創世記2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
ここで創造の業を終わったから休まれたとあります。
”わざ”とは創造、自分の手で何かを編み出す全てです。
シャバットには”メラハ”=創造、生活の糧を生み出す仕事、勉学などそれらをする事をやめる、止める、停止する、止まると言う
事をしなさいと言われました。
それでは、何も出来ないの?と考えてしまいますが、礼拝と訳されている翻訳用語の裏にあるヘブライ語は”עָבְדָ֖הּ”
アボダと言う言葉は創世記2:15には、”耕す”と訳されています。皿も洗えない、テーブルも片付けてはダメ、子供のオムツ替えもしてはダメ!ゴミが落ちていても拾えないの?と言うのではなく、2日分のマナを天から降らせた神の教えは、働かない日の糧を備えて下さるから、神が言う通りにその日止まり、神と神の民、家族と共に止まり祝うと言う神が特別な目的の為に聖別した日である事が記されています。
皆普段は週の間は誰もが忙しくしているでしょう。お金を生み出す仕事ではなくても、こなさなくてはならない様々な用事や責任を負って生きています。だから神が呼び出した日に、皆で神の前に止まり祝う!と言う事をして!と神が言われたのです。
人ではなく神が言っている!と言う永遠の事実に注目してみて
下さい。人の命令ではなく、神の仰せである!
神の言葉を尊重しますか?それとも意味ない、関係ないと無視しますか?それはそれぞれ個人の選択によるのです。
神の言葉を退ける、それは神に対する敬意でもなければ、愛でも無い行動です。イエシュアは”わたしを愛する人はわたしの教え=父の教え=トラーを生きる!”とはっきり言っていることでも
分かるからです。神の教えを捨てる、退ける、それは神を愛する行為では無い!事をしていると知る必要があります。
人の世界でも相手の言う事無視してやらない!と言う態度はどう言う関係を表しているのか分かるでしょう。相手を軽く見ている相手を尊重する=相手の言う事を大事にしてその通りにする!
それが相手に対する尊敬、敬意を表す愛の行動だからです。
神の言葉を理解している、していない違いは何か?神に言われている内容意味の自覚をはっきり持っているのか、それとも神の言葉を理解しようとしないから知らないまま、それが神の教えではないと自覚しないから、神が伝える通りを生きる事ができないと言う違いなのです。
人が勝手に作った教えが神の言葉を聞く事を妨害している!と
神の言葉から発見する事は重要です。西洋宗教の伝統の教えは、神の純粋な言葉を知る事を妨げ、妨害し続けているから、神の言葉を永遠不変の教えと神が人に伝えているその事実が見えない、書いてあるのに書いてある通りに見えない〜完全であり永遠に変わらない神の教え!と言う事実が多くの異邦人クリスチャンの
耳に頭脳に届いてないのです。
目の前に聖書にはっきりと文字で書いてあっても今の自分には関係の無い神の教え!と考えるのは人の教えと言う神の言葉の真実を隠す大きなたれ幕、妨害、つまづきの岩のせいです。
しかも異邦人の世界、異教神信仰の世界では、どの国もシャバットが神の聖別された日であると知らない、実践しないから、
それを生きる事は実践しにくいことでもありますよね。
でも例えその日に働かなくてはならない事情の人がいてもその日をイエシュアにあって世の光として周りの中に生きて存在すると言う自覚して生きることは出来るはずです。イスラエルでも神殿
が存在している時には祭司はシャバットに交代制ですが任務があったのです。
街囲みの門の入り口に立つ”守衛”は24時間交代勤務です。
病院に勤める人や発電所、人が24時間任務に当たる現場で働く人はいつの時代にもいるのです。神はその事情を知っています。
創造の最初からこの第七日目、週の中で唯一名前が付けられている神の記念日と神が言った”シャバット”は神が創造されて人に
神の意図通り目的通り祝う様に伝えています。
だから、モーセの五書に記される以前の人々もアヴラハム含め
神の記念日を理解していたのです。
創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
ここに”わたしの言葉”とあれば、それはイエシュアが言われた
父の教え=トラーの事です。聖書に書かれている言葉の意味は、
途中で定義は変わらないのです。さとし、さだめ、いましめ、おきてと言う言葉で表されているのは、トラーに記された神の種類の教え、インストラクションを指して使っている言葉です。
詩篇119は、トラーの中に記された、さとし、さだめ、いましめ、おきてに関しての賛美、感謝、敬意、神の教えに対する深い
切望の数々が書かれているものなのです。福音書以降にも、”わたしの言葉を守る”とか”父の教え”そして、同じ様にさとし、さだめ、いましめ、おきてと書いてあったら、それは全て100%
トラー=モーセの五書の中に記されている神の教えに関して語られている、それらはトラーの教えを表す代名詞である!と言う事実を理解して聖書を読む必要があります。福音書以降に記された
内容は100%モーセの五書に根拠、定義があるのです。
モーセの五書は聖書全体全ての”辞書”である!と言う永遠の事実
から神の言葉を読めば見えてきます。福音書以降にはモーセの五書より優れた新しい別の教えや改良された教えなども記されていません!!!全部モーセの五書に基づいた教えしか書かれていません。
アヴラハムは文字で記されたトラー=神の教え、インストラクションを与えられる以前から、エデンの園の初めからアダムに伝えられたと同様に、神は口頭で直接それらの人々に同じ神の教え福音を伝えたのです。アヴラハムはイエシュアを知って同じ救い
聖霊を受けいていた事実をイエシュアの口から語られています。
だから”ノア”もノアの時代に神のトラーを理解して生きて唯一の人として記されているのです。
それでなければ、神の伝える教え、義の詳細、聖別の意味、
そして神の前に何が罪であるのか分からないからです。
ノアが”きよい動物7つがい、きよくない動物2つがいずつ、箱舟に入れなさい”と神に言われて、神の言葉を理解してその通りに
したでしょう。ノアはどの動物がきよい動物であり、どの動物がきよくない動物であるか、神に教えられて知っていたからです。
人の思想神学=デイスペンセーション神学の様な教えを元に考えると聖書に書いてある意味がまるで見えて来なくなります。
神の教えが突然その時代ごとに飛び出て来て、その時代の人が初めて神のある真理を理解して以前の人は神の教えを理解してないとか、救いが2000年前イエシュアが地上で処刑され、昇天するまでなかったとか、神が伝える最初から同じ福音、永遠の中に救い=イエシュアの業の事実が完結している!と言う事実から考える事=ヘブライ思想でヘブライの書を読み理解しないので聖書に書かれている事実が見えて来ないのです。
どの時代に生きようとも、神の創造された世界は同じです。
人間も動物も進化変化しないからです。神の言葉も進化変化しないのです。この聖書に記された事実=神の言葉は完全であり永遠不変!と言う事実から聖書を読まないなら、聖書ではない、人間の思想が混じる別の書の別の教え、別の物語を読んでいるのと同じ事をしてしまっている事に気が付く事が出来ないのです。
ユダヤ人のラビ達、賢人達の世界でシャバットに関する様々な
規定を作ってしまいました。どうしてそんな事が起きたのかと言うのは、動機は純粋なのです。神の言葉を尊重し敬意を払い、神の言葉に違反しない為に、シャバットに止まるとはどう言う事か?彼らの考えの教えを編み出し続けたのです。それらは神の
教えではないものです。例えば、”火”をたいてはならないとあって、それでは料理の火も使えない、だから炊飯器みたいなポットに温かい料理は入れておくなどそう言う事をしていたり、
又は誰でも知るシャバット用エレベーターなるものがあり、ボタンを押さなくてもどの回にも止まるとか、電気のスイッチさえ
押したり出来ない!などと言う発想に飛躍しているのです。
常日頃から、日常でも朝起きる時から寝るまで、彼らユダヤ人のラビ達が考えたルールに従って過ごさなくてはならないと言う
窮屈束縛極まりない負えないくびき、重荷を負わされたら一抜けた!と言いたくなるのは当然です。イエシュアの時代にもこれら
ラビ達が編み出した教え=律法の行い、先祖の伝統の言い伝えと
書かれている、神の教えとは関係の無い教えを生きる様に強要し
人をがんじがらめにしていた事が福音書に記されています。
律法の行い、先祖の伝統の言い伝えと書いてある言葉を、モーセの五書=トラー、律法が破棄された!などと、とんでもない誤解した解釈をやめなくてはなりません。神は神ご自身である神の言葉を自ら否定したり、破棄したり、無効になったなどと言う訳
が無いし、そんな事聖書のどこにも記されていません!
聖書を誤解して読む理由は、人の作り出した教えを挿入させて
聖書では無い解説を繋ぎ合わせて、聖書に書いてある事の意味を
曲げて考え続けているから!それが問題の本当の根であり、諸悪の根源なのです。神の言葉を書かれた意味通りに正しく解釈する!と言う大前提を抜かしたら、それこそ別の教えに変身し続けてしまうのです。
出エジプト35:3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。
モーセの五書をちゃんと全部書いてある通りに初めから紐解き
学べば、ここに書いていあるのは何か見えます。
この箇所が記されている時は、”ミシュカン”建設の最中です。
ミシュカン=神の移動式神殿、地上で神の実態を学び知り体験する天の現実のレプリカを神がモーセを通してイスラエルに作られている最中の教えなのです。ミシュカン建設より、”シャバット”
が何より優先されている事を神が人に教えている事でもあるのです。
火を起こすとは、食べ物を温めるため火を起こすのではなく、
ミシュカン建設の作業に必要な”火”を起こす事です。様々な金属を溶かす様な作業をする、大きな火を起こして作業をする事、
それをしてはならない!シャバットにミシュカン建設させも
止めなくてはならない!と言う神の真理の中核である事を教えている下りでもあるのです。
ユダヤ人ラビも様々な規定を編み出した最初の動機は純粋であれど、それが人を縛る神の教えとは異なる人の教えへと発展し続けてしまったのです。
シャバットで普段の労働を止める、そして日常最低限食べる事に関してはしても良いとトラーに書かれている通り、この日止まる
目的は神と人と顔と顔を合わせて共に過ごす事をする!エデンに戻る!永遠の中に皆で入る!と言う事が妨げられない様に止まる、これが人の生き方であるのは、神が6日の間、創造の業をして、7日目に止まられたからとはっきり神が人にこのシャバットの意味を伝えているのです。
”休む”と言うヘブライ語の言葉は2つあります。神が創造の業を止めたのは、シャバットと言う言葉で書かれていて、これは肉体が疲れたから止まったと言う意味では無い言葉なのです。
神には疲れと言うものがない、体が疲れたから休んだのではないのです。止まる、作業を終了したと言う止まる=休むなのです。
出エジプト20:8安息日=シャバット=第七日目を覚えて、
これを聖とせよ。
20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。<動物含め全ての人!とあります。ユダヤ人だけなんて書いてありません!>
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
異邦人クリスチャンも聖書の題目、柱、タイトルで記された10の言葉=十戒を皆で唱えそしてこれが神の言葉であると言いますが、この安息日と言う神が聖別された日を人間が勝手に日にちやシャバットの日が聖別されている意味を変えている矛盾を何も感じていないと思います。昇天以降は安息日は日曜日に変更されたと聖書に書いてない人の教えを神の教えである!と言う変化した教えを神としているから、矛盾に感じないのです。
でも神は神の創造された神の記念日を別の日に別物の祭りや記念日に変更などしていません。イスラエルだけの記念日とか異邦人は関係ない記念日などとも言っていません。神は神の子ら全て
人種に関係なく、神が神の子らを呼び出している日を定めてその日を神が聖別している!この事実は永遠に変化しません。
Shabbat Shalom