非聖書的な支離滅裂思想創作の聖書解説  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書ではない人の教え、考えに基づく教え、聖書解説は後を絶ちません。

クリスチャンの世界では、福音書以降には、タナック=モーセの五書、預言書、諸書にある教えが詳しく書かれていませんと説明しています。

その通りです。その理由はどうしてだと思いますか?

 

福音書〜黙示録に記されていることは、タナック=モーセの五書

預言書、諸書に記されている内容を理解している前提で、特に

モーセの五書の教えの内容を短く解説しているだけだからです。

イエシュアが語られた教えは100%モーセの五書である事を

理解して福音書以降を読んでいますか?それとも今まで聞いたことのないモーセの五書=父の教え=トラーとは違う最新式の別の教えをイエシュアが教えて生きた!などと完全に勘違い、誤解して聖書を読んでいるのではありませんか?

 

学校の教科書に上巻、下巻があり、下巻を秋学期以降学ぶ時に

その下巻の中には、春学期に学んだ上巻の内容の解説は詳しく

再度重複して説明されておらず、上巻で学んだ概念や方程式を

知っている事を前提で下巻が解説されているからです。九九を知る人に九九の初歩から教え直すなどと言う事は次の学年に行ったらないでしょう。ちょっとした九九の基本の抜粋が語られるだけです。

だから福音書以降は、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に書いてある教えの内容の全てを重複していないのです。特にモーセの五書の中には人の生きる上での全ての領域を網羅した教えの内容が書かれており、そして神の聖別の定義、神の記念日、罪の詳細の完全版フルセット版が記されているのです。もっと細かく言うと、トラー=モーセの五書はイスラエルと言う国家の憲法でもあるのです。その中には、人の生きる上での全ての領域が記されています。衣食住、婚姻関係はどんな間柄が許されているのか、どんな人と婚姻関係を結べるのか、戦争に関して、軍隊に関して、夫婦関係、家族、そして隣人、コミュニテイ全体の生き方、その中にはもちろん司法の細かい内容も記され、神が定めた時に沿っての国、土地の管理、賠償、その他諸々人が生きる上での全ての事に関して網羅する内容が記されているのです。

 

だから、福音書以降には、どの様に軍隊を形成し、何歳以上の

男子が戦争に行くのか、レビ族の祭司の事細かな職務の内容や

神の家=神殿で教えられている様々な教えの意味や、獣姦や、

近親相姦、その他の罪の内容などは書かれていないのです。

福音書以降に書かれていない、イコールだからそれらの古い教えや、罪の定義の基準が消えた証拠なのだなどと考えて聖書を読んだら神の伝える真実、教えが頭脳の中からスカスカに抜けたままになります。再び人の解説する聖書の内容の回答例です。

 

8 信者が入れ墨をすべきかするべきでないか、福音書以降何も言っていません”と言う解説していますがこう言っています。

今はクリスチャンは旧約時代の律法には支配されていません。?

 

この様に考える人達は、神の教えが何を伝えているか元の言葉の意味内容を原典に基づき忠実に学ばない理解していない教師の

思想を学んでいるのです。”あなた方は律法の下にいない!”などとパウロが言う言葉を、あなた方は古い神の教えの下にいない!などととんでもない勘違いをしているからです。

 

ローマ6:14なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

この文章の中でもパウロが何を言っているのか、見えるでしょう。まず律法と言う翻訳用語の裏にあるギリシャ語のノモスは
多様性のある多くの事柄に適用し使われている言葉である!と言う知識が必要です。ここに記されている律法と訳されているギリシャ語のノモスと言う意味は、罪の法則であり、神の言葉=トラーを語っているものではありません。神の教え=トラーが伝える罪の詳細の下に新しく創造された人は既に支配されていないと言う意味です。だから、これを”あなた方は神の教えの下にあるのではなく、恵の下にある”なんて解釈すれば、辻褄が合わなくなるのは当然の事なのです。書いてある意味とズレているからです。なぜなら、神の言葉は全部丸ごと完全なものであり、神の言葉は聖霊そのもの、恵みにあふれたものであり、神の教えこそが人に与えられている最大の恵みであり、神の言葉=イエシュア=神の実態=聖霊だからです。イエシュアも人は神の口から出る1つ1つの言葉=モーセの五書=トラーに記された神の言葉により生きる!と教えている事に対しても矛盾してしまうのです。
イエシュアにより新しく創造された人は、罪の法則の下にはなく、神の恵みにより神の実態を生きれる現実の下に取り戻されたので、罪に支配される事はない!でもそれは新しい人を生きると言う絶え間ない個人個人の決意、選択で可能な実態である!と言う事でもあるのです。全ては自動的ではなく、ずれる可能性は古い性質を生きればずれるからです。
 
一方、福音書以降に登場する人達、当時のユダヤ人や使徒、パウロ達などは、100%モーセの五書を学び生きて教えていたのです。誰も現代のクリスチャンが言う様に、古い律法は終わった!

などと言う、西洋教父やダービーが述べた思想など頭の片隅にも

無い!と言う事実から聖書を読まない限り人の思想の解説を

ずっと頭脳にインプットされ続けて真実がみえないまま神の言葉の真実を誤解して行ってしまいます。

 

9  旧約聖書の律法はイスラエル人にこう命令しています。?

 

聖書を読む時に注意しなくてはならないのは、イスラエルに命じたとあるのは、イスラエルを代表として異邦人にも同じ教えをしている!と言う事実があるのです。もしイスラエルだけの教えと言うならば、異邦人は何も関係ない、異邦人はイエシュアとも関係がないと言う事なのです。しかも福音書以降はモーセの五書の抜粋の教えしか書かれていないのです。クリスチャンは廃れた律法!などと言いながら、福音書以降に記された教えがモーセの五書のみでトラー以外の別の教えなど聖書には無い事に気が付いてないだけなのです。イエシュアに繋がる人は誰でもイスラエルと言う神の大家族一員に加えられた人であり、分け隔てなどないのです。養子になった子がその家族の苗字を与えられ、その夫婦の子供と全く同様の立場になったと言う事実と同じです。しかも

出エジプトし神の教えを聞いていたのはイスラエルだけではなく、イスラエルと共に住む異邦人達が存在していたその人達は、イスラエルの12部族の中に加えられて住んでいた事実が念頭にない場合には、イスラエルだけに神は教えていると考えているのです。イスラエルは長男、異邦人は弟妹!家族の代表が長子イエシュアを筆頭に同じ教えを生きる!と言う事が書いてあるのです。だから家族の長である代表者のイスラエルは神の教えからずれたら多大な代償、刈り取る重い結末を負った記録があるのです。地の塩世の光の代表である長子がずれたら以下弟妹を誤りに導いてしまうからです。

もし異邦人には神の教えは関係ないと言うなら、異邦人はイエシュアとは全く関係の無い存在である!と言っている事に気が付いていないのです。同じ神の家族、神の契約=トラーを生きる事から遠く離れてイスラエルと言う国籍のない異邦人が今やイエシュアにより引き寄せられ同じ天の家族になり同じ共同相続人になった!とパウロがエペソ2章でも伝えている通りが聖書の事実です。神との関係が証明される根拠は契約=トラー=モーセの五書なのです。これを捨てたら神との関係にある生き方、根拠、証拠を捨てると言う事なのです。異邦人、ユダヤ人と区別して考える思想は西洋人が編み出した思想!神学!であると言う事に目覚めて考えてないとなりません。

 

10 入れ墨をしてはいけませんか?と言う質問に対して

レビ記19:28「あなた方は死者のため、自分の体に傷をつけてはならない。また自分の身に入れ墨をしてはならない。わたしは主である。」とあるが、福音書以降には入れ墨をするなかれの教えはないとしています。?

 

クリスチャンの世界の教えでは福音書以降に記されていない、とかある箇所からこの言葉が使われていない”例えばパウロをラビと呼ばないとか、パウロをサウロと呼ばないからパウロと言うのがパウロの改宗名などと、教えが変化したと、本当に適当な気ままに創作解説を作っています。

”教師と呼ばれるなかれ”とは、まさに人が神の教えを塗り替える

神の教えを別物に判定するその様な権威はない!神が一番の最高権威であり、自分が神になるなかれ!とイエシュアが言っているそのものなのです。パウロと言う名前は、パウロは二重国籍がありポロスとは、ギリシャ語読み、シャウールはヘブライ語の名であるだけです。ギリシャ語でポロスと言い、ヘブライ語を使う人にシャウールと言うのは当然です。マイケル、ミカエル、ミシェール、ミヒャエル、全部同じ名前で国の言語により発音が違うだけです。

イエシュアはヘブライ語の名です。ジーザスもイエスもイエズス

イスetc 25通りくらいある他言語のものは全部造語です。

福音書以降には罪の詳細の全てが書かれていないから、入れ墨に関しての教えは無くなったのではないのです!全部聖書の最初の75%に必要な教えが記されているから福音書以降に同じ事を

重複して書かれていないだけです。

 

そしてレビ記の教えが終了した理由を以下の典型的な神の言葉を

否定する誤解した解釈の翻訳聖書を用いて解説しています。

律法と言う言葉は神の言葉や教えを指して使われるべきでは無い

不適切な誤訳なので、神の言葉を指して使う場合には、トラーと

元の本来の意味に言い換えます。

 

口語訳

ローマ10:4キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、トラーの終りとなられたのである。

新共同訳

キリストはトラーの目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

翻訳版により人に与える印象は全く違うものになっています。
口語訳を読むと、キリストが来て初めて人が義とされたから、
神の言葉を終了させた?などと言うめちゃくちゃ不適切インチキな翻訳になってしまっているのです。
イエシュアは神の義=新しく創造された人を信じる者に得させるため〜義とされた人が生きる神の性質通りが書かれたトラーの
お手本、目標になられた。イエシュアの生き方は今まで誰も見た事がない完全版の神のトラー=生けるトラーを教えと生き様で
見せてくださった、私達はこのイエシュアの生き方がトラーの
本質であるから目標になった生き方=神の言葉を生きる!と言う
意味です。
 
この様なズレた翻訳もいくつか前に書いた不適切な翻訳の代表例の1つです。こんな翻訳があるおかげで、読む人に聖書に無いのに、聖書がそう言っていると誤解を与え続けているのです。
キリストはトラーの目標、集大成、お手本である!と言う意味が
本来の意味であり、神のトラー=モーセの五書は終わり!などと言う意味はありません。
 
ガラテヤ3:24 このようにしてトラーは、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
 

この箇所も以前に説明した通り、トラー=神の言葉や教えの目的は人が救いを得るための手段として人が生きる!と言う目的で

与えられたのではなく、救われた人達、神の花嫁とされた人の

生き様が記された婚姻契約書である!と言う大前提が頭脳の中に

定着していないのです。贖い出された人達にシナイ山で神の婚姻契約=トラーが与えられたのです。エジプトに居る時に与えられたのではないのです。

 

でもトラー=神の教えは、救いを得る前の人でも、分からないまま神の教えを聞いて生きたら、やがてその中身に書かれている事はキリストに導かれる下地を作っている〜それがキリストに導く

養育係と言う当時の社会にあった家の中に働いていた召使い

ペデゴーゴ=養育係=子供を教師の元に導き連れて行く仕事をする人になぞらえてパウロが説明しているのです。

一旦キリストに在る信仰に繋がれたら、神に出会うための教えとしての役割は終了し、今度は神の教えを聖霊を受けて頭脳に割礼がされ神の言葉を理解して生きる!と言う次の次元に移行する!と言う意味なのです。分からないまま神の教えを生きていた全ては”生きる事はキリスト!”神の実態を自覚して生きる!と言う事に変わるからです。

 

 

続く