シャバット 神の言葉、記念日は永遠不変 人が神の様になりたがる 人が神になろうとしている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に関して、神に関して、救い主に関して、今まで一切何も

聞いた事がないつもりで、先入観を捨てて、聖書に書いてある通りに読み直してみる必要があります。

 

創世記3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、

また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

 

神の様になる!?” 人が神の教えを塗り替えたいと言う願望は

最初の最初からあるズレです。神の様になると言われて、それならそうしたい!神の様になりたい!自分が神に支配されないで

何でもしたい!自分が権威になりたい。神の言う事なんて聞きたくない。何か付け足さないと自分はまだ不十分な存在なのだ!

その神に敵対する惑わす動物の声を聞いて人はそう考えたのです。蛇は巧みであり、しかもすぐバレそうな嘘も、人間は見抜け

なかったのでしょうか?いやそれらしい理由付けで神の言葉を否定しても良い!この罪の根の問題がここに記されています。

 

そして、サタンは大嘘を平気で付きますよね。本当馬鹿!て思うけどその嘘に騙されてしまうのは、神の言われたことにしっかり

繋がり蛇の嘘を排除しないから、疑いがどんどん自分の頭脳の中に入り込む、人は実は1日中、蛇の嘘を聞いているのです。

それを排除する唯一の手がかりは、神の言葉、契約の中にある

神の保障を宣言し、その嘘を跳ね返す事にあるのです。

大嘘〜わたし=サタンにひれ伏し拝むなら、全世界をあなたにあげましょう〜!嘘は泥棒の始まりと日本人は言うけど、全世界は

誰のもの?イエシュアが創造しイエシュアのものなのに、所有者でも無いサタンが、所有者であるイエシュアにこんな大嘘言って

騙せると思ったの?本当お笑いの世界みたいですが、それほど

サタンは愚かでもあるのです。なぜなら、最後は敗北が決まって

いるのに、ずっと無駄な抵抗をして、神の子らを滅ぼそと、

人々を騙し続けているからです。

 

神の言われた事を曲げる代償は、”死”であると最初から書いてありますこのことに異邦人クリスチャンは全く注意を向ける事が

無いと思います。なぜなら、神の言葉は廃れたと言う蛇の嘘を

神の教えと信じ込んでいるから、神の言葉を捨てて、削除し、

神に敵対していることを教えて生きていると言うことに全く

気が付いてないからです。

 

この世界の全ては誰により造られと書かれていますか?

創造主であるお方、聖書の最初には”エロヒーム”と言う他の異教の神々にも使われるジェネリックネームで創造主を紹介しています。神=エロヒーム=複数形。イスラエルの神が唯一人に、人は

どう生きるのか?と言う事を伝える事が出来る方であり、人間が

それを言う能力、知識などないのです。人の生きる詳細の全ての教え、定義は神が言う通りであって、人間が勝手に塗り替えたら

それは不具合、肉体的にも具合が悪く、聖別を汚す教えをし、

神に冒涜的な忌み嫌われる事をしても全く気が付く事が出来なくなります。

 

神のトラーを捨てると言うことは罪の定義を捨てると言うことであり、聖別の定義を捨てること、神の伝える神の性質通り=

イエシュアが示した人の生き方を捨てることだからです。

 

律法が廃れた〜と言うなら、こう言う事を言っているのです。

罪の定義が廃止されたから、今はなんでもあり!これは2テサロニケ2:3で書かれている”不法=ローレスネス=神の教え無し!神のトラーモーセの五書を生きない捨てる人!と言う事であることに全く気が付いていないのです。クリスチャンの世界ではモーセの五書の教えを捨てよ!と堂々と神の声とは別の声を代弁しているからです。

 

2テサロニケ2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、<アノミアス〜

トラー無し>すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。

 

でも、聖書を読み進めて行くうちに、このエロヒームは他の神々とは異なる神である事が分かって行くのです。そして、神特有の名前、名前=実態、評判、名声、評価を表すものを紹介して行くのです。

神の名を知るだけで神の性質が表されています。数々の名前で

創造主はご自身の性質を表しています。

神の名に照らし合わせるだけで、西洋教父達の教えや、置換神学、デイスペンセーション神学が神が伝える教えとは異なる神の

性質や神の言葉に対してのズレた教えをしている事が分かります。

 

創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。

すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

第七日目のシャバットを神と人と創造物が祝う理由が最初に書いてあります。先ずは神が創造の業を全て終えて完了して休まれた

とあります。安息の休みとは、神がデザインした本来の性質、

姿を生きる事であり、それは神の与えたもの、神がデザインした

通りに沿って生きるそれが神に創造された創造物の生き方である!と言う揺るがない事実が記されています。

 

神のデザインに反した生き方をしたら不具合が生じるのは、

それが神に創造された本来の生き方ではないからです。

そして最初の最初に”聖別”と言う言葉の定義が記されています。

神は最初に”時”を聖別されました。

 

創世記1:14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節=モアデイム=アポイントメント=神が定めた神の子らを呼び出し祝う日=のため、日のため年のためになり、

 

天の万象は神の”定めの日”=モアデイムを司るために造られたと

あります。

神の記念日は、シャバット、新月、そして春と秋の祭りです。

シャバットは週の第七日目です。ある人々は、週の第七日目と

どうして区別が付くのか?いつでも安息日!?と言う場合には

神の完全なる主権、支配が見えないのです。

 

荒野でマナが二日分降った日は、第六日目です。

イスラエルはその日を神が言われた通りずっとガードして来た、

残りの民達は神の教え、神の記念日を現在に至るまでガードして来たのです。マナは約束の地に入ったら降らなくなりましたが、

イスラエルと少数の異邦人はずっと第七日目をシャバットとして祝っていました。

そして、創造主であるイエシュアが地上に来られたら第七日目以外のズレた日にイエシュアがシャバットを祝う事などある訳が

ありません。

それほどまでの厳重さで神ご自身が、神の言葉に忠実に生きる人達=残りの民をどの時代にも確保していたのです。神のヘブライ語で書かれた神の言葉が今まで正確に保存されて来たと言う事も

神が成した奇跡です。翻訳聖書でいい加減な教えに塗り替えても

元の証拠に照らし合わせれば、神の真実は明らかに永遠に存在するからです。

その残りの民達を福音書以降に2度出て来たキリストに付くものと言うあだ名で呼ばないだけで、残りの民=タナックに記されたイエシュア、福音を知り、聖霊を内側に受けて新しく創造された人として生きて神の言葉を生きて次世代に伝えた人達、それが残りの民と聖書で記されている人々の事なのです。

 

長い歴史の中で、神の言葉が異邦人により捨て置かれ、西洋人の手で異教徒思想満載の人の教えに塗り替えられたものに変身し、人の教えが神となってしまえば、何が本当なのか、人が作った

宗教=神の言葉を変えて人の教えを付け足したものが教えるものが、正真正銘の神の教えだ!と勘違いしてしまいますが、聖書だけに戻れば、神の言葉の中身は人造宗教の教えではなく、永遠に変わらない神の言葉、教えが書いてあるものなのです。

 

シャバットは神が人に与えた印です。それは第七日目であり、

第七日目以外ではない!と記されています。安息の休みとは、

神のデザイン通りに戻り生きる!と言う事を神の家族全員で集まり、神の指定した聖別された呼び出し日に、神の言葉を中心に

祝い考える事を通してなされるものだからです。神の家族全体が、神の言葉を生きる事に戻るなら、それはシャロームな実態に戻る事なのです。

 

クリスチャンが神の言葉を古い呪いの律法だと勘違いしている理由は、人の教えに遮られて全く違う事を空想している事によるのです。それなら同等に福音書以降も100%呪いの律法です。

聖書にはモーセの五書以外の教えは書いてないからです。

人がもし神の言葉をどの部分でも捨てよ!と言うならば、それは

神から出た教えではない!と言う重大な欠陥、落とし穴に気が付いていないだけなのです。

神が警告しているのは、律法主義=神の実態に生きることではなく、自分の行いで何かを獲得しようとするそのズレた意識の事を

律法主義と言っているのです。クリスチャンの世界にも、どんな宗教グループの中にも律法主義は根強くはびこっているのですがそれに気が付いていないだけです。

神の古い教えを生きる事、神の古い教えを捨てない事=律法主義

古い教えに戻り恵の無い生き方をしているのだ!などと言う神の教えに敵対する勝手な教理を信じているからです。

トラーが消えれば、罪の定義は全部消えます。恵は神のトラーに違反した事を許している実態であり、罪の定義が消えれば無法地帯であり、恵も要りません。よって罪の違反を許すイエシュアも要らない、福音も要らないと言うことになるのです。神の言葉とは辻褄が合わない事に気が付くでしょう。

 

先ず第一にイエシュアは100%モーセの五書=父の教えを教え、生きた、モーセの五書に反する教えを1つもしてない!

と言う事実を福音書の中から読み取らないとならないのです。

イエシュアが当時のユダヤ人のラビ、教師達と議論している内容はトラーに反する事ではなく、ユダヤ人教師達やある人々が、

神の教え=トラーの本質とは違う事を考え、生きて、又は先祖の

伝統の言い伝え=口頭トラー=パウロが”律法の戒め”と説明してた、それら神の教えとは違う教えを神の教えだ!としていたズレた意識、教えに対してイエシュアが反論し正していた!と言う

事実に盲目のままでは、神の永遠不変の言葉が見えなくなるのです。しかも、神の言葉が変わる!破棄されるなどとどうして考えているのか?と言うその初歩的ズレ、誤りに先ず気が付けば神の伝える永遠不変の真実を発見する旅路のスタート地点に立てるのです。天地が存在する限り、トラーも廃れない!とイエシュアが

強調して言ったでしょう。天地が滅びないから神のトラーも滅びない!と言っているのにどうしてそのクリアーな意味が理解出来ないのでしょう?わたしを愛する人は神の言葉=トラーを生きる!と言っている、人の教えに照らし合わせると全部辻褄が合わなくなります。

 

続く