歴史の中での実際の出来事=預言的出来事、福音の中身=イェシュアがされた業はぴったり同じく重なっています。
子羊の血の贖いで過越し<過越の祭り>、出エジプトして7週<オメル=穂を数える7週間>経過した時、イスラエルと少数の
異邦人はシナイ山で神と直接出会います。<シャヴオートの祭り>神の声を聞き、天がそのままシナイ山の上に降りてきました。
シナイ山で神の永遠の約束、契約を頂いた祭りがシャヴオート
の祭りです。
だから、聖書に”山”とあるとそれは神の臨在と直結してユダヤ人は考えることが出来るのです。
神の契約の中に加えられている根拠があるから、神の助けを神の子らは求める事が出来る事をこの詩篇の著者は語っています。
詩篇121:1 わたしは山にむかって目をあげる。
わが助けは、どこから来るであろうか。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
121:4 見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
<イスラエル=神の家族の苗字、異邦人もイスラエルも神の契約の中にイエシュアを通して加えられた大家族を守る者=イスラエルの神。>
出エジプト 19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。
19:17 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。
19:19 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。
19:20 主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。
ラッパの音とは、祭りのショファーの音=神の声になぞられるものです。シナイ山での出来事が、同じシャヴオートの祭りで、
シナイ山で直接神が現れたその時の事を皆が再び思い出す特別な
神の現れであるのが使徒2章の出来事です
<シャヴオートの祭り>
レビ記23:15 また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。
23:16 すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。
23:20 そして祭司はその初穂のパンと共に、この二頭の小羊を主の前に揺祭として揺り動かさなければならない。これらは主にささげる聖なる物であって、祭司に帰するであろう。
23:21 あなたがたは、その日にふれ示して、聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。
使徒 2:1 五旬節<シャヴオート>の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
<この箇所、クリスチャンの世界で一般に語られるのは、誰か
個人の家と言いますが、都上りの祭りの日にエルサレムで集まる場所は、”神の家”=神殿です。シナイ山〜神の臨在が降りてきた
場所=神殿〜神の臨在が存在する場所です。>
<使徒たちは、過越祭りの後シャヴオートまでの7週の間に復活のイエシュアに出会い様々に神の言葉で記されている事実から
諭され教えられたことが記されています。>
使徒1:3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
使徒1:4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
<使徒達が共に居て、互いに励まし力づけられ次の任務を遂行する準備される必要があったからでしょう。>
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
<この箇所は、シナイ山の出来事の再来であるとユダヤ人達は
分かったでしょう。コル=神の声 イナズマ、光〜炎のようなもの。>
使徒2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人=弟子達ではないか。
<この箇所で他国の言語で語り始めたのは弟子達でしょう。
そして意味不明な誰も理解出来ない言葉はなく、それぞれの国の意味ある言語で弟子たちが語ったのでそこに居た生まれ故郷=
他の言語を話し理解する人達がびっくりしたのでしょう。>
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
様々な言語で語ったと言う意味は、神の契約、教え、福音、贖い
救い、祝福は、アヴラハムに約束された通り、”アブラハムを全民族の父とし全世界の民族へ同じ神の祝福が行く”と言う契約通り、神の言葉はシオンから出て世界へ伝わる幕開けだったのです。
イザヤ42:4 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。