創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
創造の最初から、神は時を聖別された事実が記されています。
神は時と場所を聖別しています。シャバットの意味を最初に神が
教えています。シャバットは止める、とまる、やむ、停止する
休むなどの意味がある言葉です。
全ての業が完璧に完全に完成し歓喜=エデンの実態が地上に現れ出た事実を、全創造物が全て揃って、人と神で祝った人類歴史最初の日、それがシャバットなのです。
聖別された神の時の詳細は、レビ記23章以降に記されています。その前にも、神が聖別された”時”の中心、代表格=シャバットに関して、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に多く記されています。
なぜシャバットが神の記念日の中心、代表格であるのか、これは神が創造された全ての中で神の意図通りを人が生きる事を表されているものであり、福音の中心であり、神が与える安息がこの日の中で教えられ表されているものだからです。
聖書に”神が与えた安息”とは、エデン〜神の中〜喜びに住まう
人本来の性質を生きる事が語られているのです。
そして神の創造された記念日、祭りは全てシャバットが中心、
シャバットで始まりシャバットで閉じ、そして第七日目をその祭りの中で祝う、こう言うデザインの性質だからです。
そしてシャバットは一年に渡り祝われ、新月、春と秋の祭りを
祝う、これが神が創造された神の記念日なのです。
英語翻訳でも直接の言葉シャバットは、172以上記されています。神の言葉は最初に記されている事から、途中で意味が変わるなどと言う事はないのです。
人間の書物でも書かれている内容、テーマ、意味を途中で著者が変更する、そんな事は有り得ないでしょう。
何を言おう伝えようとしているのか不明になります。
教科書の上巻で習った数学の内容が下巻では変化して違う内容になるなんて事あり得ないのです。
一貫性の無い教えは信頼に値するものなどでは無いのです。
聖書の事実に基づいた正しい思考=神の言葉は永遠と神が伝えている言葉=聖書は聖書で読み解き、聖書を人の思想=非聖書的な教え、神学、教理などで読み解いていたら、その様な聖書解釈は真実ではない、神の言葉、教えではなくなります。
神が語られた言葉を永遠に誤解し、神に何を教えられているのか本質が見抜けない状態に留まってしまいます。
神の臨在が在る場所、人も神の臨在する場所=宮であるので、
同様に神の目的通りに神の上に取り分かたれ聖別された生き方を人がする事が最初から記されています。それが本来の性質、神の
デザインされた人間の本質だからです。
神の宮=ミシュカン、その中にある物なども聖別されていて、
動物も聖別されているのです。聖別〜神の前に捧げられるに相応しい動物、人が食せるタホー=きよい動物です。
聖別と言うと、綺麗とか汚いとか想像しますが、聖別のヘブライ語の意味は、神の目的通りに分かたれていると言う意味です。
だから昇天以降今はどの日もシャバットであるなどと主張する
異邦人の解説は、完全に神が伝える聖別の意味を無視した勝手な解説である事は聖書に照らし合わせたらはっきり理解出来ます。
聖別の詳細は最初の数行には全て書かれていませんが、トラー=モーセの五書の中で、聖書全体を通してそれらが解説されています。
第七日目を指して聖別されたとある意味は、神はこの日を神の
特別な目的通りに他の日と区別して分かたれた証拠がはっきり
記されているのです。
神の創造された記念日、教えに人間が手を加えたり、差し引いたり、又は神が伝える事を変えたりしても、それは神の前には何の意味も無い事であり、人間が勝手にそう決めてそう実行しているだけになるのです。
事実異邦人が1世紀後半以降神の言葉を差し引いて、勝手に神の聖別された日を取り消して、別の日に変更してしまったのです。
それが現在に至るまで、異邦人クリスチャンの中で人により変更された週一度の聖別された日を伝統で継承して実践しているのです。
異邦人の世界では、神がそう言われたからそうする!と言う基本的な事がすっかり置き去りにされ、神の言葉を抜いてしまい、
人が考えた教えにすり替え、それを人が認証して実践すると言う事に変化してしまったのです。
でも神がこの聖別された日に特別な意味で出会うと約束され、
この約束は永遠に変わらず今日も同じなのです。
神の聖別された日は、神の子らに取り神との関係にある表向きに見える”印”結婚指輪の様に誰にもでも分かるものであるのです。
神が神ご自身が聖別した日に、シャバットとして祝い、神が特別に語られると言われたのです。
神がこの日に特別な出会いをすると言われたら、それは神の言葉を聞いてそれを実践する人には分かるけれど、実践しない人には
分からないことなのです。
イエシュアが水瓶に水を汲み、婚姻の祝宴を仕切るシェフの所に
持って行ってと言われて何が起きるのか訳が分からないまま、
イエシュアが言われた通りにした人達は、その水がワインに変わった奇跡を体験したのです。でも水瓶を運ばれたシェフはそのワインがどこから来たのか知らない、水がワインに変わったなどと知らない、考えてもいないのです。
でもイエシュアに言われた通りにその水瓶に水を満たした人達だけがそのワインがどこから来たのか知っていたのです。神の言葉からそのワインが出現した!と言う奇跡体験を神=イエシュアが言われた言葉を実行した事でその人達は実体験したのです。
この事に注目してみたら見えます。神の言う通りに実行して、
初めて神が言われた意味が分かってくると言う事。そして世界の全ては神の言葉で出来ていて、人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きるとある事が聖書の最初にはっきり記されています。これが人の成り立ちです。神の言葉を捨てたら、栄養失調でスカスカ、又は添加物満載を取り入れたら不具合になります。
聖別された生き方とは何かが、最初から神により教えられているのです。
創世記2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
最初の最初、人が神に造られて神に言われた事は何でしたか?
”食べる事”です。これが神の聖別のインストラクションです。
その細かい詳細は後になりトラーの中に記されています。
レビ記11章に人は何を食べて、何を食べないのかが記されています。これは今も変わらず同じ教えです。
人間てベジタリアンじゃないの?て考えるでしょう。
命の木、知識の木=ヘブライ語では1つの木として書かれていますが、木の実は植物だろう〜と考えますよね。でも神は最初から
人が食する動物を聖別して造られている事実が記されています。
動物はエデンの園を出た後造られたのではないからです。
最初に全部の説明が書かれていないだけなのです。
神の言葉を食べて生きる〜これらが命の木、知識の木として
書かれていて、人が食する食せないの動物に関しての詳細は後で記されているだけです。
”木”と言う事を通して教えているのです。木=神のトラーをも
表す言葉です。木=救い主を表している言葉でもあるのです。
神が言う通りを生きる!人は生きると言う事がその言葉の中に
凝縮して書かれていて、その解説〜人間が生きる詳細の全てが
トラーの中で記されているのです。
神は神が創造されたものの中で人がどの様に生きるのか教えて
います。神が造られた世界をどうガードして治めて生きるのか
人は神から1つ1つ直接教えられたのです。
これこれは食べて良い、これこれは食べてはダメ!これが神が伝える聖別です。
あなたは何々を食べる様に造られている、あなたは何々を食べてはならない様に造られている。そんなに難しい事なのでしょうか?創造主がデザインした通りを人が神に教えられているだけ!
神が言われた通りの生き方、それが聖別された生き方なのです。
その中心は食べる事です。人の命を繋ぐもの、物理的霊的と分けるから見えないのですが、神の前にする全ては神の前に聖別された神の目的通り分かたれた生き方なのです。神の言葉以外のもの
を頭脳に取り入れる事も、自分を不具合にし汚染させる要因です。
神の言葉を食べて生きる。アヴォダと記されているヘブライ語を礼拝と訳しますが、人が生きる全て!その全てがアヴォダなのです。
神のデザインされた通りとは違う事をすれば、当然不具合が出ると言うのは簡単に理解出来るはずです。車にガソリンではなく
水を入れる、電動自動車にガソリンを入れても走らない、その車を作った人のデザイン設計通りに運転手は取り扱えばちゃんと
走るのです。それと同じです。神のデザインされた事とは違う事をすれば不具合が生じるのです。
神が言われたらそうであると認める事をしないと言うならば、
それは基本的なズレをしているのです。ズレとは神の前にズレた生き方、罪です。知らない間に罪、ズレをしている事、それも聖書には記されています。知らない=神が教えている事が何か分かって無いことからも起きるズレです。神が言われる言葉を知らないなら何が神の伝えている罪なのかも分からないのです。
今世界では1世紀の様に、多くのユダヤ人がイエシュアはタナックに記された救い主であると気が付く事が起きています。
特にこの3年間の世界に起きた出来事、行動支配による不自由さ
の中で、救い主を求める!と言う事が起きているのです。
この時代に生まれたと言う事は、自分の命が自分の母の中に植えられたと言う事実は、私達永遠の中に神の中に既に選び取られて
聖別されて、この時代に生まれたと言う神の聖別された特別な目的があるのです。
闇の世界で”光”としてイエシュアを表す役割をイエシュアに属する一人一人が与えられていると言う事だからです。
そして多くの異邦人も同様に、1世紀のイエシュア信者たち、
ユダヤ人達イエシュアや弟子達が生きていた教え=父の教え、
トラー=モーセの五書を永遠不変の神の言葉である!と言う
その事実に同様に気が付き、神の教えに戻る!と言う現象が起きているのです。
神の本物の教えに戻る!1つに戻る!と言う現象が起きているのです。その戻る実態は、ローマの教えではなく、純粋な神の教え
トラー=父の言葉=モーセの五書に記された永遠不変の神の言葉に戻る事が起きているのです。
ある時期ふと気がつくのです。聖書に書いてあることが、本当の真実ではないのか?と。クリスチャンも聖書は誤りのない神の
言葉と言いながら、実際には神の言葉をその様に取り扱いせず、古い箇所は律法で廃れたと言いながら、発言と実践が矛盾していることに全く気が付いてないのです。
聖書に書いてある通りに読めば、人が作った神の言葉を否定する教えと違うので矛盾、誤差がある事に気が付くのが当然ですが
気が付かないのです。
続く