シャバットの意味意図奥義醍醐味は永遠不変 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書以降〜黙示録の聖書箇所には、創世記からマラキまでとは違う新しい変化した教えが書かれていると信じていませんか?

聖書に記されている事に基づき、それが聖書であると信じてませんか?

でも聖書に記された事実は、創世記〜黙示録もまで全て同じ教え福音、同じメシア=イエシュアが記されているのです。

聖書を途中から読むと言う事をする弊害があるのです。聖書に書かれている意味は、最初を知らないと分からないのです。

 

神が伝えている通り、神の言葉は完全であり、神の言葉、神の

性質は変化など無いと伝えているその神の言葉こそが永遠の真実であり、人が勝手に神の言葉を変えて主張している教えは真実ではないのです。

人間が神の言葉に差し引き、付け足しし、人間の理屈で変化した

神の言葉の理由づけをしているだけで、事実は神の言葉は変化していないのです。

 

もし、あなたが誰かに自分の伝えたい大事なメッセージを託さなければならないとしたら、どんな人にそれを託す事をしますか?

あなたが伝える言葉の内容を変えてしまう、又は差し引き、付け足しして、言っても無い余計な事を人に伝える人に託しますか?

そうではないですよね。あなたの伝えようとしている意味、意図を欠け目なくそっくりそのまま伝える事を忠実にする信頼出来る人に託すのは当然の事ではないのでしょうか?

 

神はモーシェに神の言葉=教えを神の口から伝えて、それを

そっくりそのまま書き記す様にモーシェに託したのです。

モーシェの役割は、神が言われた通りをその通りに書き記す事でした。そして神に言われた通りに人の前で実行することでもありました。モーシェは神の言葉の中に自分の思想や教えを付け加えて書いたのではないのです。他の聖書箇所を書いた預言者達も同じです。これが”神の言葉は全て聖霊、霊感”により記されたと

ある意味なのです。

だから、書いてある言葉を受け取る人達も、神の言葉に付け足し

差し引きしてはならないと言う事をはっきり自覚しないとならないのです。

そして、聖書の土台、柱、中心は、”父の教え”=モーセの五書=

神が創造された神の性質に造られた人間の生き方の詳細が書いてある、モーセの五書それが聖書の中心です!モーセの五書以降の、預言書や歴史書、諸書などは、全てこのモーセの五書に記された事に関してが綴られているのです。詰まりモーセの五書の解説がモーセの五書以降に記されているのです。

イスラエルの歴史が記されているものは、神の教えに忠実に生きた時、神の教えに反した生き方をした事が記されています。

預言書は神の教えからイスラエルが外れた生き方をしてイスラエルの国からイスラエルは吐き出され異教の神々の地へ捕囚として散らされて行ったのです。預言者の役割は、イスラエルが神の教え=トラー、モーセの五書に記された本来の人間の生き方に戻ると言う警告、促し、神の約束は廃らないと言う励ましなのです。

 

福音書はタナック=モーセの五書、諸書、預言書に記されたメシアが地上に実際に来られて、天の中に永遠の中に完了している

贖いの事実を地上でも証明された事、タナックに記された復活の命=初穂=イエシュアに連なる新しくされた人の実態を実際に

証明したものです。

使徒は、同じ福音、同じトラー=神の教えが全世界へ大々的に

伝えられる幕開けです。

そしてパウロの書簡は、トラーに記された神の言葉を諸外国で

実際に生きる事に関しての当時の人々の中にあった問題に答えて

いる内容なのです。パウロはモーセの五書に反する教えなど微塵にもしていません!している!と考えるのは、パウロの書簡に

記された内容を完全に誤解して歪んだ解説のみを聞いているから

トラーを否定して終わらせた違う教えをパウロが伝授しているなどと勘違いして読んでいるだけです。

黙示録はエデンから出てエデンに戻る最終章です。

 

福音書以降は聖書の単に25%程度の量しか占めていない理由は

福音書以降は、タナックの短い解説、注解であるからです。

だからその中には、人の生き方の全ての詳細はタナックの様に書かれていません。罪の詳細の全貌も記されていない、タナックに記された教えの抜粋しか書かれていないのです。罪の詳細を知らないなら、知らない間に罪を続けても気が付けない!と言う事です。だから、特に異邦人はトラーに記された内容教えなど幼い頃からユダヤ人の様に見聞きし学び実際に生きていない背景生い立ちなので、聖書の最後の部分から読んでも一体何が書いてあるのか本当の意味が見えて来ない、見えているようで見えない理由は、元の言葉を知らないからです。

 

教科書に上中下とあるとしたら、上中飛ばして、下に記された事は正しく理解出来ないのです。学校でも上中下と飛ばさないで教えるなら聖書は尚更飛ばして教えて読んでみても書いてある内容は深く理解出来ません。下は上中の続きの解説だからです。

聖書の最後だけ読んでも、それは良くは分からないのです。

だから聖書に対する多大なる誤解の解説が異邦人の世界には

氾濫浸透しているのです。

しかも1世紀後半からローマ帝国による迫害により、神のトラーを生きるな!と言う政治的弾圧のもと、異邦人は神の教えから

意図的に離れた!!!だから1世紀の聖書に記されている人達とは違う、神の教えを差し引きした教え、変えた教え、変えた記念日を今実践している本当の理由は、異邦人が神の言葉を差し引いて変えて違う教えを付け足した別の宗教を作ったからなのです。

 

プロテスタントはカトリックと多くの点でその信仰の教え、教理の同じ土台を共有しています。1世紀のイエシュアの教えや記念日と異なる実践をしている理由は、カトリックの教えがプロテスタントの信仰の根、土台だからです。

プロテスタントはそんな事してません!と考えるかもしれませんが、聖書だけに戻ればそれは明らかに分かる事実です。

 

どうしてイエシュアがモーセの五書を否定した教えをしていると

考え、どんな理由で、神の教えが終了と言い続け、神の創造された記念日、聖書に記されている人々が祝っていた記念日を今祝わないのか考えた事はありませんか?カトリックと同じ教えや、

聖日をプロテスタントも同じく祝っています。そして両者イエシュアが生きて教えたトラーや記念日を実践していません。

日曜礼拝、聖餐式、クリスマス、イースター。シャバットを変え過越の祭の晩餐でする”マッツアと贖いの杯”を、過越の祭りは祝わず、初穂を祝わず、復活の命を表す穂を数える週を教えず、

イースターと言う異教女神の名を付けた復活祭と言うのを祝う。これはイエシュアが教えた事なのでしょうか?

過越の晩餐の中でされた儀式を月一度の聖餐式に変えた、これは

聖書に無い教えであり、プロテスタントはカトリックが決めて

作った神の記念日とは別の記念日や儀式を祝っています。

 

神の教えを差し引き変えた本当の理由は何でしょう?ローマ帝国に対して異物では無い、日曜日、日曜日=皇帝崇拝の日、土着信仰=太陽神崇拝日、それを祝う事で、ローマ帝国から、異邦人もユダヤ人同様同じくトラーを生きている!と批判され投獄されたり重税を課せられたりしないために、それが本当の理由で西洋教父達は別の日を復活日だからそれを今祝う=日曜日=ローマ帝国の記念日とぴったり同じ日に祝うことにしたのです。

プラス異邦人には最初からトラーの教えなど異物で仕方ないものであり、ユダヤ人に対しても敵対心があったからです。使徒15章のイエシュアを信じた異邦人の振る舞いを読んでも、彼らが神の教えを知らないまま生きていた事は理解出来ます。それが本当の理由であり、神が私達神の子らに昇天以降別の記念日を祝いなさいと伝えたからなどではないのです。

 

聖書に記された明白な事実があるのに、クリスチャンの世界ではずっと神が神の言葉を破棄したからだ!!!と説明し続けているのです。

こんな説明神の前に真実になるわけなどありません。神がそんなことを人に伝えていない!神の言葉に差し引き付け足すな!と

言っているからです。

どの日に集まろうと、それはフェローシップは有益なものですが、神が指定している聖別された日とは違えば、それはただの普通の日であり、聖別された日、神の創造されたシャバットの日ではない!他の理由で集まっていると言う定義が正しい定義なのです。

事実ではないことをあたかも神が伝えた事実であると言い続けることに真実に気が付けば耐えがたいことだと理解出来ます。

進化論が嘘!と分かったらそれ以降人間は猿から進化したなどと

2度と言えなくなってしまうでしょう。進化論は神の創造の真実を否定する発言であり人の考えた仮説=嘘だからです。嘘を本当とは言えなくなる!その違和感矛盾と全く同じことであることを理解すれば分かると思います。

 

神が人に伝えている永遠の真実、神の完全なる言葉に対して

偽証する事は耐えがたい罪なのであると、神の伝える言葉の真実に目が開かれたら気が付くのです。神が言ってもいないことを神は言ったとして、神が言われていない教えを伝え続ける事に、

違和感、矛盾、嫌悪を感じるのは当然の事なのです。人の世界でも友人が言っていないことを言ったとか、その人が言った事と違う事を誰かに言うことはその人に対しての偽証罪なのです。あなたは真実を語れ!と神が言われていることとは真逆な事を神に対してしているのです。

 

神の正しい教え、言葉を捨て去り、人の教えを高く掲げて信奉する行為それって、単なる人間の作り出した宗教の教えを崇拝する事ではないのでしょうか?神の言葉、教えを生きる代わりに、人が作った教えに師事し、信じ、生きる。神の言葉を生きる事を捨て、宗教の教えを生きる事をする。それは変だろうと思うべきです。人の創作話と神の教えの違いを聖書から見抜けないから変だと思わないだけなのです。

 

聖書を正しく解説しないで人の考えや思想で神の言葉を歪めるなら、何が神の真実なのか人に伝わらなくなってしまうのです。

その様に神の言葉を差し引き、付け足し、変形歪める様な行為は一切やめなくてはならないのです。

だから神の言葉だけに戻る!と言う悔い改めが必要なのです。

異邦人の世界では余りにも、神の言葉に対しての敬意が無く

”神の言葉は終了、破棄、古い律法だ!”などと言う思想が、神に対して真摯に向き合うことを妨害している!と言うことにさえ気が付いてないのです。それこそが人間至上主義です。今は人の考えで神の教えを自由に仕分けられる!と考えている思想に聞き入ってそう信じているからです。なんでも自由、どの日も聖別された日、なんでも食べ良い、何しても許される、性別もその人の好み、考え、フィーリングで選べる!!ソドムとゴモラに直結するのは、ほんの少しの綻び、その全ては神の言葉を曲げる、別の教えと混ぜる事から始まる事がはっきりと創造の最初から警告されているのです。

 

こう言うべきだと思います。聖書に書いてある事とは違うことを

実行している本当の理由は、それが西洋宗教の伝統であるからであり、神の言葉ではない!と言うべきです。人が聖書とは違う

教えや解釈を編み出して、それらを2世紀以降異邦人は継承伝統し伝授され、神の言葉は終了したと差し引きした教えが今は正義恵の教えと考え、聖書に記された神の創造された記念日とは違う記念日を今異邦人は祝っていると正しく言い換えなくてはならないのです。

間違っても、神が神の教えや記念日をを変えたと言ったから、

今クリスチャンは別の教え、別の記念日を神から生きる様に

言われているなどと神に対する偽証をしてはならないはずです。

 

福音書以降にも、56箇所に”シャバット”=安息日と言う翻訳語が書かれていますが、そこに記された記念日は、創世記からマラキとは別の日であるとクリスチャンは言いますが、それは10000%聖書とは異なる人の思想なのです。試しに自分で聖書を読んで神の前に問い合わせ続けたらきっと聖書に基づき神の伝える真実を発見します。

聖書だけに戻れば、そこに記されている全ての教えは100%

モーセの五書=父の教え=シナイ山で与えられた婚姻契約なの

です。

”シャバットは神が神の子らに与えた印、神との婚姻関係の中で

結ばれている証拠、見えに見える永遠の証拠、印!”と神が伝えているのです。

永遠不変の神の言葉の真実に気が付き、目覚めた人達は本物に

戻る事をするのです。クリスチャンが進化論、自分は猿から進化したなどと、神に創造された事を知ったらそんな考えは2度と出来なくなる、嘘を真実だと言えなくなる、その教えは嘘!と

はっきり分かるからです。

嘘が嘘!と分かったら、嘘を生き続けられなくなるのは当然なのです。

 

 

 

 

Shabbat Shalom