異邦人の教えの世界で使われている言葉の意味をはっきり識別 聖書から区別する ヤコブ書 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの教えの世界では、神の言葉に対して様々な事を勘違いして、不適切な用語で解説しています。

以下全部聖書に記された神の教えとは全く異なる思想です。下矢印

 

1 古代は行いで一時的に義とされていた。

2 古代は、動物の生贄で罪の許しが仮にされていた

3 昇天以降は、神の言葉=古い律法を行う必要が消えた

4 昇天以降は、神殿での動物の生贄はなくなった

5 神殿が崩壊したのは仮の罪の許しが無くなった証拠である

6 昇天以降にモーセの五書とは違う新しい教えに変わった

7 昇天以降は、異邦人は神の言葉を生きなくても良い、個人の           

  自由選択になった

 

聖書に記されていた事実に基づけば、仮の罪の許しの教えや事実など一切はありません!動物の血は人の罪を消さない!とはっきりと聖書は宣言しています。イエシュアを通してのみ、どの時代のどの人もそれ以外に罪の許しも、贖い=神の子とされることも、信仰により義とされる事以外の他の方法も、他の救いの方法もありません!これが聖書に記された永遠の真実です。

 

人の教えに照らし合わせるから、肉的、人間的な思想に邪魔されて神の言葉の真実を汲み出せないまま、別の思想に変形して神の言葉を読んでしまっているのです。

 

1世紀後半、神殿崩壊以降から顕著に、西洋教父=ヘブライ聖書を知らない、異教神異教徒思想背景の人々が神の言葉とは違う

教えを数々編み出して行きました。ヘブライの書と異なる教えを

しているのは、異教徒出身だからと言う1つ大きな理由の他に

もう1つの大きな理由は、ローマ帝国による”政治的圧力”〜

トラーを生きる事を禁じられている事への保身の為に、ローマ

帝国=太陽神信仰の異教神の文化に沿った馴染んだ教えに、

神の教えや記念日を変形したと言う理由があるのです。

西洋教父達は土着宗教〜異教神の要素をふんだんに神の教えの中に取り込んでしまいました。だからカトリックは偶像満載、

それは異教神信仰の痕跡を表しているものです。神の言葉を平気で取り消し曲げる行為をしている。中世に至るまでどれほど

神の教えからずれた人間の思想、教理の数々を生み出し続け、

そこからルターはちょい方向転換しましたが、神の純粋な言葉

1世紀当時、聖書に記されたユダヤ人イエシュア信者達の生きた教えていた実践していた純粋な神の言葉や記念日に戻る悔い改め=軌道修正はしないまま、異教神思想、シンボルの根を残したまま今に至っているのです。

 

長年その様な教えが存在するから、神がそれらの教えを承認支持している証拠だ!と考えるかもしれませんが、それは神が長い忍耐を持って神の言葉、教えの真理に人々が気づき目覚め神の純粋な言葉=教えに戻る事を待っている、恵の時間が与えられているだけなのです。

異教徒達が、様々な宗教を作り、それが国を挙げて支援される様な団体、潤沢な資金を持ち、立派な寺院を建て、信徒が多くいるから、それらの宗教をイスラエルの神が祝福し承認している証拠であるなどとならないでしょう!

見かけ上で多く信奉されている人間の数や何世紀に渡り信奉されている教え、イコールイスラエルの神の真理とはならないのです。

イエシュアが言われた言葉通りです。下矢印

マタイ7:15”狭き門より入りなさい。

滅びに至る道は広くそこから入って行く人は多い。

7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。

そして、それを見いだす者が少ない。
 
異邦人クリスチャンの教えの世界、意識、思想が完全に人の教えに乗っ取られているのは、”キリストを信じたら神の言葉を生きる必要がない!”と言った時の異端者マルキオンや、その思想が代々異邦人の間で語り継がれ、デイスペンセーション神学を作ったダービーも同じ事を言いました。ダービーはクリスチャンは
パウロの書簡の2、3を読むだけで良い、神の言葉を生きる必要はもうない、まして山上の垂訓など生きなくて良い。これって聖書に基づかない異端的教え、神の言葉教えとはまるで異なる思想を語っているものです。

クリスチャンも無意識、意識の奥底に、神の言葉を生きる事は

律法主義と言う思想、意識を持たされてしまっています。古い教えを生きることは悪い事で、恵みを捨てた生き方だ!などと教えられてしまっているのです。

だから”律法に戻るな〜!恵を捨てた生き方だ!”などと言うのです。古い教え=モーセの五書、でも神の教えはモーセの五書に
記された別の教えなど無い!!!と言う永遠の事実を聖書から
知らない限り神が伝える永遠不変の真理に基づき考え始める事も
出来ないのです。
人はこの瞬間も何かを考え何かを行動していますが、クリスチャンは神の言葉を生きる必要がないと言うならば、一体自分の行動の基準をどこに置いているのでしょうか?生きる事はキリスト!
と言う意味は神の性質=教え=トラーを生きる事はキリスト=神の性質=教え=トラーを生きる!と言っているのです。
 
クリスチャンの間ではこの様な思想が一般的な答えです。”聖霊に導かれて生きるのだ!”と言います。でも聖霊=神の言葉である!と言う事実に気がついていますか?神の言葉の全ては聖霊により書かれた!聖霊に導かれて生きるなら、その生き方は神の言葉=トラーとぴったり合った生き方であるからです。聖霊は人をトラーに反する教えや導きなどしないからです。
 
神の言葉を生きる事が律法主義であるなどと教えられてしまう
場合、それは聖書の75%に書かれた教えを無視する、又はイエシュア信者でない人でも分かる、道徳的な教えに関してだけ
生きれば良いと言う、神の言葉を排除した生き方を奨励しているのです。

神の言葉=教えを生きる事こそが主に教えられている事であり、主のみ旨を遂行している事であり、目に見えない天の神の実態=イエシュアを地上で反映している事であると書かれています。

 

律法主義的生き方とは、人間の行いにより神の前に救いを得ようとか、義とされようとする思考回路、救い贖い神しか与えられない実態を人間の行動で得ようとする事!それが改宗儀式をする事で得る、お金を捧げる事で得る、何かの奉仕をする事で得ると言うズレた思考回路での行動を律法主義的行動と聖書では言っているのです。

一方贖われた人救われた人、イエシュアを通して神の子らとされた人達は、神の教え=トラー=モーセの五書に書かれた神が創造された神の似姿通りの人間の生き方をする大家族に加えらた!と聖書には書いてあるのです。

神の言葉をトンデモんなく誤解しているのです。

異邦人クリスチャンが理解していなくてもイエシュアを通して贖い救いを受けた人は、イスラエルと同様同じ神の大家族に加えられ、同じ神の契約を生きる!新しく創造された人として神のトラーを生きる事に招かれた!と聖書には書いてあるのです。その事実に通して目を背けて、異邦人は別の教えを自由に生きて良い自由が与えられている!などと聖書に書いてない人間の教えを本気で信じて実践しているのです。

 

その1つに、異邦人クリスチャンの神の言葉に対する意識、態度が敵対心満載、神の言葉を律法と呼ぶほど神の言葉に対して多大な敵対心、敵意があるのです。神の言葉はヘブライ語では律法などと1度も記されていない語られてません。

クリスチャンの神の言葉=モーセの五書に対する意識はこんなものだと思います。古い呪いの律法、恵のない生き方、一時的な仮の教え、窮屈、束縛、自由剥奪、面倒ややこしい、難しい、理解出来ない、破棄されて当然のものなどなど。

こんな意識を神の言葉に対して持っているのは、人の思想に洗脳されているから、神が紹介する神の言葉の本質、性質を理解する

事を完全に妨害されているのです。神=言葉=イエシュア=聖霊と聖書に記されている事実が見えないからです。

詩篇や箴言が古い呪いの廃れた律法だと思いますか?

詩篇や箴言はモーセの五書=トラーに記された神の教え=知恵が記されているものなのです。トラーが呪いの古い廃れた律法と言うならば、同様に詩篇や箴言も呪いの古い廃れた律法になるのです。聖書は、ヨシュア記以降黙示録迄全ては、100%モーセの五書を語っているからです。

神の言葉は100%どの箇所もトラー=モーセの五書の教えを

話しているのです。イエシュアが言われた通り天地が今存在するならと言う最大強調を持って、そんな事がありえないから!神の言葉も永遠に堅く確立される!と言ったのです。神の言葉の一点一画も人が手を加えてはならない!と言う神の言葉をどうして無視して人間主権で勝手に神の言葉をいじくりまわし、改ざんする事が正義だ!などと考えているのか?それは人の思想の洗脳のおかげ!

イエシュアが来られて昇天されたら、神の言葉のほぼ全ては終わり!などと言う人間の教えを本気で信じているから、福音書以降に書かれた内容が、100%モーセの五書なのに、別の教えを

イエシュアやパウロや弟子が語っている!などと勘違いしているのです。イエシュア昇天以降神の教えの一点一画どの部分も変化などしていません!

 

異邦人の中の教えで神の言葉を削除したい箇所は自分に取り馴染みない、理解出来ない、都合の悪い教えに対して、終了したから

関係ないのだ!と言っているだけです。全てが人間中心の思考回路で自分に納得が行き認めれば、それが神の言葉の有効性を認めよう!と言う思想なのです。

人間の体のDNA、染色体を人がいじり手を加えたら、元のデザインとは違う異物が出現してしまう、そう言う事を人間が神の言葉に対してやっているのです。

ヤコブ書に記された内容はトラー=モーセの五書を生きる事に

関して書かれています。

ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。

その信仰は彼を救うことができるか。

ヤコブ2:15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、

 2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

 2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。

2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。

<ここに虚しいとある言葉は、ἀργός, argos アルゴス=役に立たない、無用、機能しないと言う意味です。>

口先だけの心情、信条、何を信じているかと言う事は、実際に

何を生きるか、神を信じていると言う事と、生きる事はキリストと言う2つがぴったりマッチして初めて本物になる!と言う事

であるのに、神を信じていると言いながら、神の教えは生きなくて良い!と言う行動は、それは神を愛していると言う実態が無い

と言う事です。愚かな人よ!と書かれている言葉は、神の教えを生きない!と言う愚かな事を主張しやっている人の事なのです。

自分の日々を生きる生き方の中でイエシュアの性質を行動して

生きる事が無い人が、自分の信仰は本物だ!と考えているそして

神の言葉をないがしろにして、自分の思いついた事、神の教えでは無い事を生きる事、それが愚かな人とここで述べているのです。神の教えは100%トラー以外には無い!と言う永遠の事実に聖書から気が付かないと、真実な信仰に根付く生き方が始まらないのです。有言実行、有限不実行?口先だけで行動が伴わない、画餅、口先だけの人などと日本語の表現の中にもある通り、言うだけ言うけど実態、行動、中身が伴わない、そんなものは役に立たない虚しい愚か!と話しているのです。

2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。

 

このヤコブの箇所は誤解され続けている箇所であり、内容を逸脱した解説をクリスチャンがしているのです。書かれている内容を

逸脱した解説のオンパレード。ルター自身がヤコブの書簡は

使徒により書かれてものでは無いから、ヤコブ書が聖書とは考える重要性意味はない!と言ったのです。

 

ルターはヤコブの書簡に関してこの様に書いています。

 

続く