日曜日は神が聖別した日、安息日、シャバットではないことが聖書に記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神は神の創造された"わたしの記念日”と人に紹介し伝えている

神の記念日を歴史の途中で別の日に別物の祭りや記念日に変更など一切していません。もししたら神は嘘つきになります。代々に渡り永遠に祝われるわたしの記念日と紹介しているのに、神が言った事取り消して、古い記念日を全部やめました!などと神が言ったと人が解説しているだけです。しかも神はそんな事いつどこで言いましたか?聖書のどこにそんな事書かれていますか?書かれていません!その永遠の事実だけを根拠に考えれば良いのです。神が言ってないのに、神は言った!と本気で信じているだけなのです。進化論を信じる事と全く同じなのです。

人が人の教えを神としているのです。

 

神はご自分が創造された神の子らを呼び出している聖別された

記念日に対して、イスラエルだけの記念日であるとか、異邦人には関係ない、又は自由選択の記念日などとも言っていません。

神は分断分裂支離滅裂な神ではなくエハッドの神=1つの神!と紹介している通り、神の家族も人種により時代により分断された2つのグループである分裂一家ではないと聖書に書かれています。

最後は1つになる!と預言がされているのです。その事実を丸で無視した解説が人の考えた神学や、教理なのです。

置換神学やデイスペンセーション神学を基準に考えたら聖書の事実は見えなくなって行ってしまうのです。それらの教理は神の

言葉=教えとは異なる人の思想=仮説だからです。

 

異邦人にも同じ記念日、呼び出し日!!!と言われた神の言葉が聖書には書いてあるからです。

神は神の子ら全て人種に関係なく、神が神の子らを呼び出している日を神が定めてその日を神が聖別している

この事実は永遠に変化しません。

異邦人の世界の教えは、結局現実的に神の言葉に対して、神の言葉が絶対と言う取り扱い、実践をしていない事が問題なのです。口では神の言葉は誤りのない完全な言葉などと言いながら、実際には神の教えに対してそう言う取り扱いや実践をしていません。だから神の言葉=律法は破棄された〜と言い続けているのですが、神の言葉のどの部分が破棄?どの部分が有効と人間が勝手に仕分けて決めているだけです。

神の言葉はどの箇所も全部で1つ=エハッドである事はヤコブ書

を読んでも分かるはずです。

ヤコブ書を読むと、明らかにトラー=神の言葉=モーセの五書を

実践する事が書かれていますから、ルターはこのヤコブ書は聖書ではない!と主張しました。その様な人間至上主義思想が、灯台に導かれないとならない船=人に過ぎないのに、灯台=神に向かって方向転換せよ!などと言うズレたトンチンカンな事をいい続けているのです。

ルターは自分の思想には合わない”ヤコブ書”=神の言葉の方を

却下せよ!と言ったのです。その様な神の権威、言葉を平気で無効にする事を教える教師に聖書を学ぶと言うのは本当に損失、

危険!な事なのです。神の言葉ではなく、人の思想を植え付けられてしまうからです。神の言葉に記されている真実を知る権利、祝福の扉をその教師のズレた非聖書的教えで閉ざされてしまうからです。人が神の言葉を破棄する!と言うことはまさにその様な行為である!と言う自覚が必要なのです。

 

律法と言うヘブライ語の本来の意味を表さない不適切な翻訳を

元の言葉に直します。この箇所の律法=ノモスとは、神の言葉に

関して語っているものなので、トラー=神の教え、インストラクションと言う元の言葉に直します。

 

ヤコブ2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊いトラーを守るならば、それは良いことである。

<ここに記された”聖書”とは、モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っている事実にも注目して下さい。>

 2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、トラーによって違反者として宣告される。

<クリスチャンの世界では、神の教えがあるから、罪に定められる、よって神の教えが破棄されれば、罪がなくなる?などと言う

解説をしていますが、罪の定義が無いなら、それは無法地帯、

ソドムとゴモラ、ノアの時代の危険を招きます。あなたの住む街で何の秩序も法もルールもなかったら、あなたの命や権利も安全に守られる事などなくなる!と言う当たり前の常識から考えて見たら見えます。だから、トラー=神の教え、指導から解放されたのだ!と言うクリスチャンの教えは無法地帯を大歓迎します!と言うことになってしまうのです。その様に神の創造のデザインを破壊した遺伝子改良、添加物、薬、毒を人に半強制的に打ち込まれ命を破壊、自然破壊LGBTQ なんでもやりたい放題にやられてしまっているのです。>

2:10 なぜなら、トラーをことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

神の教えのある部分を取り、ある部分を取らないと言うクリスチャンの教えはこの上に書かれた通り、神の教え全体を犯した事

になる!と言う事実が書いてあるのです。

西洋教父やルターや、ダービーに取り都合悪い教えは、聖書にははっきり神の言葉を仕分けることが出来ない事実が書いてある

だから、ルターはこの様な自分の仮説に反する事が記されているものは聖書では無い!船=人が灯台=神に物申しているのです。

 2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、トラーの違反者になったことになる。

神の定義する罪は、道徳的な側面だけではないのです。聖別を破り汚す事、これは大罪であると最初に神が人に伝えています。

道徳と儀式的など分けられないのです。上の説明の通り神の言葉は1つに繋がっているからです。どうして神のシャバットを汚す事が死に匹敵する罪であると神が言われている、その意味を考えないとならないのです。人の生きるあらゆる領域に於いて、衣食住含め様々な事を何が神がデザインされた生き方で、何が神のデザインされていない生き方なのかを教えているのです。クリスチャンの世界では道徳的な事だけ異邦人は生きれば良い!と勝手に

物申して神の教えを否定しているのです。人が神の座に座る=

先生と呼ばれるなかれ!とはその様に神の権威を退けて、人が神に成り代わり神の言葉を塗り替える教えを主張する事をイエシュアが警告したのです。>

 

神の言葉が絶対的永遠不変の基準、中心ではなく、人の教えが

人の信仰の中心になってしまっていて、神が何と人に伝えているか聖書の事実ではなく、人がどう感じるかで神の言葉を生きるか生きないか決めて良いと教えているのです。

それって神ご自身の権威を認めず、神の教えではなく、”人間至上主義”ヒューマニズム=人間中心、人間が神に成り代わり神の言葉、教えを退けて人間が判断して神のどの教えが大事か却下するのか決める事が何より大事だ!などと教えている事なのです。

エデンの園の蛇の声を取る!アダムが”神は本当にそう言ったの〜?”と蛇の言葉でそそのかされて、”神はそう言う意味で言ったのではないかも。。。”と神が言われた言葉ではなく、自分の感じる事、自分の気持ち、願望をそそるインスピレーション、

感覚に合った事を選んでしまったと言う事と同じ事をしていると気が付いてないだけなのです。

 

神が言われる教えではなく、人間の考えが中心。神の言う事なんて関係ない=今は無効の神の教え!それらの教えこそが、エデンの園の蛇の囁きを代弁する声であるのです。神の教えを退け、

排除し、終了だ!と教える!よくよく考えたら、とんでもなく

恐ろしい行為なのです。

だからパウロの書簡を読んで、パウロの言葉を勘違いし、今は

どの日でも安息日=毎日が止まる休日!自分で決めて良いと言う神が定義している聖別の意味をなし崩しにして、人が神に成り代わり勝手に神の記念日を人間の教えで解説し直しているのです。人が考えて決める!

そんな事神が言う訳ないでしょうと言う事が異邦人には理解出来ないのは神の言葉を知らない使徒15章の異邦人と同じだからです。

神の言葉を捨てたら神が何を教えているのか分かる訳ありません。なぜなら全部重要必要なすべては聖書の最初の75%

完全版として記されているから、それを捨てたら何が福音書以降に書かれていのか分かる訳ないからです。上巻にすべての教えが

書かれている、下巻はその補足の解説でしかないのに、下巻だけを読んでも意味不明だからです。でもクリスチャンの世界では

下巻だけ読む、下巻から読む、だから真相の全貌が見えない。

 

ローマ教=カトリックの中で創作された教えや記念日と同じ信仰の根を共有し16世紀以降クリスチャン達も実践している!と言う事実に気が付いていない、知らないと思います。だから西洋であり、ヘブライとは違う、1世紀のイエシュア信者とは違う教えや、信仰、実践をしている思考回路なのです。

1世紀の聖書に記された当時のイエシュア信者達は、昇天以降何も変わらずに、トラーを生きて、神の記念日を生きていた記録しか福音書以降には記されていないのです。異邦人クリスチャンの教えの様に神の教えを破り今はなんでも食べて良い、汚れた動物も今は祈ればきよくなるから食べて良いとか、神の教えを生きる事は律法主義、安息日はいつでも良いとか、そんな発想は聖書に記された信者たちは誰一人としてしない!と言う事実を考えないとならないのです。

 

神殿崩壊したのは、神が神の言葉を終わらせた証拠であるなどと解説していますが、とんでもなく神の言葉に反した教え、解説です。神殿が崩壊した理由は、ローマ帝国が神殿を破壊した事によるのです。神殿と聞くと、悪魔の居座る場所!などと想像するほど、非聖書的異邦人異教徒思想解説が浸透してしまっているのです。

彼ら異邦人イエシュア信者が昇天以降徐々に神の新しい教えに気が付いて古い教えを実践するのをやめ、古い神の記念日を祝うのもやめて行ったのだなどと解説しています。神の言葉は古くて無用で廃れるべきもの、イエシュアが来られる時までに有効な期限付きの一時的な教えであ〜る!聖書のどこにそんな記録があるのでしょうか?聖書に根拠が無い教えは全部架空、仮説、空想を土台に語っている人間の思想に過ぎないのです。しかもイエシュアの教えは100%モーセの五書以外に無い!と言う聖書に記されている事実を知らないのでしょうか?それならば未来預言は全て辻褄が合わなくなります。

エレミヤ31章も、イエシュアが言われた同じ言葉も、

皆が神の教え=トラーを頭脳に腹の中に刻まれて生きる時が来る。全世界が神の祭りにエルサレムの神殿に上って祝う日が来る第三神殿が建設されないと解説していた教師がいますが、人間の勝手な教えであり、聖書に記された事に反する事を語っています。イエシュアがエルサレムの神殿で王の王として世界を統治する時代が来るとはっきり神が預言しているのです。

神の言葉を生きる事が律法主義だ〜とクリスチャンは言いますが、勘違いしているのは、聖書には直接律法主義と言う言葉は

存在して書かれていません。

クリスチャンの言う律法主義とは、”古い神の教え”を生きる事である考えてるのです。

1つ恵と言う聖書に記されている意味をはっきり知る必要があります。

救いは私達人間が努力で獲得出来ない!人種により自動的に与えられるものではない!と言う事実から考えないとならないのです。神の与える義と言う事実=神の子にされる事実は神の言葉

イエシュアのされた業を信仰により受け取るだけ!それ以外の方法はないのです。イエシュアの業は永遠の中に既に完結されている!と言う事実から考えないとならない。2000年前に初めて

有効になった救い!許し!と言うのは聖書が語る事とは異なるのです。イエシュア=救いは永遠から永遠に存在している!からです。古代は神の教えを生きて義とされる、そんな事聖書には記されていません!

恵とは、人が受けるに値する事を何もしてないのに受ける事!

人がお金を出して獲得する事が出来ない、例えばカトリックが

中世に免罪符を販売し、それを買えば罪の許しが得られた証拠になるなどと言いましたが、罪の許しはお金で買えません。

お金で聖霊も買えないし、人の行いで救いや義も獲得できない

だから”恵”=無償なのです。自分の行いで得るものは、当然自分が受け取る支払われるべきものであり、恵みではありません。

受けるに値しない、何もしていないのに無償で受け取った!それが聖書に記されている恵の定義です。一方的な神の贈り物!神しか出来ない業、人の努力や手柄や金銭では手に入れる事が出来ない事、それらを人の努力で獲得しようとする行為を、聖書では律法主義的な行動と教えられているのです。

だから、異邦人がユダヤ人になると言う改宗儀式を経なくては

神の国の一員になれないと考えていたユダヤ人達の考え=教え

当時の儀式は意味がない!のです。

恵は、神が一方的に与えるもの、無償、人がお金や努力で得られないもの、それが聖書に記された恵の定義だからです。