イエシュアが説明した”先祖の言い伝え”とは、当時のユダヤ人達が考えた教えであり、モーセの五書の事ではありません。
でもクリスチャンの間では、先祖の言い伝え=古い律法=モーセの五書トラーのことであると疑いもなくそう信じて語られてしまっているのです。
その様な聖書の勘違いした間違った読み込みが人の教えを継続的に編み出して行く、本当の要因、理由、しかけなのです。
あなた方は何々と聞いている〜先祖の言い伝え=神の教えではない、人が作った教えの事をイエシュア が話しているのです。
だから、イエシュアがあなた方は”モーセの五書=トラー=父の言葉を聞いている”などとイエシュア が話しているなどと決して勘違い誤解してはならないのです。
イエシュアが父の教え=モーセの五書を否定しているのだ!などと言う主張が聖書に照らし合わせたら辻褄合わない事が見えますか?
なぜならイエシュアは父の教えを伝えに来た、父と私は一体である!父が言われた事以外語らない!何も出来ない!と言っているのは、父の教えに反した事などしない、父の教え通りをして生きて伝える!と言っているからです。
異様人だから、分からない!と言う事があるのです。
ユダヤ人が”父の言葉”と言うのを聞いたら、それはモーセの五書であるとはっきり理解するのです。父の言葉=モーセの五書=
シナイ山で与えられた婚姻契約!と考えられるけれど、異邦人は生まれつき神の言葉に馴染みがないので、父の教えと言う言葉の意味が見えないのです。
異邦人はイエシュアが父の教えを破棄するために来たのだ〜などと聖書に書いてもない事を違う意味で読み込みをして、マタイ5章に記されている事とは真逆の解説をし、イエシュアが神の言葉を破棄しに来たなどと思うなかれ!と書いてあるのに、そして
成就と言う言葉は、終了した!などと書いてある意味とは全く違う勝手な憶測、誤解した解説を異邦人はしているのです。成就=終わったと言う意味ではないのです。
ヘブライ語そのものの意味だけでも、成就とは固く確立すると
言う意味なのです。イエシュアが使われたこの”破棄する、成就する”と言う言葉は、当時のユダヤ人のラビ達の世界で使われた
慣用句なのです。破棄=モーセの五書を正しく理解していない、解説しない、成就=モーセの五書を正しく理解して解釈している
と言う意味なのです。
この様に間違った人の教えに基づく聖書の解説を、本来の意味
通りにきちんと元どおりに正さないとならないのです。
まず、神が神の言葉、完全であり永遠不変であると神ご自身が
人に伝えてるそのご自身の言葉を自ら否定すると言うならば、
その意味はサタンが仲間割れして、その国が立ち行かない!と
イエシュアが言われた通りの事を言っているのです。仲間内で
仲間割れしたら、それは内部崩壊である!と言う事です。
マルコ3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。3:24 もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。
3:25 また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。
3:26 もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。
神は神の完全なる言葉を否定したり終了する事などない!!!!と言う永遠に変わらない神の言葉の性質の事実に基づき聖書を
読めば、紛らわしく臭い解説の箇所はどこなのか見えて来ますし、何をそこで語られているのかの内容を書いてある通りに把握していないから、その様な誤解の解説が生じている!と気が付けるはずです。
父の教え=モーセの五書を知るイスラエルの失われた羊の元だけにイエシュアは遣わされた!と言っているのです。
どうしてそんな事をイエシュアが言われたのか?それはユダヤ人しか主に父の教え=モーセの五書を知らないからです。契約を
受け取った代表者、責任者は、先祖代々神の教え=モーセの五書を生きて、子供達、家族にずっと教えて来たからです。その一方
異邦人の背景、成り立ちは、神の教えなど両親、祖父母、先祖から聞いて生きてなんて来ませんでしたから、その人達の所に行っても、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記された約束の救い主が書いてある通りに来られた!などとは簡単に理解出来ないからです。
口頭トラーとは、モーセの五書ではない、人が考えた教えですがその中には、有益な情報も記されています。
例えばイエシュアがされた過越の晩餐で、”マッツア”と”贖いの杯”それは当時のパリサイ派の流儀に則った過越の晩餐の祝い方で祝っていたのです。リクライニング式の座敷もそうです。
西洋画で見る”最後の晩餐”の絵はイエシュアがされた晩餐の様子を正しく描いているものではないのです。自分達の世界を通して
考えている良い例だと思います。あの様なテーブルに腰掛けて
座って食事をしたのではないからです。
過越の祭の祝い方、その細かいやり方の詳細はトラーには記されていませんが、出エジプトを回想する大きな助けになるその様なパリサイ派が考えた一連の儀式は、神の教えに叶ったものであるのです。
その中で神殿崩壊以降取り入れられた儀式があるのです。
イエシュアは砕かれた体=マッツアを砕いて弟子達に教えました。マッツア=罪、いらないもの、パン種が無いものになるその事実は、イエシュアの贖いの血、子羊の血、砕かれた体による!と言う事を伝えました。これは永遠の中からある事実であり、
歴史の最初から”子羊の贖いの血”を理解していた人達がいるのです。
神殿が崩壊された後、神殿で過越の祭りを祝う事が出来なくなり
ユダヤ人達はエルサレムから世界へ散らされて行きました。
その中で過越の祭りを祝う時に、イエシュア信者であるユダヤ人達がイエシュアの砕かれた体の事実を過越の晩餐の儀式の中で
伝えていた痕跡がはっきりと残されているのです。
ここでたくさんの情報を盛り込むと混乱するので詳しく書きませんが、神殿崩壊後残ったユダヤ人達はほぼパリサイ派が主流で、イエシュア信者のユダヤ人もパウロも同じく生涯パリサイ派として生きていたのです。
これは過越の祭りを祝う人なら、プラス、イエシュアがメシアであるとを知っている人ならはっきり気が付く事なのですが、
メシアがあの2000年前に来られたイエシュアであると知らないユダヤ人は、その儀式の意味の事実を知らないままそれをやっているのです。
クリスチャンは過越の祭りを祝わないので、一体何を言っているのか分からないと思いますが、イエシュアが祝われていた聖別された日、記念日、祭りはレビ記23章に記されたものなのです。
そして、過越の祭りでイエシュアが処刑されたのです。
この事実は、出エジプトの出来事とぴったり重なるものです。
過越の晩餐で、奴隷状態から贖い出された事を思い出す一連の儀式があるのですが、これらはエジプトで奴隷であった事、苦役から神が贖い出して下さった事、その前に10の災いからイスラエルだけ守られた事、初子の死は子羊の血により免れた事、葦の海を渡った事など、それらの出来事を意味ある食べ物に関連付けて
回想する儀式があるのです。
その中で、子供向けのゲームがあるのです。3つのマッツアを
重ねて真ん中だけを砕いて、半分をどこかに隠して晩餐の最後に子供に見つけさせるゲームなのです。3つ、父、子、聖霊と連想出来るでしょう。ユダヤ人はこれを様々な人物、預言者に置き換えて言うのです。
最後に現れるマッツア。3つのマッツアの真ん中が砕かれる。
イエシュアが砕かれたのです。
これら全てイエシュアを連想させるものなのですが、メシアを
知らないユダヤ人は、このマッツアを”デザート”と呼ぶのです。
でもメシアを知る人は、この砕かれた真ん中のマッツアはイエシュアを表すと知っているのです。
そして最後に現れ出る=再臨を表しているものです。
そしてこのマッツアを”アフィコメン”と呼びますが、この言葉も
メシアを知らないユダヤ人は知らないので、デザートと呼びます。
ギリシャ語でただ一度だけ行われた事に対して使う動詞で表される”わたしは来た”と言う意味なのです。
この様に過越の晩餐の一連の儀式の中に、意味ある儀式をイエシュア信者が取り入れたのは意味が深い事であるのです。
神殿崩壊後イエシュア信者であるユダヤ人達が過越の祭の晩餐の儀式の中にイエシュアが最後の晩餐にされた”マッツア”を砕いて
弟子達に教え諭した事を、この過越の晩餐で再現したのでしょう。イエシュア信者であるユダヤ人達が、イエシュアの遺言を
ずっと継承したのです。”過越の祭りを祝うたびに、この晩餐を
通して祝うたびにわたしの記念として、このマッツアを砕いて
食べ、そして贖いの杯を飲んで!とイエシュアが言われたのです。過越の祭の中で行われたこと、継続して行ってとイエシュアが言われた意味が分かれば、その言葉通り過越の祭りを祝うたびに皆でこの事をして祝うのが当然の事だと分かるのです。
残念なのは、この様なイエシュアが伝えた事をする事、神の記念日を祝うことをローマ帝国が禁止し妨害したため、異邦人
イエシュア信者だけは神の記念日を祝うことをやめてしまった
のです。神が神の記念日を祝うのをやめよ!と言われたのではないのです。
一方人が編み出した教えのお陰で、多くのユダヤ人は神の言葉に対しての不信感=これは正しく神の言葉を学ばないと同時に、
人の教え口頭トラーを生きる事を強要される事から起きる嫌悪があるのです。
その口頭トラーを現在も生きさせられているユダヤ人の多くが
その窮屈で無益な教えのために辟易して、そのコミュニテイから離れる!と言う事も起きているのです。これは根が深い問題なので横に置いておきますが、簡単に言うとこう言う事です。
自分が属するグループのラビの言う通りに同意しないとならない。どのグループにもその様な支配があると言う事です。
あなたの属するクリスチャングループの中で、リーダーが聖書でもない教えを数々編み出して、そして日常の全ての行動をそのリーダーが言う通りに行動しないとダメである!と言われたらどう感じますか?箸の持ち方から上げ下ろしまで、お風呂シャワーの浴び方のこと細かい指示、生活の細部まで様々なインストラクションを与えられその通りにせよ!と言われたらどう思いますか?
しかもそれらは神の教えとは何の関係も無い、自分で考えたら良い事柄なのに、その様な事にまで介入され支持されたら、自分の意思が無い、ロボットと同様になってしまう事は分かりますよね。洗脳の世界へようこそ!です。
自分の頭で神の言葉に基づいてはっきりと考える事が出来なく
なり、人の言いなりになってしまう事が起きるのです。
しかもユダヤ人のその様なグループは他の世界との関係を全く
持たずに、自分達のコミュニテイの中だけで生きる閉鎖的な生き方をするのです。
これは又別の時に書く必要ありますが、その中に居た人でまだ
19歳なのに、話もしたこともない人、2度しか会った事のない何も感情も湧かない、関係を育む過程もない男性と結婚させられ苦い酷い体験をして、そこから脱出した事を告白している人がいました。狂気の沙汰としか思えない事を人に強要するのです。
人の教えは人を縛り、奴隷状態にし最大限に窮屈にし、自分の
頭ではっきりと考えられないほど、その人の教えに洗脳されてしまう事が起きます。
しかも、そのリーダーに忠誠を誓い行動しない事は、神に逆らってる事だなどと言われたら、そうだと疑いもなく思い込み、
完全に洗脳され呪縛の世界に誘われてしまうのです。
ユダヤ人の世界で、超正統派ユダヤ教などでは、実際に朝起きてから寝るまで、普通の常識なら気がおかしくなるくらいのどうでも良い、神の仰せに何も関係のない人が作った無数のルールを
生きさせられているのです。靴を右から履こうが、左から履こうがそんなのその人の勝手でしょう〜て事まで、事細かな教えがあるのです。
どんな色の服を着てはダメ、ジーンズを履いてはダメ。
結婚した女性は他の人に魅力的に見えないために、頭を剃り
カツラを被る。よく見ると皆同じ服装をしているのです。
髪を剃ってカツラを被る