大祭司アロンの子ら ナダブとアビフの犯した罪の意味は | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

レビ記の中に記されたミシュカンが稼働する時の内容には深い深い真理、教えが詰まっていてそれが記されています。

1つ1つが私達へ同じ教訓、同じ教えを意味していて、そして

その事実は聖書の他の様々な箇所と全部繋がっています。

 

私達イエシュアに繋がる人達は皆神の宮であると言う意味を、

神の言葉でその意味を伝えている、トラーの中から先ず深く知る事が必要です。

地上にミシュカンを作らせた目的は、イエシュアを教えるツール

でもあります。人であり神であるお方が地上に来られる事、永遠の中にある贖いの業、完了の業、罪の赦しの意味、神が人と共に住まうと言う事を、五感を通して体験的に経験する事で教えていたのです。

ヨハネが書いた言葉=トラーが肉体を取って人の間に住んだと書いてある意味は、地上に於ける天のシャドーコピー、天の現実にある神の家の影=地上の神の家の中で体験的に教えられていた事、トラーが実際に肉体を取って地上に来られたイエシュアの事なのです。

そして神であり人であるお方が人の間に住まう事をミシュカンを通してずっと教えていたからです。

ミシュカンの中で教えられた内容は、イエシュアであり、恵みと

真理に満ちていたとあります。

 

ヘブル1:14にある通り、言葉により全てが造られ神の言葉により万物は支えられている。言葉=イエシュアであると言う理解が彼らの中には基本的にあるのです。彼らの耳には、イエシュア=トラーと言う理解があるのです。異邦人には無い理解。

聖書にはそう言う意味で書かれています。

ヨハネ1:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

神の栄光=イエシュアの実態は、ミシュカンを通して人の間に

存在し住まっていた。火の柱、雲の柱として荒野を付いて来た岩としてずっと共におられた神、イエシュアとヘブライ人ならそう理解してこの箇所を読んでいるのです。

シナイ山で婚姻契約を受け取った後、荒野で初めてミシュカンが物理的に作られて、ミシュカンの中で見て体験した恵み真理=

イエシュアの実態をヨハネは書いています。

その地上の影は天の現実、イエシュアの実態であるとヨハネは

福音書の冒頭で説明しているのです。

 

いきなり人であり神であるお方が地上で人の中に現れても、それを理解する事は難しいでしょう。でもイスラエルはずっと最初からイエシュア=人であり神であり人の中に住まうと言う事実を様々な事を通して教えられていたのです。

神の宮に住む人達は、神の子ら、個人個人そして集合体全体=神の家族として、神の栄光を反映して生きる人達である事をミシュカンを通して教えているのです。神の民の生き方を神の家を通して教えていた、それがモーセの五書に記されているのです。

それも安全な方法で教えているのです。

 

ミシュカンが稼働する時に先ず捧げられているのは、ハターの

捧げ物です。ハターとは知らない間にズレている罪、意識に上らないまま潜んでいる罪の事です。無意識にやっているズレ、罪。

でもそのままでは神の前に出る状態では無い事をミシュカンの中に入る時の様々な儀式で教えているのです。それら人の中に隠れたものが明らかにされ、本来の状態になって初めて神の御前に出る事が可能になる事を教えています。コバン=近く、引き寄せると言う意味の、捧げ物、生贄と訳されていますが、それらの動物の内臓まで出して全て洗って祭壇に出す。

 

これらは隠れた場所に潜むものを全部すすがれている事を意味しているのです。腹の中をトーチを持って隠れた歪みを探って下さいと詩篇にある通り、隠れた場所にあるズレも神が探し出し指摘してくださり、要らないものを処分させられるのです。これは

パン種の教えにも繋がり、マッツア=要らないものがそぎ落とされた状態に戻って神のみ前にまっさらで出る事を教えられているのです。

ミシュカンの中で教えられている事を学ぶと様々なことが見えてきますし、聖書が1つとして繋がっていること、福音書以降、

書簡の中でパウロが説明している内容など、このミシュカンの中で教えられている事を話している事に気が付けます。

そして聖書は3つの糸で全部綴られている事を発見します。

聖書は創世記から黙示録まで一貫して同じ教え、同じ福音、同じ事を語っている!!!と言う永遠に事実に先ず頭脳思考回路を

切り替えて聖書を読んでみないとならないのです。

福音書以降、昇天以降別の教えが出現、別のグループ出現、別の契約受け取り代表者に切り替わった!これら全て異邦人の単なる

勝手な非聖書的な発想であると言う事に本当に気が付けば、

聖書に書いてある真実が誰にでも見えて来るのです。

 

1 メシア 2 トラー 3福音

 

人が肉の目から見た思想や神学を通して聖書が2つに分断されたものであると言う教えから聖書を見て読んでいたら、いつまで経っても神の言葉が1つである!と言う事実に対して盲目のままになってしまいます。神の言葉に目隠しされた状態で神の言葉を読んでいる状態に留まっていると言う事なのです。

 

異邦人クリスチャンは福音書以降に神の言葉が深く明らかにされて新しい教えが記されているからそれだけ読めば良いと教えられますが、事実は全く違います。

最初の部分が濃厚濃縮全ての必要な神の教えはそこに書かれていて、福音書以降は最初の部分の短い解説なのです。最初の部分を深く理解すれば福音書以降には何が書かれているのか容易に理解出来るのです。

なぜなら福音書以降は、タナック=トラー、預言書、諸書の短い抜粋の解説に過ぎないからです。しかも聖書に登場する人は福音書以降は聖書として全く知らない、存在さえも知らないのです。

この永遠の事実から考えれば理解出来るでしょう。

彼らの教科書はタナックのみ!なのです。

聖書を手に取り立てて見てみれば、福音書以降は聖書全体の

25%の量しかないのです。

その理由は、聖書の最初の部分に必要な事が全て書かれているから、最後の部分で重複して同じ内容が全部書かれていないからです。そして聖書の最後の25%は最初の75%の短い注解であるからです。しかも福音書以降には最初の75%とは異なる新しい教えなど1つも記されていない事実を多くのクリスチャンは知らないし、新しい教えが書かれていると誤解して福音書以降を読んでいると思います。

 

地上のミシュカンに仕える大祭司達は、神の前に他の人と分かたれた特別な任務役割を担わされました。

これは本当に致命的重大な役割を担わされているのです。

 

地上の大祭司の役割は、天の大祭司イエシュアを代表、表す、

正確に反映する役割を託されました。どう言う意味なのでしょう?地上に鏡があるなら、その鏡=地上のレビ族のアロンの家系の大祭司、天のメルキゼデクの位ユダ族のイエシュアの実態を

地上の鏡〜大祭司として正確に反映しないとならないと言う事です。

人がずれる時はどんな時ですか?神の言う事=神の言葉、教えを無視し、神の性質ではない思想と行動をする事、それが罪をもたらすものです。

だから神の言われた事に反した事をする=ズレ=罪であると記されています。

大祭司は神に言われた通りそっくりそのままを生きて表し、人々にイエシュアを正しく伝える役割を与えられたのです。

 

その人達は普通一般の人達と分かたれている、聖別された任務を与えられました。

そのアロンの息子のナダヴとアビフは何をしたのでしょう?

 

レビ記10:1アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。 

2すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。

3モーセがアロンに、「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」と言うと、アロンは黙した。

 

ここを読んで分かる事は、大祭司であるナダブとアビフは神が言われた事と違う事をしたと言う事です。彼らは何をするべきで、何をしてはならなかったのでしょうか?

彼らが犯した罪=人間の手で自ら起こした火で祭壇に捧げた事、

神は彼らに何と言いましたか?神が天から下された火で祭壇に

捧げ物をしなくてはならない、この神のインストラクションを

無視して破り、神が言われた事とは違う事をしたのです。

 

そして、彼らがどうしてそんな事をしたのか?その説明は全く書かれていません。だから憶測しか出来ないですが、どうして神が言われた事とは違う事をするの?と思いませんか?これ一般の

クリスチャンも、普通に当然のごとくやっている事に気が付きませんか?聖書を読んでそこに書かれている事が分かれば、必ず

何が神の伝えている教えで、何が伝統の人間が作った宗教の教えなのかの違いに気が付けます。そして神の言葉を理解する上で

絶対に気が付かなくてはならない真理、点でもあるのです。

 

神の言われたことをやらない、言われていない事をやる、これはずっと宗教の教えの世界で人間が作った教えを生きて、神の言われたことをしない、言われていない事をすると言う事をやり続けているのです。自分の理由づけでそれらを正当化する。自らきよめ自ら聖別し園に入り、神の禁じられている事をしたとある預言書に記されている内容と同じです。

 

大祭司は特別に重たい責任があります。イエシュアの実態を地上で表す代表者役割があるからです。神が言われた通りではない事

をするとはどう言う事を意味しますか?

 

神の名=実態、評判、性質を、歪めて人に伝えてしまう事をしてしまう事です。

地上で神の臨在が住まう場所は聖別された天にある神の家のシャドーコピー=影であるレプリカです。目に見えない天の神の家の

実態=本体を地上で物理的に見える様に影として表されたものです。神の言葉も同じです。目に見えない神の現実を神の言葉で表し、神の性質通りを生きる人達を通して地上に神の実態、栄光、性質をそっくりそのまま反映し伝える役割が神の子ら=神の宮でもあるのです。

神の言葉で伝えている内容を歪めたら、神の現実は現れ出ません。

だからイエシュアを代表する大祭司自ら神の言われた事と違う事を人々の前でしてしまった事、しかも神のミシュカンが稼働する

大事な儀式の時にそれをしてしまったのです。

 

神のインストラクションをどうして無視したのか、それは記されていないので知るよしがありませんが、ナダブとアビフは神の

言われた事を無視した、蔑ろにした、軽くあしらって、自分達の考えで様々に行動し、神を代表しているかの様に振る舞った行為は神の前にどの様に映るのか、その究極がここには記されているのです。

 

そしてその様な神の代弁者は神が託した役割を果たしていない事になります。そしてその様な大祭司は死にふされました。

神の意図通りを伝えないでアレンジして歪んだものを人に勝手に伝えてしまう意味は、神の純粋な教えや意図を人が理解する妨害をする事だからです。

天の現実をそっくりそのまま伝えるのが大祭司の役割だったのに

ミシュカン稼働の最初から、とんでもない事件に発展する行動を

ナダヴとアビフは起こしてしまいました。

でもここに居た人達の反応は様々だったでしょう。神を畏れると言う基本的な事を、耳あるもの目が開かれた人は理解したでしょう。

いつの時も同じです。問題の根はエデンの園のあの事件に繋がり

同じ性質である事が、この様な事件を通してずっと教えられているのです。

 

 

続く