創世記2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
聖書では”名”は実態、評判、性質を表すものです。
日本語でも名は体を表すと言う事を言いますね。
この箇所を読んでも、アダムは神の言葉通りに耳を傾け考える事をする状態である時には、神が見られる通りを見ていたと言う事が分かる箇所でもあると思います。
神の口から出た言葉で世界の中に満ちる全ての物理的な創造物が地の面、水の中に現れ出ました。そしてアダムの口から発せられた言葉で、神が創造された創造物の性質通りをその通りに言い表して、アダムの言った言葉がそのままその創造物の名前になったとあります。
神が創造された、神の性質に似せられた人は、神の目から見る通りを見て、神の創造されたものを見て名を付けたと書かれています。これが神の創造された人の生き方である事、神が言う通り
神の性質通り考え発言し行動する!それが最初から記されています。
神の言葉を退けて、アダムが違う事を言ったとしたら、それは神の創造された性質通りの名=実態を表す名を付けられない事になります。人が神とぴったりである状態は神の思索とぴったりである状態、それは神の言葉通りを理解してその真理の中に留まり
考え生きている状態であります。
神を求めて生きよと言われたら漠然と考えますが、神の言葉を求めて生きよです。言葉=イエシュア=神ご自身=聖霊であるからです。壁に貼ったアイドルの肖像、画像、偶像の顔を慕い求める
とは全く違います。相手との深い関係に入るには、深い会話、言葉を通して相手の考えている事に入る、理解する事でも分かるでしょう。
神が造られた創造物ぴったりの性質を言葉=名前にして表し、
アダムの口から発した。神の意図通りの名前を創造物に与えたからです。これが人間の本来の生き方、状態だったのです。
神が考える通り、神の目から見る通りを見て生きる!その状態を
飛び出したのは、神が言われた事とは違う事を頭脳に取り入れ
本来の状態では無い領域に頭脳が飛んだと言う事から始まったの
です。織物を表から見るのではなく、裏側から見る様な思考回路。神の様に善悪を見ると言う事は人間には備わっていない、
出来ないのに、その様な見方をする領域に入ってしまった事。
本来の状態から切り離されてしまうと言うのは、全て神の言葉を無視した事、無視した生き方から生じるという事は聖書を読んでみたら明らかに分かる事です。それはどの時代も同じです。
しなさいと言う事をしないで、するなと言う事をする人間のズレ。神の言葉を無視している!と言う同じ共通点、問題の根は全く同じです。
創世記2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、
そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
聖書の最初の最初から神は神が創造された世界、時に関して、
そして第七日目の日=時を聖別している事、第七日目を祝福し聖別したと書いてあります。これを人間が無視したのです。
聖別という言葉が最初に神が使われたのは、神の時に関して、
シャバットに関して使われたのです。そして聖書では聖書に使われた言葉の意味通り聖書全体に渡り最初から最後までその言葉は同じ意味で貫かれて書かれています。
だから神の言葉が途中で変化したと言う異邦人思想は、聖書を破壊する思想であり、書いてある事を曲げてしまう教えなのです。
同じ意味で、同じテーマで聖書は最初から最後まで記されているからです。そのテーマは、1トラー 2 メシア 3福音です。
神が伝える人の生き方を無視する事は、神に反する事、神の意図
意思が見えなくなる事であり、神の言葉から離れて生きる事は
人に取り損害、命に匹敵する損失があると神が聖書全体でずっと教えているのです。
神に言われた通りをしたくない!自分達の名=実態を神に優って上に高く上げよう!自分達の考えでこの世界を支配しよう!
バベルの塔の事件でも同じ警告が書かれています。
創世記 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
シャバット第七日目を祝う理由は、復活を特に強調して記念するのではなく、神が復活の命の事実も含め、全ての業を地上で物理的に表し完成したから!と書いてあります。これは永遠に変わらないのです。シャローム=欠けない状態、全部がこのシャバットの中に入っているのです。人の本来の生き方に戻る!
神が創造された通り、神が創造された時、神が創造された聖別された日、本来の状態、欠けのない状態を神の子らが神に呼び出され招かれて皆で祝う日です。
そして全ての創造物が揃った後、人が最後に稼働します。
クリスチャンは復活を記念して、日曜日を聖別し祝うと言いますが、これは人がそう決めて人が聖別=人の考え目的で取り分けた日であると言うこと、この日曜日が安息日となったと言う聖書には無い教えが浸透したのは、2世紀以降なのです。
そして神の仰せとは違う!!!シャバット、神の記念日は変更などされないからです。
復活を記念して祝いたいなら、その事実も神の記念日の中で祝うシャバット=安息日は神の完了の業、新しくされている事実
イエシュアを通して取り戻されている神の子らの記念日であると
神が語られました。
神の子らは、神の婚姻契約書に記された約束、教えを通して
成り立っている!と神は言われました。詰り贖われた人は神が
伝える神の子らの生き方をガードし生きる!と言うことに同意して生きると言う大前提があるのです。
神の家族の一員としての生き方を破棄する!それは婚姻関係にある実態を放棄すると言うことです。
どう言うこと?神が伝える生き方を無視すると言う意味は、神の家族としての生き方を無視する、又は部分的に自分の選択で神の
教えの一部分を生きますと言う妻の勝手な振る舞いをする、でも
それは神が望む教えている事とは異なりますと言う事です。
宗教の教えの基本は人間の教えが第一!だから神の言葉は破棄
終了と言い神の言葉を退けているのにそれが正義だと思う不思議な教えの世界なのです。
では聖書では何と言っていますか?
出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、
永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
31:18 主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。
神との婚姻関係の中にある印!表向きに目に見える印、婚姻指輪
の様な印がシャバットなのです。神が人に与えて下さった印=
婚姻指輪をポイ捨てにする思考回路は妻の意識は無いと言う事
でしょう。夫の言うことなんて大事じゃない、自分の考えが第一!
神の口から語られた言葉、肉声をモーシェが聞いたのです。
神の声で語られた神の言葉が文字にされている!私達はモーシェが神から音声で聞いた同じ神の言葉を文字を通して読んで目で見ているのです。音声では聞こえないけれど内容は同じである!と言う事実に気が付いて、襟を正して神の言葉を聞いたら見えます。
神の言葉に古い、有効期限切れ、賞味期限切れなどありません。
永遠に完全完璧どこも手直しする必要のない神の言葉!と言う
神が語る事実だけを聞けば、同じ神がモーシェに伝えた同じ言葉
が今目の前に文字で再現されているのです。
イスラエルと書いてあるから異邦人には関係ないと言う読み方を
教えられますよね。でもここの箇所、出エジプトして来た人達
イスラエルと言う国家が初めて形成される時ですが、この中にも
イスラエル同様神の声を聞いて信じて出エジプトした異邦人が共にいたのです。そして、神はイスラエルと共に住まう異邦人も同様に!しかも家畜も使用人も全ての人がシャバットをガードして祝う!と教えているのです。神は人種ごとに別の教えなど与えていません。
イスラエルとは代表=大家族の名です。もしイエシュアを信じるなら同じイスラエルのこの婚姻契約に加えらた事実をまず知る必要があるのです。
聖書の中に日曜日礼拝など1度も記されていません。聖書には誰も日曜礼拝を祝った記録もありませんし、西洋宗教の祭りも祝った記録も書かれていません。聖書に書かれていない事を宗教の教えの伝統で実践しているだけなのです。そして昇天以降も全ての人はシャバット=第七日目を祝った、神の記念日を祝いトラーを生きていた事だけが記されています。その事実に目を背けると神の教えなど頭脳に響かないし、自分には関係のない教え!と信じ続けてしまいます。
シャバットが第七日目以外の別の日の事であるわけないと、
ヘブル書にも書かれています。この様な記述を無視しないで考えれば誰でも真実に目覚める事が出来るのです。
伝統で語り継がれている人の教えと、実際聖書に記されている
神の言葉は違う!と言う事があるのです。
ヘブル 4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
<心を固く無にして神の言葉を聞かない!と言う性質は同じです。>
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
異邦人の世界宗教の教えでは、他の日の事を安息日などと語っているのです。
休ませた=第七日目のシャバットに休ませたのです。それ以外の
休む日、シャバット=止まると言う名が付いた日は週の中にありません。唯一名前が付いているのは週の第七日目だけ!特別な
意味があり、神が第七日目を聖別し特別な名を付けているからです。日曜日は労働の第一日目であり安息日などではありません。
聖書の事実ではない事が平然と1900年近く異邦人の世界では
語られているのです。聖書とは違う!言っている事が聖書とは違う、おかしいと思わないとならないのです。
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
人は勝手な教えを自分の理屈、理由付で付けで創作しつづけているだけなのです。
人の教え、理由付でもう一つ良い例があります。
”父と母を敬え”と言う出エジプト20章にある10の言葉を取り出して、母を敬う事は神の仰せだからジーザスの母マリアを崇めるのは正しい事だとカトリックの人が解説してくれましたが、
神の教えの意図から全く逸脱してる教えです。
死者に祈ったり、人間に祈ったりする事は、禁じられている事
です。これこそが宗教の教え=人の考えで編み出した人間中心主義の教えです。
そう言う様な理由付で人は様々な宗教の教え、神が伝える真実とは違う事を語り続けているのです。ジーザスの母マリアは神同様だからマリアを神の如く崇め祈れとそんな事聖書のどこに書かれているのでしょう。
続く