2000年近くの間、異邦人の教えの世界では、人が様々に勝手に作り出した教えのおかげで、神の真実の顔=神の本当の言葉を覆い、神の言葉から遠く離れる思想を植え付けられて来ました。
クリスチャンも、聖書は完全であり偽りのない神の言葉であると言いますが、実際はその様な取り扱いを神の言葉に対してしていません。人間の理屈で神の言葉を勝手に破棄し、歪め、変えているからです。そしてユダヤ人の世界の様に、聖書に何が書かれているのかを、全体を通して満遍なく常に学ぶ、教えられると言う教育システムがないです。その理由は、聖書の最初の部分75%は終了したからと言う思想があるからです。
終わった教えを熱心に学ぶ理由、意味必要などないと教えられていて、そう考えるからです。参考程度に読むと言うのです。
最初の部分を寓話化、比喩化して解釈し、書いてある意味を全て霊的な意味にすり替えてしまっています。だから今はいつでも安息日なんて異邦人は言いますが、安息日は”止まる”日で、いつでも安息日と言うなら、働く日がなくなり、全部休日!それは聖別=神が特別な意図通りに分かたれた日が存在しなくなった、全ては普通の日と言う意味であり、それこそ宗教、人の思想で神の言葉を真っ向から曲げているのです。
ある人にヘブライ語で聖書の言葉を学んでいると言ったらこう言われました。
”愛が大事”なの知ってるよね? ”律法に戻るなかれ!”と。
あたかも危険な教えに足突っ込み、神の言葉を生きる事が恵みを捨てた生き方だと瞬時に条件反射、反応する。
しかも神の言葉を学ぶ、神の言葉を生きると言う事に対して深い憤りを持っている事はその反応で明らかでした。
結局根本には神の言葉<特に古い箇所の>は要らない、廃れた悪いもの!!!と言う反神の教え、言葉、トラー思想ががっちり
クリスチャンの頭脳の中に根付いていると言う事は明らかな事実なのです。
聖書は、ガラテヤやローマやルカだけではない、聖書はマタイから始まっているのではない、聖書は創世記から、シャバットは
神の教えでは日曜日ではなく、第七日目=金曜日日没から土曜日日没までなんて言ったら異端?とちょいドン引きするのです。
神の言葉の真実が聖書には書かれているのに、それを信じない、
生きない、実践しない、その思想の裏にあるのは、神の言葉を妨害する敵の力です。エデンの園のあの動物と全く同じ存在です。
神の言葉に戻るなって一体どう言う思想?どう言う意味なのでしょう?悔い改めとある聖書の定義は、神の教えに戻り生きる!と言う軌道修正の事を言っているのに、それとは違う事をどうして主張しているのでしょうか?
神の言葉に根付いて生きよ!と神が教えているのに、神の言葉を破棄せよ、トラーに戻るな!と言い、神の言葉に逆らう教えを
唱え本気で信じているのは、ジーザスから来たら古い呪いの律法から人を解放し、ジーザスが神の窮屈な教えを終わらせて、今はなんでも感謝してなんでもして良い、感謝してなんでも食べて良い、自由な恵の時代がジーザスに与えられたのに、古臭い教えに囚われている=呪いの律法に囚われて生きる生き方、そんな生き方に戻るのは律法に縛られている証拠だ!と考える思想があるからです。神の言葉に縛られる?神の教えが窮屈、束縛と思う意識それはどこから来てるのか?どう言う意味だろうと考えないとなりません。
私達は律法の下にはいない!と言う言葉を、”私達は古い神の言葉の下にはもういない!”などと殆どのクリスチャンはそう教えられてそう信じていると思います。パウロが語る意味を完全に誤解した解釈、解説だけを聞かされてそう信じ込んでいるからです。
律法の呪いの下にいない。神の言葉は恵とまことに満ちていて、真理=神の言葉は人を自由にするとイエシュアが言われたのに、どうしてそれが呪いの束縛なのでしょう?
神の言葉の中に記された呪いとは、ズレにまみれて生きて、そこから贖われる事がない状態で、トラーに記された罪の責めの下にある状態の事です。でもイエシュアを通して信仰により義とされた人達はトラーに記された罪の責めの法則の下にはいない!と
パウロが話しているのに、そのパウロの言葉の意味をとんでもなくずれた解釈で誤解し、イエシュアを信じた人達は神の古い教えの下にいない!などと勘違いしているのです。異邦人はあちらこちらでイエシュアを信じた人達は神の言葉の呪いの下に居ないなどと教えられ人にもそう教え続け、語り続けてしまっているのです。
神の言葉の下にいない!神の言葉を生きない!と言う解説と、
トラーに記された罪の法則、責めの下に縛られていないと言う意味は全く違うでしょう。
聖書の正しい解釈に戻ろう!!!と言う事をしない限り、曲がった歪んだ聖書解釈を聞き続けていたら、神の言葉を曲げる変化球の教えを頭脳にインプットし続け、聖書ではない歪んだ人の編み出した思想を受け付けられてしまうのです。半分真実、半分嘘。
これこそが神が警告する姦淫の罪=混ぜ物の教えです。
熱いか冷たいかどちらかにして!と黙示録にあるのはそれです。
イエシュアに贖われ救われ罪赦された!その点は分かっても、
神の言葉で教えられている、神の子らの生き方が何であるのかの
詳細が見えないまま、それぞれが勝手な教えや勝手な思想で生きてしまう事が起きているのです。
聖書を誤解して読んでいる事、神の言葉は神が永遠不変と言っているのに、人の教え=別の顔に神の言葉が覆われて真実が見えなくなっているのです。
今の世の中嘘だらけの情報が流され、しかも堂々と法的に悪が
行われ尊い人の命や尊厳を奪い続けています。
クリスチャンの世界でも、自分の考える感じる選択で自分が誰かを判定して生きて良いと言う事を主張する人達がいます。神の言葉を正しく教えなくてはならない牧師がトランスジェンダーを
堂々と発表して生きていると言うのもあります。
それは、神の言葉に照らし合わせたら、”民から絶たれる”と言う
生き方なのです。偽物の羊飼いは羊の群れを導いてはダメなのであり、危険なのです。神のデザインに反する事をするのは危険!同時に人を誤りに導く事をしてしまう、神の子らの聖別を失う。
自分の生き方が他者を破壊してしまうと言う選択をして良いと言うソドムとゴモラの再来を招いて、イエシュアの性質を地上で反映できない、神の名=実態を汚す生き方を選択しているのです。
おぞましい出来事が長い年月に渡り平然と行われていても、何も
正されないまま黙認され、多くの人が被害者になっているのです。
神の御名を悪用して悪事を働く人に対して、この人は神に選ばれたリーダーなのだから、何も苦言を呈してはならないと、暗示をかけられてしまうそうですが、危ない目にあっていたなら、その場を抜け出さないとならないし、安全な人に助けを求めくてはなりません。それはイエシュア=神から出たものではなく、悪から出たもの!とはっきり認識すれば目が覚めます。
なんでも受け入れることが愛と言うクリスチャンがいますが、
神が伝える愛の詳細はモーセの五書=神の与えた婚姻契約の生き方の中に記されているのが愛の定義です。だからモーセの五書
トラーを破棄して無視する場合、その中に書かれた神の伝える
永遠不変の真理、教えは知りません、理解してませんと言うことなのです。愛の定義の詳細も見えなくなります。だから今はなんでも許されるなんて言う思想を主張しているのです。
イエシュアが語られた教えは100%モーセの五書、イエシュアが語る愛の定義、互いに愛し合うとは、モーセの五書に記された、個人、夫婦、家族、共同体の生き方である!と言う事実にまず気が付いて下さい。聖書には福音書以降も、モーセの五書に記された教え以外の別の教えなど1つたりとも記されていない!と言う事実が見えないまま聖書を読むのは、モーセの五書を学ばないからそれが本当の問題、原因、理由なのです。
何でも受け入れましょう〜!それが愛です!でもそれは神の教えではないです。神の教えに根付かない知恵の無い教えです。
仲間内でズレた事をしている人がいたらまずその人の所に言って向き合い話しなさいとあります。それでも聞かないなら他の人を連れて一緒に説得しなさい。それでも軌道修正、悔い改めないなら仲間から絶たれるとあります。当然でしょう。
他の人が破壊されてしまうからです。
なんでも受け入れる事が愛なんて考えたら、あなたの大事な家族や子供が必ず破壊されます。知恵ある人はトラーを知らなくても腹に書かれたトラーがそれを知っていてその様に行動します。
ソドムとゴモラ=悪霊が影響を及ぼし、周りを見るとおぞましい
画像や映像など、おもちゃやお菓子の中にもその様なものが取り入れられてしまっています。私が育った時代には見たこともない様なおぞましいものの数々、漫画やゲームも残忍極悪、サブリミナルの画像映像も子供の映画の中に入れられている。誰かのお家は二人お父さん、又はお母さんが二人いる、子供は代理出産か
ドナーにより産む。これ神のデザインの破壊、腐敗汚染です。
ある動画で、アメリカの男性が15歳、十代の一番多感で大事な時に、父親がいきなり女性になりその男性は大混乱し、自分が男性と言う事は疑いなく確信しているけれど、自分が男の子の子供を持って父とは男性とはと言うお手本が無いから、どう子供に接して教えたらいいのか、いまだに分からず悩んでいると告白していました。神のデザインを破壊する人は本人のみならず、周りを
破壊、混乱に陥れてしまうのです。
その様な自由気ままにジェンダーを選ぶ人達は、その様なことを批判する事は悪いと主張します。神のデザインを破壊する人達が
今や堂々と市民権を得て発言し、神の教えに基づいた正しい主張は黙らされてしまうのです。悍ましい神の忌み嫌う事を生きて、周りを破壊し汚染している。
その様な環境に育つ子供は本当に気の毒でならないです。
子供達は、なんでも受け入れる事が良い事と教えられ、人を批判してはなりませんと教えられているのです。人を只批判する事と、何が神の教え、言葉であるかを識別し、はっきり理解して発言し生きる事とは別です。なんでも受け入れると言うのは、正しい評価、判断知恵の無い状態、危険な状態なのです。自分や愛する人達、隣人を守る責任が神の子らにはあるのです。
なんでも受け入れようと言うなら、それは世間とは違う聖別された人の生き方ではなくなってしまいます。危険因子を自分の中に取り入れてしまう。これはこれから大々的に世界で、日本でも行われて行く事なのです。その裏に存在しているのは”サタン”である事を神の子らは理解しないとならないのです。敗れた戸口に立つ人達、神の子らは世界の修復の役割を担っているのです。
さて、この様な悲惨な事の中で神の教え、知恵は光であると再認識する内容があります。クリスチャンの中では誤解されて読まれている内容ですがどう言う意味のなのか、闇の世界ではさらに
輝く光としての神の知恵であると認識出来ます。
ガラテヤにある”トラーの下に監視されていた”と言うパウロの言葉に匹敵する、分かりやすい例を上げてみます。日本でも地方に住む場合隣近所の人達との関係が密で周りの大人達が子供に目を
向けて、皆でこどもの様子を見守っていると言う所が多いと思います。
聖書に記されているイスラエルの神の民の共同体は、囲いの中=固い塀と門がある町の中に住み隣近所皆知っている。そして町の中に入るには、門があり、そこには敵や不審な人達が入り込まない門番がいたのです。
門番は昼夜厳重にその門で見張りガードしていました。そして
町囲みの中に住む人達はトラーに沿って共同体の生き方を守って生きていたのです。その中に住む人が皆神のトラー=教えに沿って生きていたら、それはそれだけで安全な場所であると言う事が理解出来るでしょう。
誰も盗みをしない、誰も違反をしない、神の教えから外れた事をしない、他者を破壊せず、お互いのシャロームをガードして生きる共同体。そう言う場所は安全なのです。
子供達がイエシュアに出会う前でも、神の教えを子供達が全部理解出来なくてても、神の教えを生きる大人が自分の周りに存在する共同体に安全に生きていればそれだけで、その子らは神の教えの保護の下、安全に守られる環境に育つのです。
子供が非行に走る様なことをしたら、町中の全ての人達が見ていて、そのズレから引き戻す事をするのです。
と言う事をまず理解してパウロが書いている事を読めば見えます。
パウロは当時の世界で子供を教育する環境の中での養育係を
トラー=モーセの五書にある様々な側面、役割になぞらえて教えていると言う事を知って読んでみて下さい。
ガラテヤ3:22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちはトラーの下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
続く