2 非聖書的な支離滅裂思想創作の聖書解説  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エペソ2:15数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

 

これは基本的であり単純な事実を知識が無いために誤解する良い例です。パウロが戒めの律法と書いているのは、イエシュアが

言われた”先祖の伝統の教え、言い伝え”と言っている口頭トラーであり、神のトラー=モーセの五書のことなどではありません!

 

ユダヤ人の中には、割礼と呼ばれたアヴラムの割礼とは意味が

違う当時のユダヤ人達が作った改宗儀式を経ないと異邦人は神の国の正式な一員になれないのだと言う人の作った規程があり、

ユダヤ人は改宗儀式をしていない異邦人とは1世紀当時一切交わりや関係を持つなかれ!と言う当時のユダヤ人の中にあった規程戒めがあったのです。

ペテロでさえ、ユダヤ人の手前このユダヤ人の作った伝統のしきたりのため、異邦人と交流する事をユダヤ人の前では隠していたわだかまり、躊躇する意識問題があったこと、だから、”空から野生の動物が降りてくる幻”を神に見せられて、神がきよめたものをきよくないと考えるな!と神に言われたのは、食規定が変わったなどと言う変形した教えをクリスチャンがしているのです。

 

でもそんな事を神は言っていません。空から降りて来た動物で表されるのは、当時の神殿で認定されていないどこから来たか分からない”野生動物”であり、もちろんきよい動物しか祭壇に捧げれられない、人も食せないのです。

誰の手から渡って来たのか出所不明の動物、汚れた動物と一緒に

なっていた動物かもしれない。

その幻を見せられた後、ペテロは”食規定が変わったのだ!”などと考えるわけもなく、当時のユダヤ人達の掟の中にあったは割礼と言う改宗儀式を受けていない異邦人達、ユダヤ人が神の国の一員であると認めない異邦人信者達の所へ躊躇なく行けると言う、意識変化をもたらされた事が記されているのです。

 

使徒11:2 そこでペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめて言った、

<アヴラハムの割礼は永遠に重んじられるものです。ここで語られる割礼とは、改宗儀式を経て完全にユダヤ人となる儀式が神の国の正式メンバーになるには絶対必要である!と言う人の伝統の

言い伝えを重んじている人の事です。>

 

11:3 「あなたは、割礼のない人たち=ユダヤ人になる改宗儀式をしていない汚れた異邦人のところに行って、食事を共にしたということだが」。

<ここを読んだだけで、彼らがレビ記11章の食規定が変わったなどと考えていない根拠にもなる箇所です。なぜ異邦人と食事しないのか?使徒15章の中身と同じです。異邦人は神の教えを知らないので、平気で汚れた動物=レビ記11章にある神が禁じた

清掃動物、動物の血でもなんでも食べる!!!からです。

だから使徒15章でパリサイ派の人達が異邦人イエシュア信者達をユダヤ人達の会堂の交わりに加える条件として、汚れた動物を神殿でささげて食べたり、その血を飲んだり、動物を絞め殺して異教の神殿の祭壇で捧げたり、神殿娼婦と多産を願う儀式をする不品行をやめて!それが最低限今の異邦人をユダヤ人の交わりに受け入れる条件としよう!と言ったのです。レビ記11章が変わるなら、汚れた動物を食して自分達の交わりの食卓を囲むな!

なんて言うわけないでしょう。>

 

11:4 そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、

11:17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。

11:18 人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。

 

天から来た動物の幻を見せられた後、語られているのは、

野生=改宗していない異邦人達の事であり、きよくない動物が

清くなったので食べれるなんて話をしてないでしょう。

ペテロの中にも巣食っていた異邦人に対する偏見が、神の幻により、異邦人であれど神がきよめ義としたなら、ユダヤ人信者と

同じ神の家族であり聖別された人である!と言う事実が分かったくだりが書いてあるのです。

 

この様な神の言葉が変更された根拠が書いてある!などと誤解されている箇所は、何が書かれて神が何を教えているのか、又はその箇所では何が論点であるのかをはっきり正確に把握しないと本当に神の言葉が変化した!!と言う嘘の思想を頭脳にインプットし続けて律法が廃れた証拠だ〜などと、偽情報を自分へ他者へ伝え続けてしまっているのです。この様な事、不真実な教えは完全に断ち切りそして聖書に書いてある通りの正しい意味に直さないとならないのです。

 

異邦人との間にユダヤ人は隔たりの壁があったのです。だからそれらユダヤ人と異邦人を分断させている人間の決め事=戒めの律法を破棄して、ユダヤ人と異邦人は一人の新しい人に造り替えられ、シャロームの状態で生きれる様にされた!とパウロは言っているのです。神が神の言葉を破棄したら、イエシュアが言われる通り神の国は立ち行かなくなります。

 

11 入れ墨に反する命令が あったという事実をみると、そのことについて質問せざるを得なくなります。新約聖書では、信者が入れ墨をすべきかするべきでないか,何も言っていません

聖書は入れ墨や体のピアースをするなとの命令もしてはいませんが、神が私達に入れ墨や体にピアースをさせる理由も書いてありません。??

 レビ記19:28「あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。

理由は書いてなくてもはっきり入れ墨を神は禁じています!

神の言葉は古くて廃れたと言う、西洋人が作った教えを神とする

人達は、神の古い教え!としてモーセの五書の都合が悪い箇所を

捨てています。そして同じトラーにある十一献金の教えを強調して使ったり、自分の都合で神の言葉を仕分けたりしています。

 

聖書に事細かに理由が書いていないものはたくさんあります。

例えば書いてなくても、神の教えを受け取った古代当時の人達はそれら神が禁じる行為はするべきものではない!と理解していたのです。レビ記11章の食べ物の規定でも、それらの清掃動物の性質の詳細、構造を理解していなくても、それらを食することは神が伝える通りに、忌まわしい行為であり、聖別を汚す行為であり、それらは神の祭壇にも捧げられない相応しくない汚れた動物である!と神がそう言われたらそうなのです。

未来にイエシュアがエルサレムの神殿から世界を統治される王に

なられた時には、神殿の中でも当然汚れた動物は祭壇に捧げて

そんな動物を皆でBBQして祭りを祝う事などありません!

祭りの時に捧げられるのは、神が指定している”きよい動物”でありそれらを皆が食する!

 

イエシュアが来られたら動物の捧げ物は無くなったのだ〜などと

考える場合には、使徒を読み直せば分かるでしょう。

神殿が存在しているならば、動物は捧げられ続けるのです。

なぜなら、それは罪の仮の許しの目的のためにされているのではないから!です。

しかも未来には、神の都上りの祭りにエルサレムへ全世界の人達が上ってくる!とはっきり預言されています。

神の祭りを祝う〜エルサレムの神殿で動物が捧げられ皆がBBQを

囲み盛大に祝う!と言う時が来る!と言う意味です。

 

古代の過越の祭りの時にはエルサレムの神殿の周りではBBQの簡易グリルが路上の至所に設置され、神殿に捧げた子羊や動物を

ローストしてものすごく芳しい香りが街中をおおい、祭りの楽しさを体感したそうです。日本だって祭りの時に美味しい屋台の料理の匂いを嗅いで華やかな祝いの雰囲気を味わって喜び楽しむ体験をするでしょう。尚更全世界の王の王、主の主の祭りを神の子らは誇らしく盛大に祝うのは当然なのです。

 

汚れた動物を身体に入れることは神に忌み嫌われる行為であり、清掃動物の毒を取り入れ、同時に神の前に聖別を汚す事であると理解していたのです。

身体に入れ墨で傷を付けると病気やガンになる、そしてそれらの行為は異教の神々に仕える異教徒がする行為でもあるからです。

 

12 この質問の答えは旧約聖書の規則が誰に対して書かれものであるかという点にあります。?

旧約聖書の規則はイスラエルという国の人たちに対して書かれたもので、クリスチャンのために書かれたものではないのです。?

 

この様な分断思想は、人間は人種により構造が違う、DNAが違う

などと言う真実では無い事を言っているのと同じです。

神の教えが異邦人ユダヤ人に別物であるならば、福音書以降に

記された教えも全部無効です。なぜなら福音書以降に記された

教えは最初にイスラエルを代表として伝えられた100%モーセの五書の教えだからです。異邦人には関係ないと主張する人は、イエシュアとの関係もない!契約の中にある保証もない!神との関係の根拠を証明するものはどこにもない!と言う事を言っている事に気が付いてないまま人の思想で勝手に神の言葉を自己流解説しているのです。

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聖書とは違う解説例の続きです。

 

12 主の日とは(特に裁きの時を意味する〝主の日″とは違う)日曜日のことです。主の日と言うことばは聖書では一度だけ使われています。黙示録1:10は、「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろに.ラッパの音のような大きな声を聞いた。」と言っています。 使徒ヨハネは〝主の日"の意味を念入りに説明していないので、ヨハネの宛てた読者、一世紀のクリスチャンたちはすでにこの表現に慣れていたと思われます。

 

聖書にある、主の日とは神の言葉によりはっきり定義されています。聖書で主の日と言う場合、神の定めの日=アポイントメントの日レビ記23章に記された、シャバット、新月、春の祭りの過越、初穂、種無しパン、そしてシャウオート。秋の祭り、ショーファーを吹く日、大贖罪日、そして仮庵の祭りです。

又は主が神の業を特別にされる日の事!
聖書に主の日とあって、日曜日と考えるのは2世紀以降の西洋教父達の教え、人が作った教え、カトリックの教えを聖書だと勘違いしているからです。

主の日とは日曜日の事などではありません。しかも日曜日は普段の日であり、週の労働の初日であり、聖別された日ではない普段の労働日、止まる日などではありません。神が第一日目から創造

の業をされたのであり、神は第一日目に止まり、第2日目から7日目で創造の業をされたと聖書に書かれているのでしょうか?

神がされた様に人は第1〜6日を労働し、7日目に止まる!神が

された様に人も同じ様にする!とはっきり聖別された止まる日

シャバットと、普段の労働日を神が区別して聖別しているのです。

神の祭りの暦がたまたま週の最初の日、日曜日に始まれば、

例えば、過越の祭り、ニサンの月=第一の月の15日(14日日没に15日になる)がたまたま日曜日になれば、それはシャバットとして止まり祝う特別な日になるだけです。祭りの最初と最後は必ず止まる=シャバットとして過ごしますが、それは第七日目のシャバットとは違うものなのです。

神の祭りの暦とその意味を学ばない、神の記念日を祝わない場合には、神が教えている意味が分からないのは当然なのです。

ローマ宗教の記念日は知っていても、聖書に記されている本物の

神が創造された神に取り大事な記念日を知らないと言う意味はどう言う事か?始めの愛を捨てて神の教えを離れた!と言う事をしたから、分からなくなったと書かれています。

 

 

 

続く