神の似姿性質を地上で周りに反映するのは神が伝えた通りをそのまま生きる事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書は二つに分断された2つ別物の教えが書かれていると言う

偏見がクリスチャンの中に根強くあり、神の言葉は歴史の中で

前後意味が違う教えをしている、そして異邦人とユダヤ人では

生きる教えの内容が違うなどとも説明し続けています。

 

でもそれは聖書に記された神の言葉の事実とは全く異なる!と言う事に気が付いていない、人の教えを聖書であると考える人が唱えている教えです。この点に気が付けない場合には、聖書を絶大に誤解したまま読み続けてしまいます!

聖書には神の言葉は終わった!と書いてあると言う大変な誤解を異邦人はしています。

 

聖書の最初の75%の教えは、メシアが昇天された後変わったなどと言う異邦人が編み出した思想を通して聖書を読む場合、神が何を人に教え伝えようとしているのか、神の深い思索がその人には伝わらないままになってしまいます。

メシアを信じないユダヤ人は、一般的には福音書以降は読みません。なぜなら異邦人が伝えている七変幻の神やら、契約は異邦人に神が代表者を移したとか神の言葉を変化させ、曲げてしまった異邦人創作の教えのお陰でこれはタナックに記されている救い主では無い!と当然の如く考えているからです。その通り、それはタナックに記されているメシアとは異なるものだからです。

そして、長い歴史の中の迫害などで、イエシュア=迫害をする人達のリーダーなど様々な誤解を彼らもしているからです。

 

でも、トラーを知るユダヤ人が掛け目なく、福音書以降を読めば

その中に記されているのは、トラーである!と言う事に気がつけるのです。読みさえすれば分かる!と言うこと。でもそれをしないのは、偽の教え=人が作った教えや思想が妨害しているからなのです。だから正しく聖書をその通りに語らないとならないのです。

どの人に対しても、聖書に書いてある内容を正しく理解し語り

生きなくてはならない理由は、神の性質、現実を正確に反映して

生きていない、イスラエルの神の性質が偽の教えやズレた生き方

からは現れ出てこない、だから神の言葉が語る通りを語り生きなくてはならない責任を神の子らは負っている事が聖書には記されているのです。

 

神の宮であるとクリスチャンも言いますが、神の宮の定義は

モーセの五書に記されているものがそうなのです。天の大祭司

イエシュアに属する人達は、神が伝える性質、生き方を地上で

正確に反映する人達でなければならない事が聖書には記されているのです。

”自分定義の聖別” ”自分定義の神の宮”は、神が伝えるそれとは

異なる別物になってしまうのです。神の伝える言葉に照らし合わせて常に考え続け生きる事、生きる事=キリストと言う言葉は

イエシュアが生きられた通り、父の教え=トラーに記された事を

イエシュアが生きた!と言う永遠不変の揺るがない事実に戻り

考えなければならないのです。

 

タナックの中で他の箇所は読まなくても、箴言や詩篇だけは

多くのクリスチャンは特に良く好んで読むと思いますが、

その中に記されている教えは、モーセの五書に記された知恵を生きる事が記されているのです。

箴言、詩篇の著者はモーセの五書が彼らの”教科書” ”テキスト”であり、モーセの五書以外の他の教えを書いている聖書記者は誰一人存在しません。

 

聖書に記された神の言葉!寝ても覚めても神のトラーを思い巡らし、そして子供らに次の世代にずっと神のトラーを教えなさいと神が言われた言葉通りに戻り、神の口から直接語られた言葉を

文字で読み、考え直したら見えます。

 

ヨシュア1 :7ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じたトラーをすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。 8このトラーの書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。

 

詩篇の記者も同じ神の言葉を記しています。

 

詩篇1:2主の教え=トラーを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。

その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 

ここで考えないとならないのです。神は神の子らに常に神のトラー=モーセの五書=父の言葉=神の教え、インストラクションを思い巡らし神の教えを生きよ!と伝えています。

でも異邦人の教えは、神の教えを捨てて忘れよ!と真逆の事を教え続けています。

神は神の言葉を瞳のごとく守り生きよ!と言いながら、後に

それは古い教えだからもう忘れて!などといつ神は言いましたか?そんな事が聖書のどこに書いてあるのでしょう?

 

神の言葉でそう書いてあるなどと考える場合には、その聖書箇所を誤解して解説する教えを通して考えているから、そう思い込んでいるだけです。神が神の言葉を否定したら、イエシュアが言われた通り神の国は立ち行かなくなり、内部分裂します。

神がご自分の語られた完全である言葉を否定する必要、止める必要は100%ないからです。矛盾だらけの教えを本物!と考えるのは騙しの下にある!と言う事を聖書から発見すればと見えます。

本物の羊飼いと偽物の羊飼いの声を聞き分けて!とイエシュアが

言われたのは、父の言葉=トラーであるのか、それを否定する教えなのか、その二つなのです。

 

今の時代に偽物と本物が明らかになり、闇に潜んで隠れていた悪は堂々と表に現れ出て来て、そして人に正しくない偽情報を流し洗脳して行く、この仕組みを理解すれば、その中で正しい情報を捉えて、正しい情報=神の言う真実を神の言葉から掴んでその中だけで考え続けると言う事をすれば良いのです。

 

天の大祭司メルキゼデクの位に属するユダヤ人イエシュアを

地上で反映する地上の大祭司はレビ族アロンの家系の男子です。

神が命じて作られせた地上で目に見えて触れて体感する、神の

臨在が住まう場所、それがミシュカンでした。

ミシュカンで教えられた事は、イエシュアです。恵みとまことに

満ちていると言う実態をミシュカンを通して神は教えられたのです。

そのミシュカンに仕える大祭司達を、ミシュカンが稼動する前に

準備させた事がレビ記8章に記されています。

 

神は大祭司達に神の教えを昼も夜も考えて過ごす7日間を与える必要があったのです。大祭司達が神の言葉、教えに聞かないで勝手気ままに色々教え、振る舞い、行動する様な意識があったら、神が伝える事を人にそっくりそのまま伝える任務は出来ないからです。

神の言葉、教えでは無い人間が作った勝手な思想を人に伝達したらそれは神の前に大罪です。

人を命を生み出す生き方に導く役割が出来なくなります。

今も同じです。神の言葉を教える人達は、神が伝えてもいない

人間の思想=勝手な思想を教えていることに気が付かないと危険な領域にいる!と言う事実があるのです。

 

だから最初に大祭司達が先ずは自らのズレを軌道修正しなければならない事が記されています。

どの聖書箇所も、どの時代も、どの人も、重大問題は神が伝えている事とは違うことを人に教え、伝えそして神の意図とは違う事を実行する、させる!これはエデンの園から同じ問題、単純であるから人は簡単に神の言葉言われたことを無視して自分の考えを述べ、実行してしまう事それが警告としてイスラエルに起きた様々な出来事、事件で同じ警告が神の教えとして語られている事に注目して読めば、神が伝えている事実がはっきり理解出来ます。

私達が自分勝手な思想で勝手に神を代表する代弁する事を神は

禁じられている事、イスラエルに起きた出来事でもそれを教えているのです。

8日目が来て、神ご自身が現れ出てミシュカンが稼働します。

その場に居た人達はどの様な興奮と感動だったのでしょう。

彼ら出エジプトした人達は肉眼で体験的に神の奇跡や救出を

体験し続けて来ているのです。そして地上で初めて神の臨在が住まう神の場所=ミクダシュ、ミシュカンが作られ稼働する時の

事がレビ記9章に記されています。

 

22アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、 23モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。 24そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。

 

エジプトを出た後、荒野ので雲の柱、火の柱が付いて来ました。これらも自然に発生したものでなく、神が天から送ったものなのです。

そして次に何が起きたのでしょう?

 

レビ記10:1アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。 

2すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。

3モーセがアロンに、「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」と言うと、アロンは黙した。

 

規定に反した炭火とありますが、神が直接下さられた火で全ての

捧げ物は焼き尽くされるのに、大祭司の役割をするアロンの息子達のナダブとアビフは、異なる場所から来た火=人間の手で起こした火を持って主の前に香を焚いて捧げたとあります。

 

そして、”主が命じられたものではない”事をしたと書いてあります。まずここで色々考えますよね。なんて神は厳しい処罰をするの!怒りの神だ〜これくらいで人を死なせるのか!?て思いませんか?それは肉の目のまま神の思索ぴったりに考えていないからです。これも同じですよね。知識の木の実から食べて死ぬ!

それくらいの事で人が死ぬのか?怒りの神!?

こう言う思考回路のままでいたら、いつまでたっても神が語る事実の意味が何だろうかと言う所までに目を向けて考える事が出来ないまま、イスラエルの神って昔は怖い〜怒りの神!などと言う浅はかな結論に落ち着いて、怒りの神の神像からずっとイスラエルの神が伝えている本物の性質の神像を誤解し、曲げて考え続けてしまっているのです。

 

それほど人は神の言葉、教えに反する事をしたら、死、別離、解離を招く!と言う事実を考えないとならないのです。

神は人間ではない、神はきよい存在であり、偽物、嘘、偽りや

汚れと交われない!と言う事をはっきり知らないとならないのです。

原子炉に近づいたら命の危険がありますよと言われて、それを無視するのは愚かであり、それと同じ事を人はしているのです。

しかも、これ位どうって事ないさと、神の言葉を軽く考えてしまうし、そして語られている事もそんなに難しい事ではないからです。命の木からだけ、神の言う通りからだけ、知識の木の実は

食べてはならない。簡単ですよね。理解不可能な内容でもない。

神がダメと言われた事はダメ!と言う認識があればむずかしくない、でも人は神がNoと言われた事を平気でして、そして神がこの様にしなさいと言う事をしない!この繰り返しをしているのです。

 

聖書の最初からエデンの園から人があるべき状態から飛び出て

それが破壊に向かう原因は、神の言葉を無視して違うことをしたから!全部そうなのです。

この事件から神は様々な事を私達に対して教えています。

 

続く