命のサイクルを生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

8月も下旬になりました。この2ヶ月間様々な事がありました。

世界でも様々な出来事、事件、災害、人災が日々めまぐるしく

起きています。

 

歴史は繰り返して最後メシアが到来し統治する世界に移行する時が来ます。歴史は繰り返すのです。同じ様な出来事が歴史の中で

なんども何度も起きて、それは新しい事ではない。

 

”クリスチャンの解説する世界歴史は複雑”とこれはメシアを知るユダヤ人も言う事です。詰まり、歴史線上に様々に入り組んだ複雑なイベントのチャートを作り出して、聖書の中に記されている箇所をその図に当てはめて解説しますが、ユダヤ人の見る世界観はこうですよと言います。

 

1 悪が支配する世 2 神が支配する世が到来する

世=オラムと言いますが、この2つだけしかない!

この事件が起きたらこれこれこうだ!と言う読み込みがありますが、歴史は繰り返すとある通りその通りなのです。

 

今がどんな時期であるのか気が付いて、目覚めて生きていなさいとイエシュアも言われましたが、イエシュアの言葉を聞いた弟子たちは何を考えていたのでしょう。

 

季節〜時期〜全て神の定めの時に関する事を教えているものです。

 

神の言葉=聖書の真理に関する基本中の基本を頭の中から絶対に

外さないで考える訓練をする必要があります。

聖書は、異邦人西洋人神学教理で定義される”変化する神の言葉”

など1つも記されていない、一貫して同じ真実しか書かれていない書である!と言う事実から聖書を読まない限り、人の作り出した教えに自分の思索が染まり、永遠普遍と神が言われる、神=

イエシュア=トラーは昨日も今日も永遠に同じ!と言われる神の声が自分の耳に、頭脳に届かず根付かない事になってしまいます。

神と神の言葉を切り離して考えるのは異邦人です。

ヨハネが、”神=イエシュア=言葉”と書いている意味が見えていないだけなのです。ヘブライ人ヨハネが何を考えて意味して語っているのかを知る必要があるのです。

 

神の言葉のどの箇所でも無効、終了したのだ!と言う不真実な教えのパン種を頭脳から一掃して最初から聖書を書いてある通りに読み直す訓練が必要になります。

 

神の言葉を曲げるとは、イエシュアご自身を否定する事であり

神に反撃する事であり、言葉=神である事実に盲目になってしまう事です。

イエシュアの体を自由自在に分解、削除、破壊する行為は人間には許されていないもの、人がどんなに神の言葉を否定しても

神の語る真実は永遠に堅く立つ!と神が言われた事が真実です。

 

創世記1:14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

 

לְאֹתֹת֙ ラ オト=印、サインのため  

וּלְמ֣וֹעֲדִ֔ים =ヴァラ モアデイム=そして季節のために

וּלְיָמִ֖ים =ヴ ラ ヤミム=そして日のため

וְשָׁנִֽים׃ =ヴ シャニム=そして年のため

 

ここで”季節”と訳されているヘブライ語の言葉は、”モアデイム”

神の定めの時=モエッドと言う名詞の複数形です。

神の定めの時のフルセット=全暦は”レビ記23章”に記された

ものです。トラーの他の書にも記されています。

 

レビ記23章に記された神の定めの時の全部の日程は福音書以降には記されていません。それは、なぜか?福音書以降は何度も

解説している通り、聖書の最初、トラー=モーセの五書、

預言書、諸書に記されているから、それらを知るユダヤ人達が

読んで理解すると言う大前提の元に書かれているからです。

 

神が神の記念日を”わたしの記念日”と呼び、命のごとく価値が重いものであると解説している意味を、神の言葉を捨てる場合には

決して理解出来ないものなのです。神が言われた通りを聞かない

神の言葉を捨てる行為は恐ろしい行為なのです。

命の源をドブに捨てている!事をしているからです。

神の言葉を捨てれば神が教えている真理などその人には理解出来ないのは当然の結末であり、勝手な考えを生きる=宗教の教えを生きる事に縛られてしまうのです。

 

だからイエシュアも”ユダヤ人の失われた羊の元だけにしか遣わされていない”と言った意味が明確であるのです。

 

なぜ?ユダヤ人=イスラエルはイスラエルの神の大家族の長男

代表者として、神の言葉を受け継ぎ学び世界へ地の塩、世の光として神の造られた人の生き方を教える役割を担わされた民族だからです。彼らが特に優れているからとか、神に特別愛されているから選ばれたとかそんな理由ではない、どうしてか分からないけど、世界へ福音を伝える代表者として最初から選ばれたからです。

福音はユダヤ人から伝えられた!と言う事実があるのです。

預言者、弟子たち。そして1世紀のイエシュア信者は殆どが

ユダヤ人だったのです。

そして福音は聖書の最初から同じであり別の福音など歴史の中にはなく、2000年前に初めて人が福音=イエシュア=救いを理解したのではない!と言う事実を聖書からはっきりと読み取らなければならないのです。

どの時代にも残りの民は存在し、神の福音=イエシュアを

伝え続けて来たのです。

イエシュアはエデンの園を飛び出した最初から人と共に居られた

事実があり、メシアはタナック=トラー、預言書、諸書の至る所に記され教えられている、それを聞き読み取り理解していた人、いない人がいる、それだけの違いなのです。

 

1世紀の人々は福音書以降など読んでいません。特定のごくごく限られらた人しか読んでいない。それらは5世紀まで聖書として

存在していない。でも1世紀以前の人達はタナックに記された

福音、イエシュア=救いを知っていた、そしてイエシュアが実際に地上に来られることも知っていたのです。

 

いつの時代も過越の祭りで、仮庵で常にユダヤ人は救い主の到来を待ち望んでいたのです。

聖書の中に記されている内容をその通りに理解すると、神が伝える真実が見えて来ます。人の教えを挟むとぼやけて、神の伝える真実は見えなくなります。

イエシュアが地上に来られて生きておられた時、イエシュアは

何を祝っていましたか?何を生きていましたか?

100%父の教え=トラーを生きて人に教えそれを生きる様に

遺言されたでしょう。

シャバット、新月、春の祭り、過越、種無しパン、初穂、穂を数える7週、そしてシャヴオート。秋はヨム  テルア =ショファーを吹く日、大贖罪日、そして仮庵の祭りです。

 

それ以外の神の祭りは聖書には記されていません。読んでみれば良いのです。聖書に書いてある通りに読む。

聖書のどこに西洋人の作った宗教の教えや祭りが書かれていますか?

イエシュアはユダヤ人の祭りとして、宮清めの祭り=ハヌカを

祝った記録が書かれていますが、これはレビ記23章のある

神の記念日=福音を網羅する預言的祭り、記念日とは異なる性質のものであり、歴史の中で起きた異邦人による神殿を汚された事に対するユダヤ人の勇敢な反撃と神殿を汚れた偶像、動物=豚の

血で祭壇を汚された事などを清め、再奉献した事を記念する祭りで、時は冬に起きたものです。

冬は異教の神々の祭りの時であり、その祭りの時にユダヤ人たちは偶像汚れから神殿を奪い返した出来事がハヌカの祭りの背景に

あったマカバイ戦争なのです。

神の定めの記念日は、同時に預言的祭り記念日です。

聖書を読んで以前私は”過越の祭り”の意味も全くもって分からないまま、過越の祭りと、イエシュアの処刑された時、出エジプトの出来事が全く1つ繋がらないまま、意味不明な聖書の読み方を

していました。私が聞いて学んだいたものは純粋な神の言葉ではなく人が解説する宗教の神学思想で覆われたものを翻訳聖書からでしか聞いたことがありませんでした。オリジナルヘブライ聖書には何がどう言う意味で書かれているのかなど1度も教えられないままずっと来たのです。

でも神の記念日の意味を知り実際に生きる時に、全ては立体的

生きる神の言葉が飛び出し絵本のごとく、神が語る真理がその中に詰まっており、同時に神の定めの時=祭りの時に、神が歴史の中で重要な事をしている事に初めて気がつくものです。

 

春の祭りは、歴史の中で既に地上で起きた出来事、福音の要素を

網羅するものです。秋の祭りはこれから未来に起きる事、メシアが再び来られてメシアが統治する世界を表す預言的祭りです。

自分で聖書を読んで考える必要があるのです。人の教えと実践に照らし合わせて考える限り全く見えてこない数々の事実があります。真実は、真実の点としか繋がらないのです。

 

人の創作した教え=不真実と神が人に伝える真実は、共通点がない、真実と不真実は繋がらないので、神が語る真理が見えてこないと言う事が起きているのです。

 

神の伝える真実を発見するには、聖書に書かれた事実を曲げて読んでいては永遠にそれが見えないのです。

 

殆どのクリスチャンは、イエシュアが地上に来られたらこうなったのだと信じていると思います。

 

1 今までの神の言葉は生きる必要は無くなった。

神の言葉は破棄された、無効になった。

<神がそんな事いつ人に言いましたか?これを言ったのは1世紀後半ヘブライ聖書に馴染みのない異教徒背景の西洋教父達です。

ローマ帝国の死刑と重税を伴う迫害の勅令に耐えられず、異教徒思想にそった宗教の教えを作り始めたのが原因なのです。

その教えは、ずっとクリスチャンの間で語り継がれ、ルター、

そして近年では、ダービーやスコッフイールドなど人の編み出した思想=神学デイスペンセーション神学、そして置換神学が教えられてますが、それらは聖書の思想ではない、反聖書思想、

異邦人の創作思想、発想なのです。>

 

2 キリストが昇天した後新しい契約と新しい教えが出現し

今までの教えを生きることは罪=律法主義、神の恵みを無駄にする生き方だ。信じたらユダヤ的なことをやめよ!

イエシュアはユダヤ人でありユダヤ人の王として再臨される事

考えてみた事がないのだと思います。

 

<昇天以降、トラーを塗り替える別の契約や新しい教えはどこに

記され聖書として存在しているのでしょう?その様な新しい契約書、トラーを塗り替える契約書などこの世には存在しません。

福音書以降が新しい契約書?その中に記されているのは、

タナックの抜粋だと、異邦人が気が付いてないだけで、それを

ユダヤ人が読めば純粋にタナックの解説=コメンタリーが書かれていると理解出来るのです。>

 

1、2に記したのは、異邦人が主張する神の言葉に反する教えなのです。では神は神の言葉をなんと人に紹介していますか?

 

イザヤ40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。

40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

 

יָק֥וּם=ヤクム 立つとは、確立される!と言う意味です。

神の言葉は レオラム〜永遠に確立され変わることがないと

神が伝える言葉を人が否定しているのです。イエシュアを愛する人は父の言葉を愛して生きる、神を愛すると言いながら、

神の言葉を否定するとは神を愛していない、信じていない、恐れていない証拠なのではないかと考えるのが普通です。

 

 

 

続く