聖書に記されているのは、誤りの無い完全無欠、永遠不変である神の言葉であるのに、人の創作した教え〜非聖書的な思想、神学
教理で神の言葉を曲げて、神が伝えている永遠の真理真実を覆い隠し続けて来ました。
半分真実、半分嘘を混ぜ伝えると言うこのトリックはエデンの園の最初から同じ手口、やり方なのです。
全ては神の言葉が語る真実を曲げる、神の言葉に抵抗、反論、
違反するその裏にある”力”は何か?
サタンと言う言葉は、”敵対するもの” 妨害、反対、阻止、抵抗するもの”を表す言葉です。
どうやって神に敵対するのでしょう?神の言葉を曲げる事、それが神に対しての敵対を行動で表す事、一番大きな影響あるもの
だからです。言葉=神。
最初の最初に神の似姿通りに造られた何も欠けの無いアダムと
ハヴァは、神から直接教えられてエデンの園で生きていたのに
神の言われた言葉とは違う声、思想に聞き入りエデンから吐き出されてしまったのです。エデンの地が彼らを吐き出したのです。
聖なるものと、そうでないものが交われない事を教えているものです。
ここで分かる通り、全ての問題の根は、神の言葉を曲げて違う事を混ぜて、神の言われた通りをしないと言う事から発しているのです。
そしてエデンから追放されたのは、神が怒って彼らを追い出したのではなく、神の言う事とは違う事をし、死を取り込み、自分のやった事の結果、エデンに属さない状態になってしまい、エデンから吐き出されてしまったのです。
彼らがエデンの住まえる状態では無くなった、本来の状態では
無くなってしまったらそのままではエデンには住める状態では
無くなってしまったからです。
命の木からずれた状態のそのまま食べたら危険!だからでしょう。朽ちる体のまま永遠に生きたら、永遠に苦しんでしまうから。
死とは単に肉体的な死ではなく、神との本来の関係、人と人との本来の関係の世界が切り離されてしまう事でもあります。
誰かと断絶して話す事もない、関われない、そう言う状態を死んだ関係と呼ぶ様に、神がデザインされた本来の関係の実態から
切り離されて”隔離” ”別離”の世界に飛び込んでしまう事です。
肉体的にも死んだ人とこの世で生きている人とは交流出来ないのです。
この事を良く良くゆっくり考えると、その後の全ての聖書の記述
教えとぴったり並行して重なる真実が書かれています。
イスラエルが神の言葉に反した生き方をし続けた時に何が起きたのでしょう?イスラエルの地から追い出されたのです。
彼らからイスラエルと言う国が奪われたのではなく、彼らの生き様が”聖別された地=イスラエル”から吐き出される様な状態に陥ってしまったのです。
地上で天に実在する神の家の実態、イエシュアの贖い、救い、
そして神の子らの聖別の実態を教えられ、神の臨在が宿る場所を
地上に作られました。それがミシュカンです。移動式神殿、約束の地イスラエルに入ってからはエルサレムのモリヤ山に固定式
神殿が作られました。
神の家の中には、人はそのままで入れない事を様々な事を通して
教えています。神は聖なる方であり人間とは違う存在であり、
人はエデンから飛び出した状態=命から切り離された状態では
神の臨在が宿る場所に入れない事を教えているものです。
神の家に入れない状態と言うものがレビ記に記されていますが、
それらは”安全な方法”を通して、人が死の状態にある事から
命にある状態に戻ると言う事を教えているものなのです。
例えば死体に触れたらその人は汚れるとか、食せる動物でも死体であれば、それに触れて、それらを食してはならないと書いてあります。
汚れると言う翻訳はぴったりではないのにで、意味がそのまま
浮き出て来ませんが、ヘブライ語では”タメ”と言う言葉です。
汚い、きよくないと訳されている言葉は、汚いとかきれいとか
その様な意味の言葉ではないのです。
相応しくない、本来の状態ではない、神の前に出るのに相応しくない状態になると言う意味です。
きよいと言う言葉は、タホーで、これも相応しい、神のデザイン通りにぴったりと言う意味です。だからきよい動物と言う意味も
人が食するのに相応しく神がデザインした性質と言う意味なのです。
神のデザインした元の状態からズレていたらそのままでは神の家
神の宮、神の臨在の中には入れない!と言う事を教えているのです。
本来人は神から切り離される、又は”死”が入り込む状態ではなかったのに、死が入ってしまったのです。それは物理的に体が朽ちるだけでなく、神との関係が切り離される死です。
体、魂、霊とは分かれたものではなく一体だからです。
これはとても深い内容なので、今詳しくは書けませんが、分かり易い所ではこんな事があります。
汚れるとか不浄と言う言葉がありますが、日本人ならなんとなくこんな事かなと理解出来るものがあります。お葬式に行って家に戻ると”汚れた”と言う意識が元にあり、塩をまいてお清めする事をしますよね。
死体に触れる、死に触れると言う事でも、本来の姿とは違う事に触れた人が、そのまま他者に触れたら他者も同時に汚れると言う概念があります。
誰か一人が死に触れたら、周り全体が影響を受けます。
死に触れたら気持ち感情にも影響があるのは、死に出会った人なら体験する事です。物理的霊的精神的な事全て1体です。
元々人は命だけを生み出す状態であったのに、それが断たれてしまったのです。
もっと分かり易い例では、例えば誰か”不機嫌な人” ”仏頂面を
している人”が居たら、周りの雰囲気がどんよ〜りしして、その人の状態により周りが皆嫌な思いをして、影響を受けます。
死が伝達されてしまうからです。本来の性質ではない状態で、
誰かと関わる環境の中にいれば、その一人の人で周り全体が影響を受けてしまうのです。
幼い頃の事で強烈に記憶に残っている事があるのですが、母親が
いつもの笑顔ではなく、ちょっと暗い雰囲気、何が原因なのか分からないけれど不機嫌、怒ってるのかな?と言う雰囲気だったり
又は病気で具合が悪い様子だったら、即座に自分も暗い嫌な気持ちになった事を覚えています。母が明るく笑顔で居てくれるだけで、嬉しい気持ち、安心安定感があった事を今でも思い出します。赤ちゃんも、母親が笑顔で話しかけたら笑顔になりますが、
怖い顔、又は沈んだ顔して言葉もなかったら必ず影響を受けて
いるのです。
人は1体で繋がっているから、互いに影響し合うからです。
エデンの園の入り口にケラヴィムが2人置かれて命の木への道をガードしていました。でも炎を持つケラビムはエデンに戻る事を教えているものです。世界の中心であるイスラエル、エルサレムに都上りをしている祭りもそれと同じ役割をしています。
神の子ら全員が、神の家=神の中に戻る事を表すものが
都上りの祭りで表されています。1つ神、1つ神の教え、1つの
家族が1つになる!エデンに戻る!と言う目で見て分かるもの
それが都上りの祭りでもあるのです。
イスラエルが世界へ向けて地の塩、世の光として選ばれた事も
同じ意味です。
”ここに戻れ!”神の言葉に戻り生きて!と言う事を教える警告、シグナルです。
悔い改めとありますが、その裏にあるヘブライ語の言葉は”戻る”と言う意味です。何に戻るのか?本来の姿=神に創造された
神の似姿通りの本物の自分に戻る、でもこれは自分では出来ない事です。
戻る手段、それが福音なのです。本来の創造主に戻る、本来の生き方に戻る、その戻り方は?イエシュアを通して贖われている実態を信仰により受け取る事です。それが過越の一連の出来事で
表されています。
そして贖い出された人はどう生きるのか?をその後教えられて
行くのです。贖い出されただけでは、新しく生まれたと言う事
に留まります。ずっと乳飲児で硬い食物を食べられない人のお世話になり頼り生きるだけの赤子のままです。でもその後新しく
創造された人が成長する過程があるのです。成長とは、神の口から出る1つ1つの言葉によって生きて学習するものなのです。
トラー=モーセの五書には、イスラエルが辿った道筋を通して
神の教えが何であるのかの全貌が記されています。人の生き方の
全てが記されています。そして、罪の詳細もトラーの中に記されていて、それ以外の聖書の他の箇所、預言書、諸書、福音書以降にはトラーに記された神の教えの抜粋が記されているのです。
だから聖書の土台=モーセの五書=トラー=婚姻契約を捨てたら神が何を人に教えているのかその詳細が見えなくなるのです。
ある部分の神の教えは理解出来ても、その遥か向こうにあるその奥底深い理解には辿り着けないままになるのです。全てはこの
モーセの五書に記された教えを土台に聖書全体で神の教えを語っているからです。
人は永遠をかけて神を知るのに、その神の言葉を捨てるなら、
そこでもうその旅路は挫折してしまい行き止まりになってしまうのです。
5月12日は穂=新しく創造された人の成長を数える35日目です。そして、シャヴオート(ペンテコステ)の祭りは、今年は
5月25日木曜日の日没にやって来ます。そうすると25日日没はシャバット=止まる日であり、次の26日は週の第七日目の
シャバットであり、2日続けて止まる日となるのです。
ペンテコステを祝うなら、それは神の記念日の全てを祝って初めて意味があるものとなるのです。神に贖い出された人が、婚姻契約=トラー=父の教え=モーセの五書を受け取り、イスラエルの
神の家族として生きる!と言う事を決意し神の子らの共同体=
ユダヤ人も異邦人も混じり合った1つの家族としての生き方を
神の家族として神の言葉から学ぶスタートが始まるその祝いが
シャヴオート、ペンテコステだからです。
2000年前に使徒たちが昇天以降祝ったのがこのシャブオートであり、全世界へ神の教え、神の福音が伝えられる幕開けで
あったのが使徒2章に記された都上りの祭りでの出来事なのです。初めて聖霊が降って来た〜と言う祭りではないのです。
神の言葉=福音に応答し、神の契約に参加する事を選んだ、
それらの人達を”残りの民” ”聖徒”と呼び、その群れを集会と翻訳しているのです。その集会も教会も裏にあるヘブライ語は同じ
言葉なのです。カハール ケヒラ、又はエダ=証人。
ギリシャ語でエクレシアですが、同じ意味です。
神の言葉に呼び出された人々の群れです。それ以外の別のグループ、別の家族=異邦人家族など、イスラエルの神の家族の中には種類別人種別カテゴリーなどないのです。
神の言葉は人が個人、夫婦、家族、親族、そしてコミュニテイ
全体で生きる詳細が記されています。
全ての人はイスラエルの神の契約、同じイスラエルの羊の囲いに加えられた、同じオリーブの木に接ぎ木され、同じイスラエルの天の共同相続人になった!と聖書には記されているのです。
どう言う意味でこれが記されているのか、1世紀のヘブライ人の
世界の思索読めば分かる事です。簡単に言えば、2つのグループではなく皆同じイスラエルと言う大家族に加え続けられて行く!
と言うことが聖書には最初から最後まで記されているのです。
続く