歴史を遡りそれぞれの時代に存在した人達の独自に編み出した
思想で解説する聖書解釈が、その後の人々への聖書に対する概念に多大に悪い意味で影響を与えてしまった事は、調べてみて初めて見えてくるものです。
一般に見聞きし実践されている数々の教えは、実際には聖書では無い、人が編み出した教えであるのです。
スコッフィールリファレンスバイブル、そして英語翻訳のリビンバイブルなど、聖書とは異なる人の思想が満載の注解が挿入されています。英語のリビングバイブル、さらにその英語のリビングバイブルを翻訳した、翻訳のその又翻訳としての日本語訳のリビングバイブルも、人の思想の”意訳”満載なものであり聖書の本来の意味に忠実ではない箇所がたくさんあります。それらは世の中に出回ってはならない翻訳でもあるものなのです。
でもどうしてそんな事が起きるのか?それはオリジナル聖書に書かれた通りのものでは無い翻訳、人の意訳、注解で塗り替えられた翻訳になってしまっているからなのです。
翻訳とは、翻訳者の思想が直に影響、反映してしまう危険があるものなのです。翻訳者が神の言葉は歴史の途中で変化する!と信じていれば、その思想が翻訳にも直接反映してしまうからです。
英語のリビングバイブルは、1972ー1973年に大ヒットしその後1997年までには、4千万部が売られたのです。
その売上数の意味は、人の思想で塗り替えられた聖書翻訳に書かれた教えが多大に大衆に浸透したと言う事が起きてたしまったと言う事なのです。
日本語のリビングバイブルは英語のその又翻訳で日本語に訳したものです。この日本語訳リビングバイブルにも当然人の思想、
”意訳”が満載なのです。
確かに読みやすいと言うのはあるでしょうけれど、元の意味とは全く違う翻訳がされてしまっているのです。その代表がこの次に書く箇所であり、クリスチャンの教えの世界では神の言葉=古い箇所=トラー=モーセの五書は廃れたと解説されている代表的な聖書箇所です。
リビングバイブル版
コロサイ2:16 そういうわけですから、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを
守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。
17 それらは、キリストが来られる前にだけ有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。
英語訳も同じですが、そのままを日本語訳にしても、これはあたかも神の教えが一時的で廃れたものであると言う意味に読めてしまい、このズレた翻訳を読んでまま元の言語の意味を知らなければ、完全に神の言葉に対して誤解した固定概念を植え付ける事に成功する翻訳なのです。
コロサイ2:16ー17の翻訳と解説の意味がクリスチャンの世界で語られている解説とは全く異なる事は何度も書いていますが
翻訳だけを読んで受ける印象は、これら以前の事は不必要と読み取れますよね。でも実際の言語で記されている意味はそんな事は
全く書かれていなのです。この解説をするためにどれほど聖書を
曲げる思想が氾濫し蔓延っているのか、その理由をはっきり知る必要があるのでそれを先ず書きます。この聖書箇所の解説は後で又しますが、どうしてこの様な事が起きているのか?をはっきり追求する必要があるのです。
ブログの記事に書いている内容は、誰かに対する批判ではなく、
聖書では無いズレた教え、解説、注解に対しての指摘であると
言う本質的な話をしているだけと言う事をまず理解頂いて、ではどうして世間一般にクリスチャンの世界で語られている教えが
聖書では無いと言う部分が多大にあるのかと言う理由、原因を
話していると言う事だけに注目して下さい。
20世紀にアメリカを中心に浸透し神学校の講壇から教えられてしまったデイスペンセーション神学のその大元、ダービーの思想は、聖書を全くないがしろにする教えが土台であったのです。
ダービーの主張は、福音書など異邦人には今は無関係!神の言葉など生きる必要などない!もちろん聖書の最初の部分など知る必要もない!パウロの書簡をちょい読む程度で良い!これ2世紀
当時の異端者マルキオンが言った事と全く同じ教えです。
こう言う聖書を本当には知らない教師に聖書を学ぼうと言うこと自体に元々無理があるのです。しかも彼の様な人はパウロとは全く違い、オリジナルの聖書に記された神の言葉の意味など知る由もない、学んだ経験も無い、翻訳聖書だけ読んで自分の思想で聖書をないがしろにする様な思想を作り人に教えてしまったのです。
そのダービーの弟子がスコッフィールドであるのです。彼は弁護士であり、弁護士なのにスキャンダルまみれで個人生活は破綻した様な人であったのです。その様な人が聖書をよく知らないまま、ダービーの様な人に聖書ではなく、彼の思想=デイスペンセーションを学び、自分の考える解説注解を聖書に書き記した翻訳聖書を作ってしまったのです。この聖書は、デイスペンセーション神学を世界へ浸透させる目的のために作られた聖書でもあるのです。
オリジナル聖書を学ばない人が、しかも個人訳と言う危険な事をし、聖書に自分の思想の注解を入れたのです。こう言う事です。半分のページに聖書があれば、その半分のページに自分の考え、解説、注解を全部入れた聖書を作ったのです。
2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもので
スコッフィールドは、ダービーの手ほどきの元、神の言葉の真実をデイスペンセーションの思想で塗り替える聖書を作ってしまったのです。これが異邦人の世界、アメリカで爆発的に受け入れられ売れたのです。
それがスコッフィールドチェーンバイブルなのです。この様な聖書は元々最初から世の中には出回ってはならなかったのです。
なぜ?人の思想が取り入れた注解が聖書の半分をしめて神の言葉を塗り替えた解説を書き、それを人が読んで聖書である!と人々に信じ込ませてしまった事が起きたからです。聖書ではなく人の思想が神学校の講壇から語られ、その思想を学んだ教師達が
一般の人をその教えで教育してしまったからです。神学校では
オリジナル聖書を学ばないで神学を学ぶ!神学を学ぶ人達が信仰を失う!と言うのはこう言う事を意味したのだと後で気が付きました。そうでしょう。聖書とは違う事を教えられたら不信に陥るからです。
一旦一人歩きし人気を博しクリスチャンの間で賞賛され絶賛されてしまった神学、思想は、進化論と同じく真実ではないのに真実だとされ、真実では無いのに神の言葉の真実であると異邦人クリスチャンの教えの世界で認証されてしまっています。
よくよく考えて、どうして神の言葉をないがしろにする様な思想を持ったダービーの思想が取り入れられてしまうのだろう?と
考え直したら良いのです。デイスペンセーション神学は不具合が
多すぎてダービーのオリジナルの思想はその後ずっと手直しされ続けています。なぜ?それらは神の言葉では無く、単なる人の
不完全な聖書とはズレた非聖書的思想だからです。完全なる神の言葉は手直しする必要がないからです。人の思想は神の言葉と
ズレているから手直しし続けないとならないのです。
聖書に照らし合わせれば合わせるほど、このデイスペンセーション神学は矛盾だらけであり、単なる人の思想である事が聖書に
戻れば見えます。誰に聖書を学ぶのか、その教師を選ぶと言う事は重要であり、教師は聖書とは異なる思想のいい加減な教えはしてはならない!と言う神の警告を常に謙虚に聞いて神の言葉を
神が伝える通りの意味を知る学びを続ける必要があるのです。
これらオリジナル聖書に記された意味とは違う、ズレた翻訳の
裏にあるその背景は、人の作り出した思想であり、聖書とは異なる思想があるからです。そして一般に当然のごとく受け入れられている非聖書的デイスペンセーション神学を元にクリスチャンの世界では全て解説されているものだからです。
1800年代から、終末論を熱心に唱える人達が出現しましたが
どれもこれも偽預言を連発したのです。いついつこの日にキリストが再臨する!と何度も預言し失敗に終わったミラーも単なる偽預言者のカテゴリーに当てはまります。その様な偽預言者は聖書によれば死に値する罪である事を知らないのだと思います。1度でも偽預言を神の名を使いする人は追放されてしまうのです。
一般に聖書の真実だと考えられている、クリスチャンが携挙されこの世界から消えてユダヤ人だけが艱難時代を地上で過ごすとか、ユダヤ人だけが地を治め、クリスチャンが天を治めるとか
その様な思想は聖書には記されていない思想なのです。
聖書に照らし合わせれば、聖書に書いてある事と全く異なる分裂分断思想を語っているだけなのです。でもそれが神の教えだと疑いもなく受け入れられているのは、神の言葉を書かれている通りに学ばないからです。”わたしの羊はわたしの声を聞き分ける”と
イエシュアが言われた意味は、わたしの声=コル=父の教え=
トラーを知っていれば、何が神の言葉の真実で何が人の教えで
嘘、偽物が見分けられる!と言っているからです。
神の言葉を捨てて学ばない人には、神の言葉か偽物の人の教えか
見分けられないと言う事が起きてしまう、事実起きているのです。
艱難時代にクリスチャンだけ天に上げられこの地を去る!と私自身もそう教えられ、それが聖書だと考えていましたが、
聖書にはその様な事は実はどこにも記されてなどいないのです。
その様な思想は19世紀まで存在しなかった思想なのです。
それはさて置き、ダービーの思想が聖書とはとんでもなくズレていたので、その後そのダービーの教えに対して手直しし続けなくてはならなくなってしまったのです。セブンスデーアドベンテイスト教団では預言者とされているミラーの思想を継承するエレン ホワイト(1827年ー1915年)の思想も手直しされないとならないズレた思想満載であります。
再臨が預言された日に来なかったので、これは天の至聖所にキリストが入られ、目に目えない形で再臨したと言う教えを説いたのですがそんな事は聖書に記されている事実ではない単なる空想であり、本当になんとでも都合よく勝手な解説が出来るものです。
イエシュアが再び来られたら全世界がそれを認識する!知る!と
書かれているのに、見えない知らないままひっそり再臨した〜
などと平気で人々に言ったのです。
本当に人とは神の言葉を全く無視した愚かな解説を編み出し続けるものなのです。
そしてそれを聞いた人達は何も聖書から識別せずに、偽の教えを本気で信じてしまうのです。
その教祖様が預言者であると信じているからです。
人の思想で聖書を読み解く意味、必要は無いのです。
聖書に書いてある通りに戻り識別出来るからです。
問題は一般の人ではなく、聖書ではない教えをする教師達である!と言う問題に気がつかないとならないのです。一般の信徒は
教えないでしょう。教師が聖書とは違う教えを発信してしまっている大元なのです。
続く