余計な教えの付け足し 人間のなせる技 トラーにフェンスを張り巡らせる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアが言われた”先祖の言い伝え”とは、パウロが説明する

”律法の行い”、モーセの五書ではない人が編み出したトラーの

周りに柵を作る作業=口頭トラーと言うものなのです。

 

それらはモーセの五書にある神の教えとは関係の無い、人の編み出した教えの事なのです。だから律法と言う翻訳だけ読んだら、神の言葉=トラーの事なのか、ラビ達の編み出した教え=口頭

トラーなのか、又はこの世の司法なのか、罪の法則なのか、物事の本質、法則なのか、その言葉の使われ方の知識がなければ何を話しているのか見分けられず、十把一絡げに、全部”神の教え”=律法だ!などと多大に勘違いしたまま聖書を読み続けてしまっているのです。

 

"先祖の言い伝え"又は”律法の行い”と呼ばれるものは、当時は

もちろん記された書になっていたのではなく、まさに口頭伝達、言い伝え=口伝で伝えられていたものです。

彼らユダヤ人の賢人達はこう主張しているのです。シナイ山で

モーシェに与えられたものは、トラーでありそれが文字で記されたものがモーセの五書です。そして、ユダヤ人はもう一つこう

解説するのです。モーシェがシナイ山で与えられたものの他に、神がもう一つ口頭で伝えた教えがある!と主張するのです。

モーシェがそれをヨシュアに伝え、それを預言者に伝え、代々

語り継いだと主張しています。

 

それはどう言う意味かと言うと、例えば民数記19章にある、

赤い雌牛の教えとは何??? どう言う意味?など、そこに書いてある他にモーシェに神が他の教えを口頭で解説したに違いないと言うのです。他にも、シャバットを祝うと言うならそれをどう祝うのかの細かい教え、過越の祭りをどう祝うのかの細かい指示?衣の房は何色でどの位の長さと言ったのか?とそんな事を

言うのです。

それらの解説はもちろん人間=ユダヤ人の賢人がしているのであって、神がモーシェの文字で書かれたトラー以外に他の事を伝えてそれを伝授せよなどと言った記録は聖書には無いのです。

ヨシュア1:8, 8:31,34, 22:8 ,23:6これらを読んでも、神が文字で記した言葉以外、モーシェに与えたものがあるなどと記されていません。

ユダヤ人のモーセの五書に付け加える解説が書物になったものを”ミシュナ”と言います。

ミシュナには文字通り生きる上での全ての面に於いての教えに

関する議論、反論が書かれています。これらはユダヤ人の賢人が

考えている事であり、神がモーシェに伝えた教えではありません。

だからイエシュアが”あなたがたは、なになに〜と聞いている”と言われた意味は、当時のユダヤ人が考えているあれこれすべし〜と言う人の考えた教えを指して言っているのです。

そしてあなた方は何々と聞いているが=人の解説解釈で作られた教えをあなた方は聞いているが、わたしはこう言おう”とイエシュアが言われたのは、父の教え=モーセの五書=トラーの中に記されている意味は、こうであると天直送の父の教えの醍醐味、

意味真髄を彼らに話したのです。

 

でもクリスチャンの世界では、イエシュアのこの言葉を聞いて、イエシュアがモーセの五書=父の教えを否定して、”あなた方は何々と古い教え=モーセの五書を聞いているが、わたしはこう言おう=古い律法とは違う新しい教えを伝える!”と言っているのだと解説しているのです。イエシュアの言われた意味を全く理解しない解説がされてしまって、モーセの五書=古い教え=今まで

聞いてきた教えをイエシュアが否定して、新しい教えをイエシュアが伝授しているなどと読み違えているのです。

 

この様な聖書に反した読み込みの連続ばかりを聞いていれば、

聖書に書かれている事を正しく理解出来ないどころか、神の言葉に対しての偽証を他者へも言い続けてしまうのです。だから古い律法は終わった〜などと、神が言う事とは正反対、真逆な事を

本気で信じてしまっているのです。

しかも、律法と言う誤訳!その言葉は完全に訂正し直さないとならないのです。

神の言葉に対して律法と言う言葉は一言も使われていないからです。元の言葉の意味を反映しない翻訳とはトレーター=反逆

違反です。

全部ひっくり返して真っさらにして、正しく聖書を読み直す必要があるのです。

 

そして、もう一つタルムードと言う書があります。

教えることを意味するタルムードは、ユダヤ人のことわざ、考え物語を含む古代のテキストです。 その書には、ミシュナー (口頭トラー) とゲマラ (「完成」) が含まれます。

 ミシュナーは、人の生きる上でのすべての分野に触れる、教え

ことわざ、議論、反論の大規模なコレクションです。 

ゲマラは学習の宝庫として知られており、聖書の登場人物、冷静な法的議論、過去の世界と来るべき世界の空想的な想像についての物語のコレクションです。

 

そして、その後”ミドラーシュ”と言う書物ができました。

ミドラーシュ (מדרשׁ) は聖書に記された内容の解釈、解説でありトーラーの言葉の意味を掘り下げることによって、宗教的な問題 (実践的および神学的) への答えを求めるものです。

聖書では、語根の d-r-sh [דרשׁ] ドラシュとは、神の言葉の意味を探すことを含め、あらゆる事柄を調査することを意味するために使用されます。ミドラーシュは現代の問題に対応し、新しい物語を作成し、新しいユダヤ人の現実と不変のものを結び付けます。 

この中には様々な違う教え、意見が記されています。

それだけでも、神の統一された一貫性のある同じ口頭トラーが

与えられたのでは無い事が分かります。神はモーシェに文字で記したトラーだけを与えたのです。

 

何千年前に誰かが聞いた事を口頭で伝え続ける伝言ゲームの結末がどうなるか想像出来るでしょう。

今日のこの日誰かにメッセージを託しても、それが夕方までに

そっくりそのままの原型で伝わるなんて事はあり得ず、どこかで

付け足しや差し引き、又は変化されたメッセージになっている

のが普通なのです。

だから噂と言うものは、絵ひれ尾ひれが付いて別物の内容になってしまうのは誰でも知っている事です。

 

しかもこれらの書の中にはたくさんのラビの意見が書かれていて

それぞれが違うものであるのに、どうしてその様に違う解説や

教えが神から直送で来たなどと証言できるのでしょう?

単なる人の解釈が記されているだけです。

神の言葉とは異なります。

でもこの中にも役立つ事も記されているのは事実です。

例を挙げればどんな事でしょうか?

 

イエシュアが処刑される前の晩に、過越の祭の晩餐を弟子達と

祝った記録があります。クリスチャンもこれを知っていますね。私はそれを以前読んでいても、過越の祭と言うものがどんな祭りなのか想像も付かない、出エジプト脱出の一連の出来事と繋がっている事も見えない、ただイエシュアは最後の晩餐をしていた

程度のお粗末な理解しかありませんでした。

過越の祭りは都上りの祭りだから、エルサレムにイエシュア来て

いたと言う事も理解していませんでした。

 

実際に過越の祭を祝い、その過越の晩の晩餐を祝う様になって

から初めてそれがどんな意味で、どんな事をイエシュアがされて

弟子達に話したのかの意味が鮮明に理解出来る様になり、

イエシュアの最後の1週間の意味も当時の人達が神殿の周りで

イエシュアを迎えた意味内容も、見えなかった知らなかった事の数々が浮き彫りになって来たのです。

 

イエシュアが祝われた記念日、祭はレビ記23章にある神の創造された記念日で、今現在クリスチャンはこの祭を1世紀の信者達の様に祝う事をするのを、ローマ帝国の弾圧により2世紀以降

一切やめてしまいましたから、一般にはほぼその意味も内容も教えられない、もちろん実践されていないので、ぴんと来ない内容だと思います。

 

イエシュアが過越の晩餐のために部屋を借りてと弟子達に頼んだのは、この晩餐は日没から夜遅くまで行うもの、ある人達は夜通し祝うものであったからです。そして晩餐の儀式の中にもある

この晩は出エジプトをして奴隷から自由の身となった事を思い出すために、リクライニング式のテーブルで優雅に晩餐をすると

言う事をしていたのです。

これらは、モーセの五書の中に詳しくこの様に晩餐を祝うとは

記されていません。

出エジプト12、レビ記23 民数記9、28、申命記16などに記されていますが、ポイントは記されていますが、細かい詳細

は記されていません。

イエシュアがされていた過越の晩餐は、”セダー”=順序と言う名の付いた晩餐の儀式で、出エジプトに関する出来事をそれに

ちなんだ食べ物を順番に食べながら皆で出エジプトの出来事を

回想してその晩を過ごすのです。ここで注目点があるのですが、

アヴラハムが未だ歴史の中地上で見ないイエシュアを知って喜びとある通り残りの民は神が伝えた事実、贖い、イエシュア=

救いを知っていたのです。だから、その過越の出来事で回想したのは、実際には神=イエシュアが奴隷状態から子羊の血の代価を払い贖い出して下さり、新しく創造された命を生きれる旅路へ

導き、神の国、約束の地に入る事を教えていたものなのです。

テーブルの上に手を洗う盆が置いてあったり、又は野菜を浸す

盆が置いてあるのは、儀式の中で出エジプトし葦の海を渡り、

そしてヨルダン川を渡って約束の地に入った事を思い出す儀式

があるのです。

そしてイエシュアがマッツアを裂いて弟子達に与えて解説した

内容、そして贖いの杯と呼ばれる食後に飲むワインを掲げて

イエシュアが地上でされる贖いの業の証明を解説しているのです。これらの儀式は当時のパリサイ派の祝い方にのっとって

行われたものです。

 

賢人達が考えた過越の祭の祝い方は、当時口頭で伝えられたもので有益なものでもあるのです。その中には過越の出来事の意味が

網羅された内容が詰まっているからです。

 

私は”聖餐式”と言う、この過越の晩餐でイエシュアがした儀式を

後にカトリックが違う儀式に変えたものしか体験しませんでしたから、それが何を意味するのか、本当はいつ行われるべき儀式なのか、聖書に記されているのにも関わらず良く理解していませんでした。

もちろんパンは私達のためにイエシュアの体が砕かれたと言う事実は見えますし、ワインが流された血であると言う事も分かりますが、それがハメッツ=パン種=罪を表すもの、罪が削ぎ落とされたと言う意味がちゃんと種無しパンの中にあると言う事も知りませんでした。

神が代々永遠に祝うと言われた祭り、過越を祝ったこともなく、種無しパンの意味も知らず、種無しパンを食べた事もなく、

過越が来る前のパン種除去掃除もやった事がなく、種ありパンで別の時にした儀式で教えられていたからです。

 

そして福音は、2000年前に初めて伝えられたのではなく、

タナックの中に記されていて、イスラエルの歴史の中で起きた

出来事、聖書に記されている内容からちゃんと教えられ続けて

来たことを初めて知ったのです。

お店で売っているマッツアは乾燥していて四角いものです。

家で作る場合丸いマッツアを焼き、お店でも丸いマッツアも売っています。そして、そのマッツアには細かい穴が空いています。

刺し通された体を思い浮かべます。

 

神殿崩壊した後、ユダヤ人イエシュア 信者達はローマ帝国から

トラー=モーシェの五書に記された教え、特に目立つ異邦人異教徒が生きない様な教え、そしてシャバットや祭りを祝う事を禁じられ、神殿崩壊時70年には約100万人、その後も多くのユダヤ人がローマ帝国により殺害され最後はエルサレムから完全に追放されました。その後、ユダヤ人は世界に散って行ったのですが、

その中でユダヤ人イエシュア信者は、イエシュアが最後の晩餐で語られた事を元に過越の晩餐の儀式の中にそれを取り入れた痕跡があります。

 

続く