神の実態を人に伝える代表者の重い責任 大祭司の犯した罪の結末 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

地上の神のミシュカン、神殿〜神の臨在が住まう場所に仕える祭司達は、レビ族の男子だけが出来る役割であると、神が任命しました。そして大祭司はアロンの家系の男子だけと言う事が書かれています。

 

この事実だけでも、神の選びは神に取り絶対であり人が自由に

変更出来るものではない事を神が人に伝えているのです。神がそう言うならば人は何も口出し出来る隙間、可能性はない。

神が伝える神の言葉も同様、神が永遠不変と言っているのに、

人が横から一時的、昇天以降終了、変更された!などと勝手に

言い続けて、宗教の教えを作り出し続けてしまっている!と言うズレにまず気が付けば、聖書に記された永遠の真実、真理が

見えて来ます。伝統で根付いて語られ続けている人の教えではなく神の言葉、神の言う事実を取ろう!!!

 

神が決めた事を色々勝手に変えた人、罪の代表として書かれているのが、ヤラベアム王です。ヤラベアムの罪とずっと聖書に記されているのは、神の言う事を人が曲げ、歪め、変えたからです。

しかも人の上に立つ王の立場である人がその様なことをした。

これは宗教の世界も同じです。一般の信者が神の言葉を曲げて教えるのではなく、学者、教師、牧師、伝道者、上に立つ人達、

権威を持つ人達が講壇から聖書とは違う人間創作の教えを語り続けるので、それを聞く普通の人がその非聖書的な教えを聖書である!と信じてしまっているのです。そして一般の人が、教師に習った事を他者に伝える、この負の連鎖の連続なのです。

イスラエルの王は祭司ではないユダ族ですが、祭司と同じ性質を

生きる事を任されています。

王は国民を正しくトラーの教えに導き、保護し、必要を提供する役割があります。

イスラエルの国以外の王とは意味が違う役割があります。

 

ヤラベアムの罪は何であるかが記されています。これらの神の教えは永遠に同じ真理であり、現代も同じです。神の言葉を神を代表する人は特に違反、破ってはならない事を教えています。

 

1列王記12:26 しかしヤラベアムはその心のうちに言った、

「国は今ダビデの家にもどるであろう。

12:27 もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。<自分の身を守るための、苦肉の策です。>

12:28 そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。

 

このセリフどこで誰が言った言葉でしょうか?出エジプトしたばかりの人達はモーシェがシナイ山の上に神に呼ばれて行ったまま

全然戻らない事に不安を覚え、見捨てられたと考え、そして自分達の代替え方法で安全確保をしようとしました。しかも大祭司の

家系となるアロンが民に呼びかけ金銀を集めて金の子牛=エジプトで培った自分達の礼拝方法で、イスラエルの神を拝もうと

決めるのです。

出エジプト32:4彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。

 

エジプトの地から導き上らせたのは、モーシェでもないし、金の

子牛ではない事分からないの?と思いますよね。イスラエルの神

が奇跡を通してあらゆる事を可能にして、道無き所に道を備え導き上って来たのです。でも私達も同じ事を繰り返します。

忘れる、不安になる他の方法にしがみつく、考えだすと言う事をしてしまうのです。

 

1列王記12:29 そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。

12:30 この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを礼拝し、ダンへ行って一つを礼拝したからである。

12:31 彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。

 

この箇所に何が神に対しての違反なのでしょう?まずレビ族では無い部族の人を祭司として任命した事。そしてエルサレムの神殿ではない別の場所に、礼拝場を作り、金の子牛をそれぞれエルサレムとは違う場所に設置しその偶像を通して礼拝している事です。

そして、”高き所”と聖書には数々書かれていますが、これは異教の神々を拝む礼拝の場所です。

モレク神に子供の生贄を捧げていた場所に、イスラエルの神の

礼拝場=高き所を作った。2つの大罪があります。異教の神々の

礼拝、偶像と異物の混じったもので礼拝する場所を作る。

混ぜ物の礼拝。半分聖書、半分人間創作の教えで神を拝む。

これは宗教の世界でたくさん行われ続けている事でもあります。

そして、神の宮はエルサレムの神殿だけ、そこの祭壇でのみコバンを捧げる事が可能なのです。

 

1列王記12:32 またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように

行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。

12:33 こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。

 

ここには何が書いてありますか?神の定めた祭り、神の聖別された祭りを別の月に変更して祝う事をしたと書かれています。

エルサレムの神殿に都上りをして祝う秋の祭りは第七の月の15日、仮庵の祭りの7日間の事です。これを第八の月に変えて、

しかも勝手に別の場所に祭壇を作り香を焚いたとあります。

 

ある人々は今はいつでも何曜日でもシャバットであるなどと主張します。それでは神が聖別されたシャバットではなくなります。神が聖別された意味、その日は消えてしまいます。神の意図した目的通り分かたれている=それが聖別と言う言葉の意味です。人が時を自ら清め聖別してもそれは神の前には全く無意味なものなのです。神の定めた記念日を捨てる事、人が作った記念日の方を尊重する事、それらの行為は、ここに記されている性質のズレと全く同じである事は、目が開かれた人達なら神の永遠不変のメッセージにハッと気がつくはずです。

ヤラベアムにとっては、神の伝えた事と別の事をする事に対して

何のズレも感じないほど、神の教えている真理から遠く離れている事が記されている事を読み取らないとならない事が記されているのです。

神の言われた事ではない事をして、神が言われた事をしない。

これは神の目にはどの時代にも今もズレでしかないのです。

 

ヘブル書にも、ヨシュアがシャバット=第七日目の安息の事を

指して語ったら別の日の事を話しているのでないと書いてありますよね。シャバットは第七日目以外に無いからです。ヘブル4:8

神が全てを創造されて止まった、その安息の意味をシャバットで

教えている事、その安息の意味、イエシュアの提供する状態を

聖書では最初から最後まで教えているのです。神のメッセージや

言葉、教えを変えたら神の言われている意味が把握出来なくなってしまいます。

人間は自分の理屈、理由づけで勝手に神の教えを変え続けている!と言う罪にまず気が付いて悔い改め、神の言う事だけに戻ると言う大きな軌道修正が必要なのです。軌道修正する必要がある

と言う事にさえ気が付かない場所に飛び出していると言う事が

問題なのです。

 

王のしたズレ罪でも分かる通り、アロンの家系の大祭司である彼らがこの地上の神の家に仕える重大な任務を与えられたのですが、それは本当に考えるとズレた思考回路でこの様な事をする事は死に値すると言う事をはっきりと教えられています。

 

彼らは、神が伝えた事とは違う事を人前で発言し、行動、パフォーマンスしてしまえば、神が伝えている意図通りを人々に伝えられない、神の性質を人に歪めて伝えてしまい、神の栄光を地上でそっくりそのまま反映出来なくなると言う事をまず知らなければならない、それほど神の言葉を曲げて行動する事、特にイエシュアを地上で代表して実態、栄光を表す役割を与えられた人達は

その様なズレをしてはならないと言う神の絶対なる権威の警告なのです。

それくらいどうって事無い、良いじゃない〜!少し位ズレても

多目に見てくれよ!これらは肉の目が語る言葉であり、神の絶対的権威、神の言われた事を忠実に反映する役割を祭司は与えられている事をはっきり教えている事を知らなくてはならないのです。だから神の宮である神の子らも同等に神の性質、神の教え、神の伝える言葉とは異なる人間の思想や教えに変形させ歪めた教えを人に教え行動で伝えてはならないのです。

そして様々に誤解してはならない事があると思います。

大祭司、レビ族アロンの家系の男子、大祭司レビ族の男子ですが、これは地上での神殿に仕える人達です。

でも天の大祭司はメルキゼデクの位に属するイエシュアです。

誰でもイエシュアに繋がる人達は、天の祭司=神の宮であると

教えられるのは、神の宮の実態、詳細、レビ記に記されている様な事柄を理解すると見えて来ます。

 

神の子らは、どの時代にも神の口から出た1つ1つの言葉により

生きるとあり、インスピレーションにより勝手気ままに生きる

自由があるなどと教えられていません。聖霊に導かれて生きると

言う意味は、神が語った言葉にぴったり沿った生き方なのです。

ヨハネ1章を読めばずっと言葉、言葉と記されています。

 

言葉=神=トラー=イエシュアと言う意味です。イエシュアは

100%トラーに記された実態を生きて見せて下さったのです。

誰も体験した事のない生き方、100%トラーに記された神の

似姿の性質通りを生きたと書いてあります。

 

宗教の教えは人の考えや思索、人の思い付いた教理が混ぜられてしまっているのです。その問題の根は神の言葉を曲げて歪めている事です。この事実にイエシュアに繋がる人達ははっきりと気が付く必要があるのです。

宗教の教えと、純粋な神の言葉、オリジナルヘブライ語聖書に

記された神の言葉とは異なるものです。

 

ある人がこんな解説をしていました。モーセの五書=トラーが

昇天以降終わりになったと言う理由が聖書に書いてあると言い、

こう説明されていました。もちろんそんな事は聖書には書いてませんが、神の言葉に無い人の理由付けと言う世界を語っているだけです。単にその人の考えを言いながら、あたかも神が言っているなどと解説したのです。

神殿に仕える祭司は50歳で任務を終えるけれど、今牧師は何歳になっても働くから、モーセの五書は終わりましたと解説されていました。

その考えがどうして聖書とはズレているのかいくつか理由があります。

1つは牧師と言う職業と、地上のエルサレムの神殿に仕えるレビ族の祭司達とは違う性質の職業であり、違うカテゴリーに属します。

もちろん、神の言葉を正しく人に教えると言う面、神の言葉を

同様に生きて人に教え導くと言う同じ責任、性質はありますが、

全く違うのです。しかもレビ族では無い人達プラス異邦人である牧師はエルサレムの神殿に仕える事など出来ません。

今の時点では神殿は崩壊されて機能していませんから、祭司制度は停止状態です。誰も神殿で1世紀の様に神殿が稼働し機能している様子を体験する人達はいません。

2つ目は、聖書に記されている祭司達の任務がどの様に激務であるのか全く理解していないと言う問題があります。真冬でも裸足で神殿の床を歩く、神殿の中では様々な肉体労働がある。夜勤がある。動物を屠る時に動物を抑える様な力を80歳の老人になったら出来る訳が無いと言う事が分かっていないのだと思います。だから、肉体的にその様な激務が出来る年まで、祭司達は働けると言う恵みの定年を神が与えているのです。

 

聖書を教える教師と言う職業の人が、祭司達の任務、役割の現実と、普通の人の生活とごちゃ混ぜにして考えると言う事自体、

聖書に記されている意味や内容を正しく把握しないまま人に人間の考え、人の教え伝えていると言う問題があるのです。

しかも、牧師と祭司が同じであると言う考えプラス、祭司職の意味、役割、激務などを理解していない、そして祭司の任務定年が50歳だから、聖書を教える人も50歳定年ではないから、神のトラーが終了した証拠が書かれていると言うその様なめちゃくちゃな飛躍の理屈付けの理解は、完全に聖書から逸脱した思考回路である!その様な教えを伝授される人々は、神の言葉を誤解してしまい、そう言う聖書とは関係のない人が考え出した教えの負のサイクルの教えで聖書が解き明かされ、解説されてしまっている嘆かわしい状況があると言う事でもあるのです。

 

続く