聖書に記されている事実に基づけば、イスラエルの神は神の子らを始めから2つの分裂したグループに分けて造られていはいない事が記されています。一人の人から全ての人が出現したとあるからです。聖書には、ユダヤ人と異邦人、ユダヤ人と異邦人教会と言う2つのグループなど記されていません。
アヴラハムでさえ、元々のメソポタミアの都市、ウルの地に生まれた父親は異教の神々を礼拝する異教徒の家に生まれた生粋のの”異邦人”だったと書かれています。
そして元々聖書には教会と言う言葉なども存在していないのです。
教会と聞くと即座にイエシュア昇天以降に違うグループ、新しい教えを生きる人、初めて聖霊が内側に与えられた人のグループが
登場したなどと考えていませんか?それは聖書に記されている
事実ではないのです。最初の最初から贖い救いの事実は与えられ、同じ福音=イエシュアの業により義とされ聖霊が住まう事実がタナックの至る所に記されているのを学ばないから知らないだけなのです。
1世紀以前の古代の人達もタナックから、約束の救い主、同じ福音、同じ聖霊を受けていたのです。読めば分かるでしょう。
特別な人だけが聖霊を受けていたと主張がありますが、聖書には
全ての人の事が記されていないから、記された人=特別な人だけ
昇天以前は聖霊を受けていたなどと解説しているのです。
最初から福音は同じ!と書いてあるのです。
救いが違う方法が違う!と思うなら、聖書だけに戻り書いてある
通りに読み直さないとならないのです。イエシュアが”わたしが
道であり真理であり命である。わたしを通してでなければ誰も
父の元に来る事は出来ない”と言われたのです。道は1つとクリスチャンも人差し指を天に指して言うでしょう。1つ、他に方法は無い、古代は救いがないなどと言う場合、それは聖書=タナック
モーセの五書、預言書、諸書に何が書いてあるのか知らないから
そう言うだけなのです。
神は永遠から永遠に同じ、イエシュアも永遠から永遠に同じ、
神は一体であり、イエシュアは地上に来られる前は怒りの神ではなく永遠から永遠に赦しと恵、憐れみに富んだ神とシナイ山で
紹介されたそれが本物のイスラエルの神像なのです。
イエシュア〜父=一体と言う事実から聖書に書かれた事実を読めば、摩訶不思議な事が書かれていますが、父=子一体で分裂していないのです。怒りの神、恵の神、怒りのイエシュア、恵のイエシュア?そんな事聖書のどこに書いてあるのでしょう?
教会と言う人が作った言葉は、本当に紛らわしいので言い換えた方が良い言葉なのです。教会とは、異邦人クリスチャンを指して便宜上使っている言葉ですが、聖書にない言葉です。
元のヘブライ語やギリシャ語の翻訳の言葉を全く反映しない完全なる造語だからです。
造語、人が勝手に作ったヘブライ語(ギリシャ語)の元の言葉の
意味を全く反映していない不適切不正確不誠実な翻訳造語です。
車と言う言葉を、机と言う言葉で言い換えるのと同じくらい意味がズレている言葉です。教える会?元のヘブライ語、翻訳のギリシャ語では”神の声に呼び出された人の群れ”と言う意味です。
教える会などと言う意味など元のヘブライ語の”カハール”
”ケヒラ”には全くないのです。
イスラエルの神の大家族は初めから1つ、ユダヤ人異邦人混合の
集合体である事が創世記から黙示録まで同じ意味で貫かれて記されています。翻訳と言う反逆が本来の言葉の意味を完全に覆い隠し、イエシュアが来られた前後で全く違う教えが出現し、全く違うグループ、イエシュアを信じるグループ〜異邦人グループが出現したと考えてそう人に伝えて続けていますが、それは聖書の事実とは全く異なるのです。
最初から神の家族は1つ、その継続だけが聖書に記されている
事実なのです。
翻訳自体が難しい事もありますが、翻訳だけ読むと裏にある言葉の意味が何かが全く見えない場合が多いのです。深い意味や
翻訳からは全く見えない深い真理が記されているのです。
例えば、日本語でもそうですが、言葉を聞いただけでどんなニュアンス、強度、強調、意味があるのか理解出来るでしょう。
どんな言語でも同じですが、そう言うものは翻訳では見えないのです。又詩篇23:6にある、”恵が伴うでしょう”と訳されている箇所がありますが、英語では mercy shall follow me,
恵が自分をフォローして来ると言う言葉で書かれていますが、
ヘブライ語ですと、こう言う感じの言葉なのです。
”執拗に追いかけて来る”子供から絶対目を離さない母親が子供の後を注意深く1秒たりとも気を抜かないで守っている、その様な
度合いの言葉で書かれているのです。
でも翻訳ではそれが全く見えないのです。
又別の極端な例を挙げてみます。例えば一般の翻訳でも、原書など読めないから翻訳書を読んでいるのですが、原書に記された
作者が書いている事、何を語っているのか、その事実が見えない事が沢山あるのです。
又は酷い例では、クリスチャンの世界で英語版の日本語翻訳で
ざっくりとある箇所を抜かしたり切り取ったり、そんな事をされていても、原書に戻り読み確認出来ない限り、その様な改ざんには全く気が付く術はないのです。
聖書翻訳の中でも、元のヘブライ語を全く反映しない別の言葉
が使われているものもたくさんあるのです。その代表例の1つ
が”律法”と言う言葉であり、この言葉により人の中に神の言葉に対するズレた固定概念を植え付け続け、プラス人の編み出した
神学で神の言葉に敵対する意識を持たせられてしまっているのです。
律法と言う言葉は誰かが作った造語ではなく普通一般に使われる言葉ですが、神の言葉に対して決して使ってはならない不適切な言葉なのです。
ヘブライ語のトラーと言う言葉に対比して翻訳する時に使われていますが、神の言葉に対して律法と言う意味の言葉など聖書には1度も使われていない言葉なのです。
クリスチャンの世界では、便宜上特に創世記からマラキまでを
律法、又はモーセの五書を律法と呼んでいますが、その言葉は
正しく神の言葉を反映していない大変不適切な言葉なのです。
何度も説明していますが、この律法=ノモスと言うギリシャ語訳
ノモスと言う言葉自体が多様性のある言葉であり、一つの言葉で別の事柄をいくつも表せる言葉なので相当紛らわしい言葉なのです。
ヘブライ語のトラーとは違うギリシャ語なのです。
罪の法則、この世の法則、物事の法則、司法の法則などを全部
ノモスと言う言葉で一絡げに充てがわれているのです。
そのノモスと言うギリシャ語を、ヘブライ語のトラー=神の教え、インストラクションと言う言葉を訳するのに使ってしまったのです。そしてノモスと言うギリシャ語翻訳を、英語ではLaw、日本語では律法と訳して、ギリシャ語翻訳の日本語訳も全く元の意味、”神の教え、インストラクション”と言う言葉を正確に反映しない、律法と言う言葉で訳されてしまっているのです。この様な誤解は言語の事実を突き止めて行かない限り見えない事実なのです。聖霊により、律法と言う言葉の裏にあるギリシャ語は
ノモスと言う言葉で、その裏にあるヘブライ語はトラーであり、そのヘブライ語の意味は、神の教え、インストラクションと言う言葉だなどと、律法と言う翻訳を読んだだけで聖霊により示されましたなんて言う人は一人もいないのです。
聖霊に導かれれば分かるから聖書など読まなくて良いと言う主張は、神のデザインを全く無視しているのです。それを言うならば、神の言葉を正しく把握して初めて可能なの事なのです。
言葉を通して相手に意味、意志を伝達する方法を神がデザインし与えているのに、その言葉が意味通りに伝わらなければ、正しく理解出来ないのです。神の言葉を捨てたら、神に何を教えられているのか大幅分からなくなります。その代わりに自分の悟り、自分の発想、自分の考えを編み出す、それが宗教の教えなのです。
神の言われた言葉、教えではなく、人の教えを作り続けて伝えてしまう。
聖書に書かれている本来の意味を知って初めて何を伝えられているのかが深く深く見えてくるからです。
それならば、聖霊に導かれれば何も学ばなくても多数の言語を習得出来る、数学や物理、化学も、医学も練習しなくても手術が
出来る様になる、スポーツも楽器も練習しなくても上達出来る。なんでも理解出来ると言うのと同じ事を言っているのです。
不思議なのは、聖霊に導かれているはずなのに、聖書に書いて
ある通りの事実に気が付けない!これは、聖書に書いてある神の言葉を正しく把握していないことから起きるのです。神の言葉に人の教えと言う邪魔な障害物、覆い、幕がかけられているからです。特に長い年月違う教えに染まった場合には、偽情報から
正しい情報を発見する事に移行するのが難しいのです。
頭が固いとは、固定概念がしっかり脳回路に定着しているからです。
この様に聖書に記されている翻訳だけでは、元の言葉の意味で
書かれている本来の意味が読み取れないのです。だからその裏にある本来の意味の言葉を正しく紐解いて理解する、教えられる
必要があるのです。当然の事なのです。そうすると、翻訳を読んでいても本来の意味をはっきり理解して読めるので、一般に見聞きしている言葉から得ている概念とは全く違う事が聖書には記されている事を発見する事が出来るのです。
様々な誤解の解釈が神の言葉=聖書を正しく理解する事を妨害しているのです。人の思想により神の言葉が曲げられ、勝手に神の
言葉が昇天以降に終了になった、異邦人には関係ない教えになった、ユダヤ人だけやってれば良い教えだ、などなど聖書とは全く関係の無い教えを異邦人も編み出して2000年近く語られそれが実践されている事にさえ、聖書を読んでも全く気が付く事が出来ないのは、進化論を信じる思考回路と全く同じ事なのです。
考えれば嘘だろう〜と分かる事なのに、周りが皆その様に発言し
その偽情報に常に触れているので洗脳されてしまうと言う事が
起きるのです。
申命記の中にこの世界の終末が書かれている事など気が付きますか?モーセの五書にイエシュアが記されている、同じ福音が記されていると気が付きますか?1世紀の人達は福音書以降など知らない、読んでさえもいないのです。彼ら、残りの民は約束の救い主の到来、復活の命、イエシュアがエルサレムから世界を統治するなど何によって知っていたと思いますか?
イエシュアが言われた、モーセの五書預言書、諸書にわたしが
記されている!と言われた通り、預言者達が伝えた書き記した
神の言葉から、同じ福音、同じ贖い、救いを知り同じ聖霊を得ていた人達=残りの民が居たのです。
アヴラハムは、イエシュアが来られる前からイエシュアを知り
イエシュアの業を信じ、信仰により受け取り聖霊を内側に受けて
生きていた事を、イエシュアも語ったでしょう。ヨハネ8:56
アヴラハムの種から、神の家族となる人が出ると言われたのです。でもそれは、肉の生まれによるものではないのです。
アヴラハムを通して与えられた祝福は、世界の全ての民族へ与えられるもの、アヴラハムが世界の民族の父と神が言われた理由は、肉の生まれではないイエシュアにあって新しく創造された人々〜それがアヴラハムを通して世界の民族が祝福されると言われた意味だからです。ユダヤ人も異邦人も関係ないのです。
イスラエルが選ばれた理由は、彼らだけが特権を与えられ祝福されるためではないのです。同じ贖い、救い、同じ福音、祝福を
全世界へ伝える、地の塩、世の光の役割をする代表として選び出された!だから、イエシュアがまずその代表=大家族の長男の役割をしている人達、最初から神の教え=トラーを与えられて教えられて来た人達の元だけに遣わされた!と言われたのです。
しかもその代表者は神のトラー=教えを曲げて世界へ伝えてはならないから、とても厳しい訓練を通った事がタナックには記されているのです。お兄ちゃんがコケて他の人達を誤りに導かない様に徹底的に教えられる必要があったからです。
続く