付け足しの教え 差し引きの教え 人が宗教の教えを編み出し続けている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

申命記 4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神主の命令を守ることのできるためである。

12:32 あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。
ヨシュア1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべ
モーセがあなたに命じたトラーをことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが
行くところで、勝利を得るためである。

箴言30:5 神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。

30:6 その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、

あなたを偽り者とされないためだ。

 

これらを全部逆に読めば、神の言葉を差し引き付け足すれば、

神の命じていることをガード出来なくなる。危険に晒される。

神の言葉を差し引き付け足しすれば、神の性質を生きる実態から右に左にそれてしまい、正確に神の似姿=栄光を地上で反映し周りにイスラエルの神の性質そっくりそのままを表せす役割が出来なくなる。キリストの証人とは、神の実態そっくりそのまま、

神の言葉の意味通りを伝えて生きて神の性質を地上で反映する人の事なのです。神の実態とは違うものを生きたらそれはキリストの証人とはならないのです。しかも神が言って無い事を言った言ったと言うなら、それは神に対する偽証罪です。

神の言葉は皆真実と神が言うのに、人間が神の言葉は不真実と

みなし、神に完全により頼むことが出来る盾を捨てている。

神の言葉に人の教えを付け足し、その行為が神の前に責められるものとなり、偽りものとされてしまう。

神の言葉は全て真実と書いてあるのに、クリスチャンの世界では神の言葉は全てが真実有効ではなくなったと言い行動によりその信条を表明しているのです。

 

そんな事言うわけないし、していない?いいえ、神のトラーは

終わった!神の言葉の古い箇所は終わったと言い続け、神の言葉を実際に生きる事をやめて、そう実践しているのは、神の言葉が永遠不変の変わらない真実であるとは考えていないからであり、神の言葉を寓話化、比喩、霊的などと全て解説して、自分には

今関係のない教え生きる必要なし!と本気で信じて宣言、実行しているのです。それがまさに神の言葉を差し引き、人の教えを付け加えていると神が説明している事なのです。

 

イエシュアも同じ警告をしています。トラー=神の教え=戒めの1つでも破る様に人に教え、そう生きる人はどうなるか?

イエシュアの口からもはっきり警告しています。

聖書の至る所に申命記4:2と同じ警告がなされているのです。

 

マタイ 5:19 それだから、これら<トラー、預言書、諸書>

最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。

しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

イエシュアの言葉、教えを聞いていた人の中で、現代のクリスチャンの様な思考、思想=神の言葉はイエシュアが来られた以降は廃れた破棄された!などと神に対してそんな冒涜的な考え持ち

イエシュアの言葉を聞いていた人など誰一人としていないのです

イエシュアが語る言葉は、モーセの五書である事を1世紀に居た人達ははっきり理解していた、それが神の言葉に基づき真実で

あり当然の理解だからです。なぜ?神の言葉は完全、神の言葉は

変化しないと神が言った事を神の言葉から理解していた人達だったからです。神の言葉を差し引きする様な教えをする場合、天の国で最も軽い意味のない存在になる!とイエシュアが言われました。当然ですよね。神の教えをないがしろにしろ!と教える存在は、神の目に最も意味のない羽同様に吹き飛ぶくらいとんでもなく軽い存在になるのは明らかだからです

 

黙示録22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

 

黙示録は単独にあるのではなく、黙示録は、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に付いて書かれている事に関しての最後の

注解、アポクリファ=外典なのです。神の言葉に人が勝手に手を加え違う教えを付け足す結末、警告が書かれているのです。

 

クリスチャンの世界で勘違いされているのは、神の言葉を神が

終わらせ、神の言葉を生きる事を禁じているのに、それをするのは律法主義で恵みを捨てた悪い教えに戻るのだ!と考えている事です。

これは全部神の言葉=聖書を読み違えている事から起きる誤解です。でも1つ1つ紐解いて行けば何が書かれているのか分かる事です。この詳細は別の記事に書きます。

 

イエシュアが昇天以降エマオの途上で弟子たちに、タナック=

モーセの五書、預言書、諸書に書かれている事を再度語って確認させているのです。

タナックは、最初からメシアが記され、メシアがどの様に地上で

苦しみを受け、3日目に死人の中から蘇る!と言う事が記されているからです。それらを理解していた人達がいた証拠なのです。

残りの民は理解していた。

全てはタナックに記されている!福音やメシアは2000年前

イエシュアが地上に現れて初めて認識されたのではない。

復活の命に関しても聖霊が内側に住み、神の言葉=タナックに記されていた事実に目が開かれて理解していた人達がいたのです。

 

ルカ24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセのトラーと預言書と詩篇とに、わたしに

ついて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

24:45 そこでイエスは聖書=タナックを悟らせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。

 24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。

 

イエシュアが神の言葉を指して語るときに、”モーセと預言者”

”トラーと預言者”又は”トラー、預言者、詩篇”と言って説明しているのは、創世記〜マラキ丸ごとで神の言葉であり、クリスチャンの世界で語る様なバラバラに神の言葉を切り離して考える思想

は無いからです。神の言葉は全部丸ごとでワンセットだからです。だからモーセの五書は捨てれた!と言う主張は、同時に

預言書、諸書も廃れた!と言う意味になってしまうのです。

それならば箴言も詩篇も、列王記もヨシュア記も、イザヤも

エレミヤもエゼキエルもトラーと共に廃れた!と言っている事に気が付かないとなりません。

その様な神が伝える神の言葉の性質とは異なる教えをする事!

神の言葉を差し引きし、人間の教えを付け足しているのです。

 

申命記4:2にある神の言葉に付け足したり、差し引いたりしてはならない!とある警告で、クリスチャンが主に神の言葉を差し引いています。人間の作った教えもふんだんに付け足していますが、そんな事してないさ!と考えるでしょう。

 

でもどうですか?クリスチャンの世界では、神の言葉は破棄されて、聖書の古い箇所は終わった!今は関係ない教え!道徳的な

教え以外、異邦人には関係ない教えとか、ユダヤ人だけの教えと

言っているでしょう?それが神が警告している神の言葉を差し引くなかれ!と言う神の言葉に対しての違反であり、神の教えを

侵害している事なのです。その代わりに人の教えを付け足して

神の言葉とは違うことを生きる様に教えているのです。

 

1世紀の信者達、イエシュアや弟子達が生きていたモーセの五書の教えをクリスチャンが生きない理由は、神の言葉を差し引いた人の教えを信じているからです。その大元は、ローマ帝国にモーセの五書を生きる事を禁じられたから、異邦人はローマの言いなりになったから!それが事の発端です。その事を是正する教えを西洋教父たちが後から編み出して行ったのです。

 

その理由は、ユダヤ人とそして神のオリジナルの言葉=タナックと決別し、自分達解釈の教え=宗教を編み出して行ったから!

それが今2つの分断された教えやグループが出来た本当の理由です。

だから、モーセの五書を学ばない、生きない、異邦人は聖書に

無い日曜礼拝を祝い、クリスマス、イースターを祝い、そして

神の創造されたオリジナルの記念日を祝わない本当の理由なのです。神が神の教えや記念日を変えたからではない、それは聖書を読んだら、気がつけるはずです。

 

ユダヤ人イエシュア信者、もしくは異邦人でも聖書の真実に気が付いた人達は、宗教が作り出した教えや記念日ではなく、イエシュアと同じくトラーを生きて、イエシュアと同じく、シャバット、新月、過越、種無しパン、初穂、シャブオート、秋のショファー、大贖罪日、仮庵を祝っているのですそれが神のみ旨,仰せであり、神が命じている永遠不変の教えだからです。

神はこの様に分断された教えや記念日を別々に生きよ!などと言いませんが、クリスチャンは昇天以降の最新式の教えを生きている!復活を祝う記念日を生きて、ユダヤ人は救い主を知らないから日曜礼拝やイースターやクリスマスを祝わないのだ〜と考えると思いますが、それは全く違います。

イエシュアを信じるユダヤ人もトラーを生きて、別物は生きないし、西洋宗教が4世紀に作った記念日を祝わないのです!イスラエルにいるイエシュア信者も同じです。どうして?

それは神の仰せではないから!と言う単純な理由であり、神が

生きなさい、祝いなさいと言う事を実践するのが神のみ旨である事を聖書から確認できるからです。

どうして神が創造された神の記念日を捨てる事が恵みの生き方であり、それが神の教えだなどと考えるその方が非聖書的だからです。

西洋宗教と言うものが4世紀に作られて、その伝統の教えや

記念日を異邦人クリスチャンは継承して生きている!と言う事実にはっきり気が付けば、聖書の教えと、人の教えの違いはクリアーに疑いなく聖書に基づき真実は見えてくるのです。

 

そして異邦人クリスチャンは聖書に書いてある神の教えを差し引いて、今は異邦人には関係の無い教えだから、道徳的な教え以外のモーセの五書を生きるな!と教えているのです。その様な教えはイエシュアの警告マタイ5:17を全く無視している教えなのです。

マタイ5章のイエシュアの警告は、申命記4:2にあるモーセの五書の警告をしているのです。

4世紀以降、異邦人はユダヤ人イエシュア信者と完全決裂して

それが今も継続して続いているのです。そんなものは聖書の教えや神の語る神の子らの生き方ではないのです。

 

 

 

 

続く