神の伝える本来の性質 本物で純粋な神の教えに生きる事に戻る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の記事の続きが未だあるのですが、その前に今日月曜日8日の日没から9日の日没までLag BaOmer、穂を数える33日目としてイスラエルでは火を焚いて祝う風習があります。

過越から、初穂=イエシュア =新しい復活の命に連なった事実を、穂が成長する様子を見ながらシャヴォートの祭りまでを

日々数えて過ごす期間で、今日は丁度穂を数える33日目なのです。

穂を数える?何それ?て思いますよね。過越で処刑され、初穂を祝う日で復活し、その後シャブオートの祭まで弟子達は都に留まる様に言われました。なぜ?都上りの祭、エルサレムの神殿に上り祝う祭は、春=過越、シャブオートの祭、秋は仮庵の祭だからです。過越からシャブオートまで約1ヶ月半以上ですが、現代と違い電車、車で家に帰るのではない、徒歩で旅するので、過越からシャブオートまでエルサレムに留まる人達が居たのです。

 

そして、イエシュア=神が人として常に彼ら弟子達と共に居て、

いつでも助けてくれて助言し、天直送の神の言葉の意味の手ほどきをして教えてくれていた、人としての本来の生き方を行動で

教えてくれた、そんな素晴らしい現実がいきなり消えてしまい、ラビイエシュアがしかも無残な処刑をされてしまった、

その様なトラウマを皆共にいて癒され励まされ、イエシュアが

された意味をはっきり頭脳に刻むためにエルサレムに留まりな

さい、次への準備をするためにそう言われたのでしょう。

 

クリスチャンの世界では、ペンテコステと言う事は少々話題にしますが、それ以外の神が創造された記念日については全く語られる事はないし、もちろん実際に祝うと言う事もしません。

でもペンテコステとは、クリスチャンが定義するところによれば、律法の呪いの古い教え、古い記念日でもう無用、終わったもの?であるのではないでしょうか?クリスチャンの教えの世界の定義によれば、シャバットや過越、仮庵が無用なら、ペンテコステもそれらと同様神の創造された古い?律法の教えの記念日となるからです。過越、シャヴオート(ペンテコステ)、仮庵の祭りが神が創造された3つの都上りの祭り(ハギム)なのです。

 

ペンテコステとはヘブライ語のシャヴオートの祭りであり、

過越から7週間、7回のシャバットを祝い、その49日間は、

復活の命=初穂=イエシュアに連なる=新しく創造された人の

事実を穂が実る様子を見ながら実際に新しい人を生きる事を

する強化週間なのです。復活の日だけ復活の意味を考えて祝うのではなく、ずっと7週間シャブオートまで特別に復活=新しくされた命=初穂が成長する過程を見守りながら考え生きる7週として神がデザインされた特別な時期なのです。

 

イエシュアが復活後弟子達に現れ励まされたのがこのオメルを

数える7週間の間なのです。

 

シャブオートの祭りは、聖霊降臨祭と言う名前の祭りではない

のです。神が与えた正しい名前があるのです。シャブオートとは”週”複数で週と言う名前の祭、過越から7週を過ごして迎える祭だからです。

ギリシャ語のペンテコステは、7週=49日間の後に来るのが

50日目だから、ペンテコステ=第50と言う名前でシャブオートの祭が訳されているのです。

出エジプトした後、奴隷状態から贖われた人達が神の花嫁として

生きる決意をし、そして神の家族がどの様に生きるのかの詳細が

記されたトラー=婚姻契約を与えられた記念日なのです。

これはイエシュアに繋がるどの人にも同様に同じに当てはまり

神が言われた通り代々永遠に祝われるわたしの記念日、

ユダヤ人だけの記念日、祭りではないのです。ユダヤ人の祭りと言われる理由は、主にユダヤ人しか神の創造された記念日を祝わないから、ユダヤ人だけが主に特別に祝うから、ユダヤ人の祭りと考えてそう言ってるだけなのです。でも本当は、神の子ら=

イエシュアに連なる全ての人が代々永遠に祝うと神が人に伝えている記念日はレビ記23章に記された記念日、祭りなのです。

だからイエシュアが再臨されたら、神の記念日=レビ記23章を世界が祝う様になる!と預言されているでしょう。それを寓話、

比喩、霊的なんて言う解釈をしたら、事実が見えなくなります。

未来預言は実際の未来にイエシュアがエルサレムから統治し

世界中がエルサレムに神の祭りを祝うために上ってくる!と

預言されているのです。

 

シナイ山での出来事出エジプト19章を読めば、使徒2章は、

同じ祭りを祝っている事が分かると思います。

 

私は以前使徒2章を読んでも、この祭りが神の都上りの1つであり、春の過越の祭から始まる春の祭りの最後である事など言う事実に全く気が付かないまま、聖霊が初めて降臨したのだ〜、それまでは人の中に聖霊は住まわなかったと教えられただけでしたがそれは聖書に記された事実とは全く違う教えです。

聖霊=神は最初から人の間に住まう事がタナック=モーセの五書

預言書、諸書に記されているからです。神の名はイマニュエルと言う名でも表される通り、”わたし達と共に住まう神”と言う名でも分かるでしょう。

 

出エジプト19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。

19:17 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。

19:18 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。

19:19 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。

 

使徒2章で、彼らはシナイ山で実際に契約を受け取った時の

再来であると理解したでしょう。神が直接降りてきて、直接語られたのです。契約はイスラエルだけではなく全世界の民族へ、

エルサレムから同じトラー=神の教えが大々的に伝えられる幕上げだったのです。

 

シャブオートの祭りは実際に地上で起きた出エジプトの一連の

出来事、福音、イエシュアの業を表すものであるのです。

そしてシナイ山では直接天が山頂に降りてきて、イエシュアが

来られた!と言う事を示唆している事が書かれています。

 

 24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。

24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、

あなたがたと結ばれる契約の血である」。

24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。

24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。

24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 

10節にあるイスラエルの神に足がある?神を見て飲み食い=宴会=祝宴した?それはイエシュアでしょう。そして天が直接降りて来た、天の御座が書かれています。契約の契りが成立し、親しい間柄であることを祝う”祝宴”=飲み食い付き物、食べて、飲んで喜び祝うことの幸せを私達も体験しているから分かるでしょう。ヘブライの世界では親しい間柄でなければ、食事は一緒にはしないのです。

 

シャブオート=ペンテコステを祝うと言う意味は、彼らは、

毎週第七日目にシャバットを祝い、新月を祝い、過越、種無し

パン、初穂を祝い、穂を数える7週7回のシャバットを経て、

春の最後の祭り、シャブオート=ペンテコステを祝うと言う

神がデザインした記念日通りを祝っていたのです。

聖書に登場する人達が祝っていたのは、ローマ・カトリックが作った教えや記念日ではなく、イスラエルの神が創造されたオリジナルの記念日=レビ記23章です。勘違い、偽情報の誤解を全部解かないと神の伝えている真実が覆い隠されて見えなくなった

ままになります。

 

神の記念日のペンテコステだけを強調しても意味がないのです。

それは全楽章フルオーケストラで、全部の楽章を漏れなく演奏して、初めて作曲者が意図した楽曲全体を聴きその作品を理解する事が出来るのと同じです。しかも楽譜と違う事を勝手に演奏したり、指揮者が指示しない時に勝手に自分の楽器を奏でたり、楽譜に無い事、楽譜に書かれていない楽器で奏でても、作曲者の作曲

されたオリジナルは音として現れ出て来なくなるのです。

勝手にしないで!と作曲者やオリジナルクリエーターは言うのです。それを神の言葉に対して人が勝手に手を加えて変えているのです。

 

神の記念日は、福音を網羅するもの、イエシュアがされた業を

表すものであり、実際に地上でそれらが表される預言的祭りで

あるからです。

その中心は、関係の世界なのです。人の本来のデザイン、神と人との関係の中に神のデザイン通りを生きる事を教えているもの

なのです。全ては本来の姿、関係の修復をさせるものなのです。

 

春の祭りは実際に地上で既に実現した出来事です。

過越の祭、エジプト脱出=神が支払われた代価により偽の主人の奴隷から買い取られ解放され脱出した、実際に2000年前イエシュアが過越で屠られ、子羊の血により代価を払われている証明を地上でもされたのです。そして初穂=復活の命が与えられている事実も同じく種無しパンを食べる7日間の中で起きた事実です。

種無しパン=マッツア=要らないものが削ぎ落とされた=新しくされた人の事実を表しているものです。

そして、新しく創造された人を生きる強化週間の7週、7回の

シャバットを過ごし、シャブオートの祭りを迎えるのです。

この7週の間、出エジプトし、シナイ山に辿り着く旅路を歩いて、脱奴隷状態をした事、子羊の血により死を免れた事など

実際に彼らイスラエルと異邦人は体験した時期と重なるのです。

シャブオートの祭りでは、シナイ山で実際に婚姻契約書=トラー

石の板が与えられたのです。

 

これらは地上で全て成就し、聖書に記された出来事とぴったり

マッチしたものなのです。

 

1世紀後半、ローマ帝国の迫害に屈して、異邦人クリスチャン達は、モーセの五書を捨てます!と宣言し、黙示録にある警告にある通り始めの愛=トラー=婚姻契約=モーセの五書を捨て忘れ、そしてユダヤ人イエシュア信者とも完全に決別し、パウロの様なトラー教師とも縁を切り、神の教え=トラーを生きる事、神の記念日、シャバット、祭りを神が伝えた通りに生きる事を意図的にやめたのです。そして西洋人が考える教えの添加物満載の宗教の教えを聞いて中世の暗黒時代を迎えた、その後もオリジナルの神の言葉に完全に戻る事がないまま、同じ宗教の教えの根を引き抜かない、切り取らないまま現代に至るのです。

それが2000年近く今に至るまで続いているのです。

だからヘブライ、オリジナルではなく、西洋宗教と言うのでしょう。神の言葉は西洋宗教の教えではなく、ヘブライ思索のヘブライの神、イエシュアはユダヤ人でありローマではないのです。

 

神が神の言葉を終了した!と言う嘘を発言するのはやめて、

異邦人がなぜ神の言葉を律法と言い、生きる必要がないと言い、そしてモーセの五書、トラーを生きる事が悪い事であるかのごとく語るのか、その本当の理由は、ローマ帝国による迫害とその

様な教えを西洋教父達が編み出したからと言う本当の事を言わないとならないのです。

何をどう生きようとその個人の選択ですが、神が言ってもない事を神が言った、神が呪いの律法を破棄したの〜などと言い続けるのは本当にやめないとならないのです。

 

神に出会おうとしている人達、神の言葉の真実を知ろうとする人達へ、神の言葉の真実を知る妨害をしてしまうからです。神の前に偽証、他者へ偽情報を伝える事は神が伝えている罪だからです。わたしの顔の上に別の顔を置くなかれ!とはまさに人の作った教えで、神の言葉の真実を覆い隠すなかれ!と言う意味なのです。

地の塩世の光である人は、神が伝えた通りを正確に反映する、

天の現実を地上に於いて言動、行動でクリアーに反映させる役割を与えられているのです。

 

でもこの終わりの時代に、多くの異邦人が聖書に記された事実に

気が付いて、過越や仮庵を祝う、シャバットを祝う、ショファーを吹く事をする、そんな事30年前には聞いた事がありませんでしたが、今や多くの異邦人クリスチャンも、本物で純粋な神の言葉に戻る!と言う事をしているのです。神の伝える本物、真実に生きる事に自然と惹かれる、それが人の本来の性質だからです。