人間がどう解説し解釈しても神の言葉は永遠に変わらない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神=エロヒム(一体であり複数形の神)、創造主が世界の全てを人の為に造られて、必要な全てを用意し与えてこの世界の歴史がスタートした日が、シャバットです。この日神と人と全ての創造物が神と共に集い、一緒に祝った神が聖別された最初の日なのです。神が全てを完全なる形で完成されたから止まられた!何も欠ける状態がない!それが出現した!その歓喜の祝いがシャバットなのです。人は神に与えられた神の意図通りから全てを生きる!と言う基本がこのシャバットの中で教えられているのです。

 

欠けるものが何も無い、完成無欠、これ以上手直しする必要がない!最高に完成された状態が地上に物理的に、神の言葉により

全てが現れ出て、最後に人が造られて全てが完成したと書かれています。

神の言葉で造られたオリジナルの創造物は全て神の意図通り完璧

であり、何も不足が無い状態でした。

 

神の作品に手を付ける必要、余地が無い。神は第一日目から創造の業をされた記録があります。第一日目に止まったのではなく、神が人の時をデザインされた通り、第一日目から第六日目を創造の業、働くと言う事を同じ様にされた記録が書かれています。

止まる=シャバットは第一日目で無い、第七日目である事が最初の最初から明らかに神により人に伝えられています。

人が神の伝える事実を無視しても、神の前には永遠の真理で変わらないのです。

 

そして、聖書を注意して読んで行くと、神の創造物に対して、

3日目以降にそれぞれの日に完成した創造物に対して神は”トーヴ”とと言う言葉を初めて使われました。טוֹבトーヴと言う言葉は”良い”と訳されていますが、翻訳の意味とヘブライ語のトーヴと言う意味では違う意味合いがあります。

神の意図通り、それぞれの創造物は神のデザインした性質通りのものであると言う意味ですが、その実態は様々な言葉で言い表す事が出来ます。神の似姿の人がトーヴであるとは、義、善、美徳 まっすぐ、統合性、尊厳、誠実、高貴、高潔、品位、誠意、真実、真理、不屈、精錬潔癖、信頼に値する 非の打ち所がない 純潔その為類義語はたくさんあります。パウロが語る愛の実態

1コリント13章は神の似姿の人の性質を語っているのです。

パウロが語った愛の題目は、モーセの五書に記されている愛の実態を短く言ったものであり、全て神の性質、神の似姿に造られた性質の人=トーヴの状態、実態であるものです。人間だけが、

神の性質通りそっくりそのままを与えられ創造されたのです。

だからサタンは人間が妬ましくてしょうがない、それで色々妨害してくるのです。嘘つき、妬み、神の性質とは違う性質はサタンに属する性質なのです。

人が最後に造られて初めてその日、第六日目を”トーヴ メオード”甚だ良いと訳されていますが、最大限にトーヴと言う意味の言葉で表現されています。神の喜び、歓喜マックスが伝わる言葉。誰でも自分の考え意図通りのものが完成した時の喜び!これだ!トーヴて言いますよね。だから、神の作品に、神の創造された全ての中には何も欠けるものが無かったと言う事実を表している言葉です。

聖書の事実によれば異邦人が主張する、神の言葉が不完全で途中で変化するとか、神の贖い、救いの業が途中で出現するとか、

その様な理論や解説、人の主張の教えは、神の言葉を読むと全く違う事が書いてある事実を知る事が出来ます。全ては永遠の中に存在していたと言う事実から始まっているからです。私達は永遠の中に既に神から選び出されていた!と書いてあるからです。

歴史の途中、2000年前に初めて救い、贖いが与えられた!

初めて聖霊が人の中に住まう様になったと考えているのは、

神の言葉で伝える永遠の真実を読み取って把握し理解していない事から来る聖書とはズレた理解、見解なのです。

イエシュアの弟子達でさえ、イエシュアの地上での処刑、復活など、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記されている事実をはっきり正しく把握していなかった事から、イエシュアが一から手ほどきし、タナックから解き明かし諭した事でも理解出来ます。タナックに記されているイエシュア=救い主を彼らが正しく理解し読み取っていなかった、だからタナックからイエシュアは弟子に再確認し教え、そして聖霊により目が開かれてタナックに書かれている事実に弟子達はその時に気が付いたと書かれています。

ルカ24:43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

 24:43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。

すなわち、モーセのトラーと預言書と詩篇とに、わたしについて

書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。

 

タナックには全てが記されている!と言う事実から聖書を読み、学べば、神の言葉が伝えている真実が把握出来ます。聖書に記されている人達全てはタナックだけが教科書なのです。福音書以降に優れた教えが登場したのではないのです。福音書以降は聖書の最後25%タナックに記された事のほんの短い解説なのです。

イエシュアが実際に地上に来られて、トラーに記された神の似姿に造られた人間本来の生き方を実際に生きて見せた、その愛の

完全な生き方はイエシュアにより初めて人として完全に生きる事を見せられたのです。

新しい愛とは、以前には無い愛の実態ではありません。人として

人から本物の愛を生きると言う体験はイエシュアが地上に来られるまで誰も体験した事がないだけです。

なぜなら神は永遠から永遠に変わらない、移りゆく影もない、

神の愛は変化しない!イエシュア ハ マシアは昨日も今日も永遠に同じ!と神が伝える事実から考えなくてはならないのです。

 

神が変化する、神の言葉が変化すると言う神の伝える真実、事実

真理を妨害する人の教えが神の言葉を聞けない様にさせているのです。だから聖書は聖書により解釈する!と言う基本的な真実に

戻らないとならないのです。

神の言葉は完全であり、人が手を加える必要がない、人が手を

加えたり、神の言葉に差し引きする様な事をしてはならないと

神が言われた事に対して、人は神の言葉を完全に無視し、神の言葉を退けて勝手な教えを作り出し、神の言葉は古臭く無用になったので昇天以降無効になった、ある部分だけは有効、ユダヤ人だけに適用されるなど、神、イエシュアの言葉を丸無視した勝手な意見を述べでいますが、聖書だけに戻れば、それは単なる人の

教えであることがはっきりと記されています。

 

神の言葉を変形し、神の言葉を無視する様な行為は、神に何を教えられているのかぼやけてしまい、人の教えが神の教えだと勘違いしてしまうのです。その行為は神を愛すると言う行為とは真逆の行為でもあるのです。わたしを愛する人はわたしの戒め=父の教え=トラーを守り生きる!とイエシュアが言われた意味を理解していないのだと思います。イエシュアが言われる教えとは

100%父の教え=モーセの五書=トラー=婚姻契約に記された生き方の事だからです。異邦人思想で異邦人の頭脳、耳で聖書に書かれた言葉を読んでいたら、イエシュアが何を言われているのかの意味が見えなくなります。古代ヘブライ人がイエシュアの言葉を聞いて理解した通りを読み取らなくてはならないのです。

 

神に言われている事を知らなければ、神が伝える意味、教えが

理解出来ないし、分らないのです。罪の詳細も分からないのです。知らなければ神の前に罪、汚れた行為をしていても、全く気が付かないのです。罪であると言う意識に上らない時には、

その行為は普通の事となんら変わらないと思う。でも放射能の様に匂いも色もしないその中を歩く危険と同じ事が起きるのです。

 

そして神の伝える真実に気がつく迄は、神の伝える意図がよくは分からないままになるのです。

これは、私自身もいやと言うほど体験して来ましたら、そう言う

事が出来ます。

神の言葉は偽り、誤りのない完全な言葉であると言いながら、

実は神の言葉は不完全で歴史の途中で破棄されたと言う統合失調症を生み出す様な大矛盾の分裂思想を疑いもなく神の正義だとして語り、人にもそう伝え、イエシュアが来られて以降別の教えが出現した!神の古い言葉は無用だ!と信じてそう実行しているのです。

それは神の言葉は福音書以降も100%モーセの五書の父の教え=婚姻契約しか記されていないと言うことに全く気が付いてないからだと思います。なぜ気が付かないのか?聖書の最初の部分に書かれた75%を書かれている意味通りに学ばないからです。

そして人が作った神学で神の言葉を曲げた教えを聞き続けるから余計に神の伝える真実が見えなくなる、それが原因なのです。

 

詩篇119章は詩篇の中で一番長い章ですが、この中には、

トラー=神の教え、言葉=モーセの五書に記された教えへの深い知恵、賛美が記されているのです。読んで見れば分かります。

神の言葉は完全であり、異邦人が言う様に途中で変化、中止、

変更になどなる様な性質ではない、それを言うなら神が途中で

変身した、いやデイスペンセーション神学は七へんげの7つの顔を持つ、7つ別の違う教えを時代ごとに語るトランスフォーマーの様な神像を語り、それは聖書に記されているイスラエルの神=イエシュアとは違う性質の神像なのです。怒りの神=怒りのイエシュア、恵の神=恵のイエシュアを異邦人神学は語っています。

でも神は神の言葉をどう人に解説していますか?

 

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

詩篇19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 
聖書には、神のシャバット(安息日)は第七日目であるとしか記されていません。どんなに人が上手い解説で頑張って日曜日が主の日であると主張しようとも、シャバットが日曜日に変化した
記録は1つもありませんし、そんな事神の前に天地がひっくり返ってもあり得ない事なのです。私は信じた最初何も頭脳に違う教えが入ってない頃、どうしてクリスチャンは聖書に書いてある事とは違う事を信じて実行しているのだろう?と、その事に単純に不思議に思って質問しました。答えは、定番の”復活した日が日曜日だから日曜日に変更になった”と言われました。変更になったと言うのは、神ではなく、人間が変更した!と言う事なのです。事実そうなのです。ローマ帝国の迫害により、異邦人クリスチャン達は神の教え=モーセの五書とは違う教えを生きなくては殺されてしまう、迫害されてしまう政治的圧力をかけられて、徐々にモーセの五書の教えと決別し、ユダヤ人イエシュア信者とも決裂し、4世紀以降には完全に決裂し、新しい宗教=ローマ・カトリック教を信奉する様になったのです。それが西洋宗教の始まりなのです。ヘブライとは違うと分かると思います。見た目にも。
4世紀以降、ユダヤ人イエシュア信者に付いて語られる事はなくなり、ユダヤ人はイエシュア信者もユダヤ人もイスラエルから
追い出され、世界の四隅に散って行った離散の歴史が又繰り返されたのです。

でも、ユダヤ人が世界の四隅に散っても、トラーをどの国でも

しっかり学び続け、そしてユダヤ人イエシュア信者達もイエシュアイエシュアを通して贖われた人、新しく創造された人としての信仰を次世代へ伝え続けて行きました。その痕跡は過越の祭の晩餐の儀式の中にも顕著に生きているものなのです。

 

そして今世界が大きく変わる時神の言葉を丹念にヘブライ語で学び続けた人達、ユダヤ人イエシュア信者達がイスラエルに帰還し、1世紀の様に今多くのユダヤ人もイエシュアがタナックに記された約束の救い主である事に気が付くと言う事が起きているのです。同時にヘブライ聖書、タナックを知らなかった多くの異邦人も同様に聖書に記されているのは偽りの無い、誤りのない、変化の無い完全な神の言葉である!と言う事実に気が付き始めているのです。

 

以前はヘブライ聖書から神の言葉を書いてある意味通り教えられて学ぶなどと言う発想、考え、そしてその様な機会は只の1度も全くありませんでした。でも時代が変わりヘブライ語聖書を正しく学んだ安全な教師達、パウロの様な教師達に学べると言う機会を得る事が出来る時代に入ったと思います。

 

 

 

Shabbat Shalom