神の言葉から神の言葉を差し引く行為 そして人の教えを付け足して宗教を作る  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を読んでみると、その内容は全部同じ意味で繋がっていて、
同じテーマで繋がっています。途中で神の言葉が変化したり、意味が別物に進化したり、教えが終了になったり、又は別物の新しい教えが出現したりなどしていないのです。神の言葉は完全であり、永遠不変であり、神の言葉は100%信頼に値するものだからです。神の言葉が途中で破棄され無用となったと主張する異邦人の教えは、神の言葉は不完全で一時的なもの!と言っているのです。そして神は何変幻と言っています。そんな神は聖書に書かれたイスラエルの神とは異なる勝手な空想思想なのです。
 
聖書には全部同じテーマ、教え、内容が綴られています。
1トラー、2メシア、3福音です。
聖書に、永遠と書いてあったらそれは最初から最後まで永遠と
言う同じ意味が貫かれ、聖別と言う言葉が書いてあったらそれも
最初から最後まで同じ意味で記されているのです。
神の言葉が変わった!と言う思想は、神の言葉の定義が変わったと言う聖書とは異なる思想を主張しているだけなのです。
 
人間の辞書にも永遠とあったら、その解説が歴史の途中で変わる場合もあるなどと書いてませんよね。それならば永遠と言う意味をその辞書は正しく解説していないと言うことになります。辞書に書かれた内容は、元にある様々な文章の中で使われている言葉の解説であり、元の言葉が本来の意味を表しているのです。
聖書に記されている永遠と言う言葉に、一時的などと言う別の
意味や定義などもちろんないのです。

シャバット=第七日目を聖別した!と言う記録は、創世記の最初に記されています。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
 
ここに記されている事を注意して読むと、聖別されたと書かれている言葉はここで初登場し、そして神は1週間の7日間の日々でこの第七日目だけに聖別しシャバットと言う特別な名を与えているのです。
他の日は、第一日目〜第六日目と呼んでいるだけです。
そして第七日目を聖別する理由、神が全てのわざを終えて、
シャバット=止まったからとあるのです。
神は時と場所=人、物、動物、神の宮を聖別しているのです。
聖別と言う言葉を第七日目と言う特別な時、他の6日間とは完全に意味が違う、神の特別な目的のために分かたれた日、それが
聖別の意味であり、そして週の7日間の中で唯一第七日目だけに対して”祝福した”と言われた事が書いてあります。第七日目シャバットが神に取りどれだけ重要で同様に人に取りどれだけ重要な事なのか、トラーを読み学べば理解出来ます。
 

聖書をマタイから読むと言う事は、書物の途中から読むと言う事と全く同じ事をしているのです。書物を途中から読んでも書いてある内容が良くは分からないのです。聖書は前に記された内容から繋がり同じ意味で記されているからです。しかも外国人は聖書をヘブライ語原書ではなく、翻訳のみから聖書を読んでいるので聖書の最初の75%に記されている言葉を、福音書以降では別の翻訳用語で記されたりする翻訳トリックに全く気が付かないまま読んでいるのです。

 

しかも翻訳者により翻訳の言葉意味合いが違うことでも分かると思います。違う言葉を使う場合には受け取るニュアンスや印象が全く違うものになる。これは翻訳では仕方のない大きなハードルなのです。ヘブライ語には何々訳などと言うものはなく皆同じです。

だから元の言葉も意味、書かれている事実内容をはっきり学ぶと言う事が必要です。一般の人にはハードルが高いから、聖書に記されている神の言葉を正しく紐解き理解する事に導いてくれる教師が必要だと分かると思います。聖書とは違う教えを教えられ続けてしまったら、それは神の伝える真実を知る事ではなく人の思想、教理、宗教を聞いている事になるからです。

聖書の真実ではない事を神の言葉の中に挟まれてしまう場合には、不真実は聖書の事実とは異なり、辻褄まが合わないので、そのつじつまが合わない箇所を人の教えで埋めると言う事が永遠に続いてしまうのです。

 

だから、シャバットは永遠に変更されないのに、2000年前に日曜日に変わった主張する理由付け、理屈は、クリスチャンは

復活を記念して、日曜日をシャバットとして祝うのだと解説するのですが、それは神の伝える教えではない!のです。

その様な人間の思想を挟むならば、神が伝える真実は伝わらなく

なってしまう事をはっきりと理解しないと聖書の内容は正しく

把握出来ず、宗教の教え=人が考えた解説を代わりに聴き続けて

神が伝える真実にはたどり着けないと言う事が起きているのです。

翻訳だけを通して聖書を読んでいるので、尚更聖書に書いてある本当の意味、内容を誤解するのです。教会と言う言葉も元の言葉を全く反映しない造語!本当にこれこそ翻訳トリックです。でもその言葉は広く使われて行き便宜上、異邦人クリスチャンをさして教会と言っていますが、本当は多大に不適切で意味をなしてない言葉です。教える会!?創世記〜マラキには、教会と言う造語の裏にある言葉、カハール、ケヒラ、エクレシア(ギリシャ語)=神の声に呼び出され応答した人々、エダ=証人とある言葉を、”集会” ”群”共同体などと訳して、教会などと言う造語では訳されていません。

それなのに、同じ言葉、カハール、ケヒラ、エダ、エクレシアを

福音書以降では、”教会”と言う造語で訳しているのです。

しかも、同じ共同体〜カハール、エクレシアに継続して全ての人

を加え続ける!事が聖書には記されているのです。2つ別物の

異邦人、ユダヤ人と言うグループ分けなど聖書には記されていません。ユダヤ人も異邦人も同じ天の共同相続人!と書いてあるのです。

これって”山田太郎”さんと言う名前を、後に”加藤五郎”さんと言う名前に変えて、一人の人なのに、あたかも二人の別の人であると言う印象を与えるのと全く同じことを翻訳の中でしているのです。

トレーター=翻訳の裏切り、叛逆と呼ぶ人もいますが、まさにそ

の通り、人に間違った聖書概念を植え付け続けているのです。

 

旧約新約聖書と言う言葉、タイトルも聖書には無い、時の異端者が考えた思想であり、神の言葉は破棄された〜!と言ったマルキオンの発案なのです。神がこんな不適切なタイトルをご自分の霊感により書かれた書に与えてなどいない!と言う事実を知った方が安全です。便宜上伝統的に使われる言葉が全て正しいのではなく、この様に不適切で神の言葉に対して誤解を与えるものなのです。

 

律法と言う翻訳も、神の言葉を指して使うには全くそぐわない、

不適切な誤訳なのです。神の言葉を指して律法と言う言葉で一度もそんな言葉は記されていません。律法と言う言葉を、神の教え

インストラクション、もしくはエデンと同じく、トランスリタレートでトラーと言う言葉にした方が良いです。

 

神の言葉を正しく反映しない思想、翻訳、言葉により、勝手に

聖書に記されている内容を自分の先入観で想像し推測するし、

更には人の教えで聖書の解説を塗り替えられていても、それが聖書の事実では無いとも気がつかないのです。

創世記の最初にはっきり第七日目がシャバットであると記されて、福音書以降の週一度のシャバットも第七日目で最後まで記されているのに、福音書以降には、シャバット=安息日が日曜日=第一日目であると書いてないにも関わらず、福音書以降には

シャバットは日曜日になったと完全に読み違えているのです。

その理由は、イエシュアが日曜日に復活したからだ?復活はっきりした日時は記録されていないのに、しかもいつ復活しようとも、それはシャバットが変更された理由にはならないのです。

なぜなら、シャバットは神が全ての業を終えて止まった!だから祝う!と言う、全てを網羅した内容が記されているから、復活だけを強調して祝う日と言う変更が無いからです。代々永遠に祝われる神のシャバット!と神が言っている言葉を差し引いている良い例なのです。

 

しかも、福音書〜黙示録には日曜礼拝に変更、又は日曜礼拝を

人々が実践している記録は1つも無い、神がシャバットを日曜日に変更せよ!と言った記録も1つも無い、もちろんある訳ないのです。聖書には全ての人が神の創造されたオリジナルの記念日、シャバット、祭りを祝った記録しか記されていないのです

パウロが1コリントで過越の祭りをマッツア=復活の命、新しく創造された人、罪が全てそぎ落とされた実態で祝おう!と記されている、過越を祝うと言う意味はシャバットを第七日目にずっと祝っている!新月も秋の祭り、ショファーを吹く日、大贖罪日、

仮庵の祭りを祝っている!と言う確たる証拠なのです。神の祭りのデザインを知らない、実践しない場合には、パウロが言っているその意味が見えないだけなのです。だから神の教えを差し引く損失弊害は多大です。神の言葉を破棄し無用とするとは宝を

ドブに捨てる行為と同じです。

 

全ては2世紀〜4世紀に異邦人西洋教父達が編み出して決めた

別の日=第一日目を安息日とした!と言う揺るがない事実がありそれを伝統でカトリックが継承し伝承実践し、プロテスタントもカトリックの作ったそれら記念日を同様に継承して今日に至っている、それが本当の事実であるのです。

 

最初に書いてある事、そして聖書全体には同じ意味で同じ事が

記されている!と言う事実を把握していないから、人間の思想や空想で聖書を勝手に読み込み、神の言葉を勝手に差し引きして

意味を変えて違う教えに変換しているのです。神ではなく、異邦人が神の言葉を変え続けた長い歴史を学び、そして聖書だけを

読めば、何が聖書に書いてあり、何が書いてないのか、信仰の
無い一般の人でもその事実は分かる事なのです。
しかも、古代のヘブライ人に向けてヘブライ語で書かれた聖書の意味など、翻訳を読んだだけでは、多大に誤解してしまうのです。しかも異邦人が作った異邦人思想で聖書を読み解く様に教えられてしまうのですから尚更誤解が誤解を生み続けるのです。
神の完全なる言葉なのに、異邦人は神の言葉は歴史の途中で変化し、又は人種別に異なる教えである!と言う人間の教え、思想、神学、教理で聖書を読み説いているので、人造宗教の教えを次々に編み出し続けてしまっているのです。
 
だから何なに神学で聖書を読み解く!などと言う解説をするならば、それは聖書ではない人の思想を通しての解説が混じっている!と言う事なのです。現に聖書を人の神学で読み解く!と言っているのですから、聖書では無い人の思想と言う色眼鏡で聖書を読んでいると言う事を言っているのです。聖書に記されている言葉の事実に忠実な解説ではなく、人の作った教えに塗り替えられた解説を聞いてしまうのです。聖書は聖書により解釈すると言う軌道修正が絶対に必要なのです。人の教え特に置換神学やデイスペンセーション神学で聖書を解説するならば、それは神の言葉で神の言葉を解釈、理解するのではなく、マタイ5章のイエシュアの言葉通り、トラーを破棄している!神の言葉を正しく読み解いていないと言う事をしてしまうのです。神の言葉を成就=正しく解釈し生きる!と言う軌道修正が必要なのです。
 
神の言葉から神の教えを差し引きする教えは、モーセの五書を
都合の良い部分だけ取り出し、そして実際に神の言葉を生きるのでは無いと教えられ、そう実践しているので、神に伝えられている仰せを生きる事をやめてしまった、神の全ての言葉が神の永遠不変の教え、指導、警告であるとも考えないのです。
 
申命記 4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
12:32 あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。
ヨシュア1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべ
モーセがあなたに命じたトラーをことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが
行くところで、勝利を得るためである。

箴言30:5 神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。

30:6 その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、

あなたを偽り者とされないためだ。

 

 

 

続く