチャンとユダヤ教のユダヤ人の間に今どの位の厚い壁が

はだかっているのか知る事は大事です。

 

クリスチャンの世界で解説される、神の言葉が終了になった証拠であるとされるこの箇所、言葉、イエシュアが語られた”先祖の

伝統の言い伝え”とか、パウロが言う”戒めの律法”エペソ2:15

クリスチャンはそれらの言葉を読んで=先祖の伝統の言い伝え、古い教え、戒めの律法とは、モーセの五書だと疑いもなくそう言う解説を聞かされ受け入れていますが、神が神の言葉を否定する!と言うことは天地がひっくり返ってもあり得ない!と言う

事実から聖書を読み直して勘違いして読み込んでいる場所全て洗いざらいに訂正する必要があるのです。

イエシュアも言われたでしょう。神のトラーは今天地が存在するなら同様に廃れない!と強調されて、天地が滅びない=神の言葉も滅びないとマタイ5:18で解説してるのに、その事実が聴く人の耳に届いていないだけなのです。成就=全うされる=神の言葉は

永遠に確立されるとイエシュアは言っています。全部同じ真実が語られているのです。真珠のネックレスの様に繋がっている。

 

神の言葉は律法であり人を縛るものと言う意識を刷り込んだのは

異邦人です。そんな意識を神に対して持たされている事に危機を

感じるべきなのです。仁王様の様に恐い神。神は神の言葉は人を真理に導き、真理を知った人は本当の自由=神の性質を生きる自由を得る!と教えているのに、一歩一歩を照らす光、腹のなかを探る光、色々書いてあるのに詩篇を読んでそこに語られている事がモーセの五書=トラーであると言う事実に全く気が付かないまま読んでいるのです。

聖書ー神の言葉には移りゆく影や変化や別物の教えなど記されていない!と言う永遠不変の事実が見えない限り、人の教えに流されて宗教の教えの受け売りを取り入れて真実が見えなくなるのです。

先祖の伝統の戒め、行いの律法などなどと記されているのは、

当時のユダヤ人の世界にあった”人の教えが混ざった様々に複雑なルール” ”人が作った規定”の事なのです。

これは今も存在するのです。

 

その人が作った規定の中には、ユダヤ人は汚れた異邦人=神の国に属さない汚れたものを平気で取り入れ、神の言葉を知らない生きない異邦人達は神の国の一員に属さない人なので、汚れと交わったら自分達も汚されるから避けようと言う規定があったため、ユダヤ人は異邦人とは全く交わらないと言うのが普通だったのです。

だからイエシュアがサマリアの女性と話した箇所は、サマリヤ人=汚れた異邦人にユダヤ人が近づくなんて、なんてことしてるの?と言う事で理解出来るのです。こんな事当時の普通のユダヤ人ならしないからです。

シャバットにあれこれしてはいけないと言う規定=イエシュアの弟子達が畑の落ち穂を拾って食べたり、これはエルサレム周辺の人にはご法度である規定があったのですが、ガリラヤ湖の辺りの人たちには普通にしている事であり、しかも神の教えで禁じられていることでもないのです。人の命が大事。

 

シャバットに人を癒したりしてけしからん!とイエシュアを戒めた人々が居た記事がありますが、これらも当時の人が考え出した”先祖の戒めの規定” ”行いの律法”であり、神のトラー=

モーセの五書に記されていない人の教えであり、神の教えとはずれたものだったのです。

 

だから、安息日に人を癒したり、動物を助けるのは安息日の本質と外れていないとイエシュアがそれらの人々に指摘したのです。イエシュアの話されている内容は100%モーセの五書=父の教えのみ!なのです。イエシュアが父の言葉=トラー=モーセの五書=婚姻契約を否定する新しい教えをしていると言う非聖書的な

教えを頭脳に蓄えて聖書を読む場合に、書かれている事実が見えなくなります。だから神の言葉は廃らないと書いてあるのに

クリスチャンは神の言葉が廃れたと言い続けて聖書に書いてない事を真実だと信じることが出来るのだと思います。

人の教えに照らし合わせれば、神の言葉は仮の教えで不完全であるとされ、だから変化しなくてはならず、イエシュアが来るまでの一時的な仮の教えであり、破棄され無効にされるものと言う。

 

でも神は全て逆を人に伝えているのです。文字として永遠の証拠としてそれが聖書には記されています。少なくともヘブライ聖書には。翻訳聖書は適当に文章をつけ加えたり、言葉の意味を反映しない造語に変えたり、意味を変えたり自由自在に変更して、

そして翻訳は無数にありますから、その翻訳者の思想が翻訳に

反映されてしまっているのです。翻訳者が言語の意味や書いてある意味を正しく理解しないまま翻訳をすれば、ある神学思想を持っていればその思想を反映する翻訳にされてしまう。書かれている意味とは違うものが現れ出てしまうのです。翻訳には本来の聖書とは違う思想が入り込んでいるのです。

それに注意して、神の言葉を否定している様な言葉が書かれている箇所は、間違った解釈の箇所である!と言う事に気がつけば

良いのです。そこから事実を深掘りして原典には何が本当に書かれているか突き止めれば良いのです。翻訳だけに頼り人の思想に頼り聖書を読むと見えなくなるのです。

 

それを人間的に曲がった解釈ではなく、天直送=父の頭脳から直接語られているのがイエシュアのトラーの解説である!と言う

正しい理解に戻せば、イエシュアが何を語られているのかはっきり見えます。トラーを否定など決して1度もしていない。

 

人の教えが語る=古い教えは捨てれた=神の言葉は賞味期限

有効期限があり廃れたので、別の教えを語っているなどと言う

ずれた思考回路から聖書を読むから、次から次へと神の教えを

ないがしろにして良い、それらは無効、神の教えに聞かない思想

教えが編み出し出され続けてしまうのです。

 

それを読んで簡単に、イエシュアがシャバットを破った証拠が書かれているなどと教えられましたが、とんでもなく浅い読み込み、正しく原文を読み取らない、読み違いの理解をしていたと後で気が付くのです。

ユダヤ人が、トラー否定する!と考える異邦人思想、それこそが非聖書的、彼らは異邦人ではない、神の言葉を世界へ継承し教えなければならない人達であり、その人たちが神の言葉に反した聖別された生き方をしたら、異邦人には無い厳しい訓練を受けたでしょう。

それが約束の地から追い出され、捕囚の地で生きる事になった

結末であるのです。それほど大家族の長男としての責任は重たい

人に誤った生き方を示してはダメである、本当に厳しいものです。

イスラエルは異邦人より厳しい訓練、刈り取る結末があるのは、

契約を受け取った代表者であるからなのです。これは永遠に変わらない。兄が弟妹を誤りに導いてはならないからです。

 

 

 

 

続く