律法の下にいない 養育係の下にいないとは? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ3:22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。

3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちはトラーの下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。

 

何の下知識がないままこの文章を読んだら、神の言葉があたかも悪いものであるかのごとくに、意味が分からないまま読んでしまいますよね。しかも律法は悪!終了!なんて教えられ続けてしまっているのだから、その様な色眼鏡から神の言葉を読んだら完全に歪んだ解釈しかできません。だから、当時の世界の様々な背景を知って読まないとパウロの語る事も見えないのです。

22節にある、聖書=トラー、預言書、諸書です。福音書以降

聖書として存在してませんから、聖書に聖書とあればそれは

100%全て、トラー、預言書、諸書のみを指して聖書と語っていると言う大前提をずらさないで読んで下さい。

 

トラーには罪の詳細の全部の定義が記されています。福音書以降は罪の定義の詳細は書かれていません。トラーの教えの一部抜粋のみが福音書以降には記されているだけです。だから福音書以降だけ読んでも神の前に罪とは何か全体像はちゃんと理解出来ません。

聖書に記された罪の下に閉じ込められていたと言う意味は、

事実です。全ての人は神の言葉、教えからズレてしまったからです。それが聖書=トラーに記されていると言う事を言っているのです。

では、神の目に罪が何かを人に知らせないために、神の言葉は

邪魔、不要と考えますか?それって愚かしい教えです。

罪が定義されないために、罪とは何かを知らせない?

違反と分かるのは、違反の定義があるからです。では違反をなくすために、違反の定義を廃止しよう!世の中の法律もルールも全部消したら、罪に定められないからそうすれば良いと言うのと同じです。

それでは、危険な無法地帯を生み出そうと言う教えです。人間が

生きられない場所になります。それってソドムとゴモラ、ノアの時代の無法地帯、全部消し去らないと人が生きる事が出来ない世界と同じになります。

これはよく考えると、律法=悪い=廃止!と言う思想と全く同じなのです。

神が人に教え伝えているのは、神が創造された神の似姿に造られた人間の生き方、それがモーセの五書に記されているのです。

でもその生き方は古い教えだから破棄された!と言うなら、罪の定義は大部分消えて無法地帯、危険が何かも人に知らせない事になると言う事に気が付いているのでしょうか?今の世界の無法状態は、神の言葉を捨てた結果です。クリスチャンが神の言葉を自由に生きて良いと考えるから、ジェンダーフリーOkと本気で信じている多くの人がいるのです。体に傷を付け、異物を取り込み

神の宮を汚す生き方を平気で推奨できるのです。

 

エデンの園で、神が知識の木から食べてはダメ!と言う事を人に伝えたのは、その実を食べたら死ぬ!からでした。

罪がなくなるために罪の定義を知らせない事が正義?その思想は

神の言葉を破棄すると言う教えです。

 

そして、人は神との関係を回復するには、信仰によりイエシュアを受け取る以外に無い!と言う事を最初から教えられているのです。

創世記15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

アヴラハムは、未来に地上に来られるイエシュアの事実=永遠の中に完了したイエシュアの業を同じ様に知っていた事が記されています。アブラハムは神の口頭でその事実を教えられ、それを

信じて”義”とされたとあります。義とされる唯一の方法はイエシュアの贖いの業=子羊の血の代価で贖われる事を通してだけです。永遠から永遠にいつの時代もどの人種にも同じ福音、同じ

救い=イエシュア、神の同じ教えが語られているのが聖書なのです。

人はイエシュアに出会うまで、わたしたちはトラーの下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。

と書いてあるのを読むと、束縛窮屈と言う印象を受けますが

全く違います。神の言葉に対してその様な意識であると言うことは神に対して持つ意識とイコール、神との関係を図るバロメーターなのです。

この意味は、もしもイエシュアに出会う前も、安全なコミュニテイの中に住んでいたら、安全な家族の中に住んでいたら、分からないまま、腹に書かれたトラーを生きる様な生き方をして、

危険や不道徳から守られる事なのです。

全ての人がイエシュアを信じる前に犯罪など犯したり、とんでも無い不道徳な世界に生きるのではないのです。神の言葉=トラーの役割は、もしもイエシュアを知らない状態でも、神の言葉を知っていれば、それに沿って生きれば安全に守られると言う側面があるのです。

誰でもイエシュアを知らなくても神の言葉を通りを生きていれば、それは自ずから安全に守られる事実をパウロが話しているのです。

だからトラー=神の言葉は、イエシュアに出会う前でも、人の命を安全に守り生きる事を促すと言う役割の側面があるのです。

もし自分の住む町の人が仮に皆が神の教え、トラーに沿った生き方をする人々で満ちているコミュニテイなら、安全に住まう事が出来ますよね。それとも神の言葉を無視して生きる人々で形成されるコミュニテイの方が安全だとでも言うのでしょうか?

ある国のある都市など皆が犯罪を犯すので子供など決して外に

出して遊ばせる事など出来ないと言うのを聞きました。

ここまでは人がイエシュアに出会う前の事が書かれているのです。24節も同じです。

3:24 このようにしてトラーは、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

イエシュアに出会う前にも、良く分からなくても神の言葉を聞いて生きている人は、イエシュアに出会うことに導かれる道を知らない間に歩いていると言っているのです。やがてイエシュアに出会った時に神の言葉の意味が深く理解出来る様になる。

それを養育係として表現しているのです。トラーはイエシュアに出会うための役割の側面があるとパウロは説明しているのです。

養育係とは当時のローマ人の中では割と裕福な家庭に召使がいて教師の元に子供を安全に運ぶと言う役割をしていました。

それが教育係です。でも教育係は教師ではないのです。教師=

キリストの元に連れて行くと言う役割がある、それがトラーの

役割の1つの側面でもあるからです。人が新生体験していなくても、神の聖霊により書かれた言葉を読めば、それが何を意味しているのか意識を向ければ、やがてイエシュアに気が付くと言うことを話しているのです。

 

3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、

もはや養育掛のもとにはいない。

 

養育係の元にいないと読んで、イエシュアに出会えば神の言葉は

無用などと言う浅はかな、人が考えた教えを信じていたら、神の伝えることが見えてきません。イエシュアに出会うまでは、トラーはイエシュアに導くと言う、その様な役割の一面があったのですが、キリストに出会えばイエシュアに導かれると言うその側面の役割はもう終了した!と言う事を話しているだけです。

 

イエシュアに出会った後は、新しく創造された人=内側に聖霊が住まう人には、トラーは今度は聖霊により神の教えの実態を実際に生きると言う別の段階に移行すると言う意味なのです。

この点を多くのクリスチャンは誤解しているのです。

それは、救われたら神の言葉を生きる必要がない!と言う教えを唱えた異邦人の思想、神学を教え込まれているからです。

19世紀イギリス、プリマスブレザレン教団のダービーと言う人物がデイスペンセーション神学を唱えましたが、その教えの根は

2世紀のマルキオン、時の異端者とされた人の思想と全く同じ事を唱えたのです。マルキオンは、福音書ルカと、あとは1、2のパウロの書簡を読むだけでそれで全て事足りる、神の言葉を生きる必要はもうない!と唱えた通り、ダービーも同じ事を主張しました。その様な思想は、正しく聖書を学んだ人が語る教えではないです。聖書では無い教えが簡単に人に受け入れられるのは、

神の言葉を理解しない肉の耳、目、頭脳には心地よくそれらしく

素晴らしい自由と言う風に聞こえるからでしょう。

 

そしてその様な思想を持つ教師に教えられてしまえば、その弟子たちは聖書を曲げた教えを他者へ教え続けてしまうのです。

教師の責任は本当に重いものなのです。

 

この悲惨な負の連鎖が歴史の中でずっと続いているのです。

この様な教えは、トラーを知らない異邦人には魅惑的でもあります。何か新しい真理の発見をした最新式の教え!?自由と言う言葉も魅惑的、縛りの教えが消えた〜!?神の言葉を縛りと捉える思考は、神を誤解した思考回路で考えているのは明らかです。

親心、親が伝える真実を何も分かちゃいね〜て事でしょう。

幼子が親の言う事が理解出来ないのと同じ。

 

現に異邦人の世界、クリスチャンの世界は20世紀ダービー思想旋風が吹き荒れ、その思想に則った”スコッフィールド チェーンバイブル”人の思想の解説注解が聖書に記されたものが出版され、多くの人はそれを読み学び神学校の講壇からは非聖書的な教え=人間の思想神学が教えられたのです。聖書=原典聖書ではなく、人の思想=神学が神学校で教えられてしまったその影響が今も多大にあるのです。そんな神の言葉を塗り替えり教えを注解する聖書は存在してはならなかったのです。

 

私は自分が人の思想や神学を聞かされているなどと言う事は、

ヘブライ聖書の学びに出会うまで全く気が付けませんでした。

その教えしか聞いた事がなかったからです。でもなんか変だと言うことはずっと感じていたし、考えていました。

学び始めて約4年後にやっと目が全開になり、唖然としました。聖書に書いてある言葉の本当の意味を学んで行く上で、徐々に徐々に神が伝えている真実が目の前に見えて来て、真実の点と点を繋げて行く上で様々に気がつくと言う連続をしていたのです。いっぺんには神の言葉に対する誤解の呪縛は解けないものなのです。脳回路が出来上がって、先入観と言うフィルターを通して聖書を人の教えに変換し続けて読むからです。

 

そして聖書に書いてある事に気が付くたびに、その時即座に神の教えに戻ると言うその繰り返しをずっと続けて、悔い改め〜軌道修正をしたのです。神が言われる事の方を取り、人の教えの伝統を生きるのをやめた、いややる意味がないからやめた!と言う事です。

進化論が嘘!と分かれば、もうそれ以上嘘が本当などと言えなくなりますよね。それと同じ事なのです。神の伝える本当の事が分かれば、人の教えが偽物!と分かり、それを止める。神の伝える本物の教えを生きる!それに切り替える!それの連続です。

神の教えを知らないままに退けて、神の教えではない、人の教え=宗教が作った教えを熱心にしていた、その損失に嘆き悲しむ事をしました。

人の教えではなく、神の言葉を知りたい!神の語る言葉こそが

人を生かすもの、喜びの源泉に戻る事である事を知ったら

益々その願望は募るものです。なぜなら、人は神の真理で造られているからです。あなた方は真理を知り真理はあなたを自由にする!とイエシュアが言われた通りだからです。不真実=人の混ぜ物創作の教えは神の真理では無いからあなたを不自由にする!と言う事。

 

 

続く