ルターがヤコブ書は聖書ではない!と言ったその理由は? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

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ルターはヤコブの書簡に関してこの様に書いています。下矢印

 

”この書に付いての自分自身の意見を述べるが・・私はこれ=

ヤコブ書は使徒の誰かが書いたものであると見なしていない。

私がそう考える理由は以下である。最初にパウロと他の書簡に対して反する事を書いているからである。それはこの書が行いによる義と言う事を考えているからだ。ヤコブ書は他の書簡に比べると藁クズの様につまらない書だ。それは福音に関しての性質とは関係無い事を言っているからだ。”

<出典: Luther’s Works, vol. 35, Word and Sacrament I (Philadelphia: Fortress, 1960), p. 362.>

 

ルターと他の人達がヤコブの主張を見逃しているのは、

”我らの父であるアヴラハムは彼の行いにより義とされたのではないのか?”と勘違いしている事なのです。

聖書ははっきりと”神の前に信仰により義とされた!”と記しているのです。

聖書は、アブラハムが神の前に義とされた、つまり神ご自身が人を救い出し、全ての人のために罪の罰を支払ってくれる約束された救い主への信仰に基づいて「無罪」と宣告されたことを明らかにしているからです。人は神の前に自分の行いにより、贖い救い義を獲得など出来ないからです。

 

2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、

 2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、

彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、

彼は「神の友」と唱えられたのである。

ヤコブ2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

 

ヤコブは、アブラハムが行いによって義とされたという発言のまさに基礎の意味として、23 節に創世記 15:6 を引用しています。

 

創世記15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 

この箇所に記された”これ”と訳されている言葉と、認められたと言う言葉は両方の言葉は関係のある繋がりがあります。

וְ הֶ אֱ מִ ן  בַּ יהוָ ה   וַ יַּחְ שְׁ בֶ הָ   לֹּו   צְ דָ קָ ה

青字は、”彼は信じて”と訳されているもので、赤字が”それを認められた”と言う言葉です。

この青文字には”これ”と言う言葉が入っていて、女性単数代名詞

です。

創世記15:6にある、代名詞は、”信仰”=エムナ、

 ה ָמוּנ ֱא’=彼は信じたと言う言葉を、代名詞である”これ”と訳しています。信仰と言う言葉と、ここに書かれている代名詞は

両方”女性代名詞” で互いに対応している事を表している言葉でありこれとは、アブラハムが神の言葉を信じたと言う信仰についてこれを神が義と認められたと書いてあるのです。

ヤコブのここでの文章を正しく訳すと”我々の父アヴラハムは

信仰により義とされた”となります。この文章の中に書かれた通りに解釈する必要があります。この文章の内容は何ですか?

真理の救いの信仰を与えられた人が、その信仰を裏付ける証明をするのは、神の言葉、教え、神が示す御旨を生きる事で証明される事です。

この様に、”アヴラハムは行いにより義とされた”とヤコブが記しているのは、神の前に真っさらに立てる状態を自分の行いにより獲得、与えられた!などと言っていない事に注目して下さい。

行いにより義を獲得する事は全人類歴史、全人類の中で誰一人として出来ない!最初から神が人に伝えている通りだからです。

それならイエシュアの永遠からの贖い救いなど必要ないからです。

人の行いや努力で義や救い罪の赦しが獲得出来れば、イエシュア=子羊の血の贖いは無用!要らないと言う事になってしまいます。努力出来る人だけが神の義を獲得出来ると言うこの世の努力や競争と同じシステム、レベルのものになり、それならば恵と

言う定義も消えます。恵=人が得る事が出来ない、恵みを得るための何事も人が出来ない、人は自分で自分の罪を赦し、贖い出し、新しい命を獲得したり義とされ聖霊を努力で買えない!だからイエシュアが私達のために代価を払って下さった!と言う事実が、人の努力行いで義が得られるなら、子羊の血の意味は吹き飛び無用になります。恵も要らなくなります。

 

聖書に書かれている意味を忠実に捉えないで、ごちゃごちゃ不真実が混ざる人の教えに聞き入り混同しているから、行いをする人は律法主義だ!などと多大に逸脱した人の哲学思想で聖書を語ってしまうのです。

ここで記されているのは、同様にアヴラハムの真実の信仰は何に

よって表明され実際に人々に認識されていますか?口先だけの

発言があれば良いのですか?信じま〜すとだけ言えば良いと言う事を神が教えているのですか?違いますよね。神がアヴラハムに言われた最も難しい要求に対してアヴラハムは神の仰せ通りに

自分の子供であるイサクを捧げようと神の言葉通りに行動した!のです。

この行動により、神に対する揺るがない信仰、義とされた人の

本物の行動で表された事が書かれているのです。

 

アヴラハムにイサクを捧げる様に神が要求したのは、アヴラハムの信仰が本物かアヴラハムが自覚させるためでもあった事なのです。アヴラハムだけではなく、イサクも幼児ではありませんから

同様に神の父親に対する仰せに抵抗拒否して逃げる事も出来たのです。この内容は深い考察解説が必要ですから今は省きます。

でもアヴラハムもイサクも神が必ず復活の命で生き返られせて下さるとまで信じていたのです。なぜなら、イサクは神の約束の子だから、アヴラハムの種が途絶えると言う事は神の約束して下さった約束に反する事だからです。神ご自身も最初からイサクの命を取り上げようなどと考えてもいなかった事は明らかです。

 

この様に、一見神が神の約束に反した矛盾する要求をアヴラハムに促したのに、それでもなおアヴラハムは神を信じて神の言われる通りを行動した!それはアヴラハムが神の前に義とされて

聖霊を内側に受けた本物の新しく創造された人である事を証明している!だからアヴラハムの行い=信仰の裏付けとぴったり

マッチしたものが義とされている証明である!と言ったのです。

ヤコブ書でされている議論の論点をきちんと読み取れば分かります。口先だけ、信仰があると言いながら、実態が伴う生き方が無い人=愚かな人!と説明しているからです。

アヴラハムは、彼の家族、彼の生きていたコミュニテイの中で

アヴラハムは信仰により義とされている人であると言う事はアヴラハムの行動により裏付けられ証明されていると言う事です。

ヘブル書の著者もアヴラハムの本物正真正銘の信仰の性質に付いて書き記しています。

ヘブル11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

11:18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。

11:19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、

と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

 

ヤコブ2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

 

普通の常識で考えたら分かる事が記されています。口先だけの人

その人がたとえ”イエスさま信じてます”と言いながら、人を傷つけ、破壊する様な生き方をしたら、それは神の子としての実態は

実際に生きていないと言う事は分かるでしょう。その信仰は無意味!どころか人に危害破壊損害を与えイエシュアの事実を誤解させる生き方をして悪評判を生み出すのです。

聖書を持っていても読まないなら中身に何が書かれているか分からないのと同じです。楽器を所有していても実際に奏でないなら音楽は現れでない、楽器は死んだまま本来の機能を果たせない。同様に楽譜に記された通りにその曲を奏でないなら、作曲者の

意図した音楽は現れでない、聞く事が出来ない。

 

行いの伴わない信仰、悪魔でさえ神を信じて恐れていると書いてある通り、信じますと言うだけでは何も意味はない事は容易に理解出来るでしょう。クリスチャンの世界では天国行き切符を得る事それが何より一番大事な事で後のことはどうでも良いくらいにしか考えていないからだと思います。それとも一度イエシュアを信じたらそれだけでもう十分、後はこの世と同じ様に自分の感覚で自由に生きよう!などと考えているのでしょうか?

それは神の伝えている真理とは全く別です。イエシュアを信じた!それは赤ちゃんが生まれた!と同じ事、始まりに過ぎないのです。生まれたら新しくされた人を生きると言う成長過程があるのです。だから神の言葉を理解しないで乳飲み子と同じミルクしか飲まない、いつまでも同じ初歩的な神の教えしか知らないならば、神にある成人として成長しない!と聖書には書いてあるのです。

賛美歌か聖歌に”た〜だ 信ぜ〜よ〜信じるものは救われる”と有りますが、イエシュアを神が与えた救い主であり、私達はイエシュアの贖いの血を通して取り戻され罪赦されたと信じても、

その後どう生きるか?と言う事が重要であると言う部分がクリスチャンの中に大きく抜けている部分でもあると思います。

その理由は、神の古い箇所の教えは廃れたと教えられているからであり、聖書の75%を教えられていない、学ばないからと言うのが大きな理由だからです。教科書捨てたら中身に何が書かれているのか分からないのは当然のことなのです。

アヴラハムは”神の友”であると呼ばれ、真実な信仰の人であると

記されています。

この”碑銘”とも言うべき永遠に聖書に浸透し証明されている教えがヤコブが解説し教えるレッスンそのものであるのです。

アヴラハムの信仰は、義とされている、又はアヴラハムの生き様

行動で彼の義が証明されている、それは信じる事が困難に見える我が子を神に捧げると言う神の仰せにさえその通りに行動した事でも証明されているのです。

神は人の心の中にあるものを見られて、そしてイエシュアに対する信仰により義とされた人々は義とされたと宣言出来るのです。

人はうわべだけ、見かけだけを見ますが、義とされた人が神の性質通りを生きる事で信仰による御霊の実を結ぶ事が出来ると聖書には書いてあります。神の性質を生きない人=実を結ばない。

詩篇1を読めば、実を結ぶ生き方が書いてあります。詩篇の冒頭からトラーを生きる事の真髄、醍醐味が記されているのです。

ヤコブは、シンプルにイエシュアご自身が教えられた事を繰り返し復唱しているのです。下矢印

マタイ7:18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。

7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=トラー無し=モーセの五書をないがしろにする事=を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

はっきりとイエシュアの口から、主よ主よと口先だけで神を敬い実際に神の言葉=トラーを生きない=不法=トラー無し!

追放される!と、とても厳しい言葉で語っているのです。

そして”父のみ旨=トラーを行う者だけが入る”とはっきりイエシュアの口から語られている事実があるのです。これ律法主義?

イエスさまは愛の方だから、そんな事言うわけな〜い!読めば分かる通り、イエシュアがそう言われたのです。

でも事実は神は神の教えに対して、人間が勝手な振る舞いをする事を決して許さないのです。神はわたしの栄光を誰にも渡さない!と言われた通りだからです。自分空想の脳内イスラエルの神を想像しているから、イエスさまがそんな事言うわけな〜い!今は何でも許されるLGBTQでもなんでも受け入れることが神の愛だ〜と言う、そんなのイスラエルの神が言われる愛の定義でも何でもなく他者を破壊する生き方であり追放される!とはっきり記されています。なぜなら、神は汚れ、神のデザインと違反する事をする人々、神の教えに反する事を教える人々は、周りを誤りに導き汚染し、破壊する事をするから追放されなければならない!と厳しくイエシュアが言及しているのです。

神が洪水を起こした理由〜イエシュアはイスラエルの神である!と言う事実を見逃しているのです。

イエスさまがそんな事するわけない?神はエハッド=1つの神でありイスラエルの神はな〜な〜でいい加減なことを言う、やる神ではない、はっきり神のものとそうでは無いものに境界線を敷き、区別し、私達に何が神の教えで安全な生き方を伝えているからです。

自分の空想の神像に沿って”イエスさまはこんな方〜なんでも許されるお方〜”と考えても実際はそんな事聖書には書いてないのです。

 

 

続く